天然居士の独り言

主に日記主体のブログです。

66・・・

2018年11月30日 19時52分57秒 | 日記
 今更、年を隠すのもどうかと思いますので、正直に書いてしまいますが、
 僕は、66歳になりました。
 誕生日は12月1日ではないかと思う方もいるかも知れませんが、
 12月1日は戸籍上で、本当は今日が僕の誕生日です。
 11月30日の午後8時過ぎに生まれたと聞いています。
 月末よりは月初めの方が良いだろうとの事で、12月1日に誕生届を出したとの事です。
 昔の事ですから、大らかだったのかも知れません。

 下野新聞には、生まれ月による運勢欄があります。
 その運勢欄を見るのに、11月生まれを見るべきか12月生まれを見るべきか、
 分からない位が不都合な事で、他には特にありません。
 当然の事ですが、どこでも誕生日は12月1日を使っています。
 本当は11月30日なのを知っている人はごく少ないと思います。

 66歳には、少し思い入れがありました。
 僕の父は、66歳になる6日前に亡くなりました。
 そんな事から、昨年の誕生日から、65歳を超えられるかどうか気になっていましたが、
 どうやら無事に66歳になれました。
 今日の残り数時間の内に、僕が突然死する可能性もゼロではありませんが、
 まぁ大丈夫でしょう。
 寿命の点で、親父を超えて良かったと思っています。

 亡父は胃癌でしたが、それほど痛みで苦しむ事もなく、
 自宅で息を引き取りました。
 最期まで僕は枕元にいましたが、
 昭和の次の年号は何になるのだろうと言ったのが最後の言葉でした。
 昭和の次の平成も、間もなく終わる事が決まっています。
 何となく時の流れを感じています。

 ここまでの事、わざわざ僕の出生の秘密まで暴露(大袈裟ですが)して、
 何で今日書いたのか、不審に思われる方もいらっしゃるかも知れません。
 その通りなのですが、実は明日から出掛ける事にしているため、今日書きました。
 ご存知の方もいるかも知れませんが、JR東日本の大人の休日俱楽部切符が、
 昨日から始まっています。
 切符の使用期限の12月11日までの間、少しずつ予定が入っているため、
 連続した4日間の条件をクリアできるのが、明日からの4日間だけなのです。
 行くのは、全てJR東日本管内です。
 これまでと同様、全て日帰りですし、日が短くなっていますので、
 帰宅はそれほど遅くならないと思いますが、
 色々ありますので、日記などは休ませて頂きます。

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眼鏡・・・

2018年11月29日 18時06分11秒 | 日記
 一昨日、免許の更新に行って来ました。
 前に通知を受けていたのですが、
 ゴールド免許ですから、5年間顔写真が変わりません。
 床屋に行って、ネクタイをした写真にしたいと思っていました。
 一昨日は、頼まれている委員会の会議があり、
 場所も警察署の近くですし、ネクタイも締めて行きますので、
 丁度良いと思って、先週床屋には行っておきました。

 今回、免許証の眼鏡付きの条件を外すよう頼んでみるつもりでした。
 5月に人間ドックを受けた時に、裸眼で視力が両方0.9と言われたので、
 それならば眼鏡をする必要もないかなぁと思っていました。

 僕が眼鏡をするようになったのは、大学生の時でした。
 大学の大きな教室では、前の方に行かないと黒板の字がよく読めません。
 出来れば、後ろの席に座っていたかったので、不便です。
 映画を観に行くと前の方に座りたくなるので、評判が悪かった事もありました。
 僕の友達の妹が、
 「眼鏡をするようになったら、街の中で人に会うようになった。」と
 言っていたのに背中を押され眼鏡をするようになりました。
 眼鏡をするようになって、世の中が綺麗に見えるのに驚いた覚えがあります。
 それほど視力が悪い訳ではなかったですし、余り眼鏡が好きでないので、
 本を読む時など、家の中では眼鏡を外す事がほとんどでした。

 警察署の受付の方は綺麗な女性でした。
 交通安全協会への入会を促されましたが、お断りしても嫌な顔をせずに、
 裸眼でお願いしたいと言ったら、すんなりと裸眼で検査してくれてOKが出ました。
 年配者の中には、そのような人も時々いるとの事で、
 彼女も慣れているような感じでした。
 その後、簡単講習のビデオを見て、やはり彼女に写真を撮ってもらいました。
 どのように撮れているかは、来年の1月になって新しい免許証が出来たら分かります。

 最も眼鏡が必要な免許証の条件が外れたので、
 少し眼鏡なしの生活に慣れるようにしてみようかと思っています。
 眼鏡はしていても、
 絵を観たり文字を読んだりする時は眼鏡を外すのが多かったですから、
 何のための眼鏡かとも思っていました。
 気になるのは遠くですが、どうなるでしょうか?

 僕が眼鏡をするのは好きではありませんが、
 眼鏡をした女性は好きです^^

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河井継之助・・・

2018年11月28日 19時51分16秒 | 日記
 河井継之助については、何度か書いて来ました。
 タイトルをご覧になって、またかと思われる方もいるかと思いますが、
 角度を変えて書いてみますので、お付き合い下さい。

 僕が最初に河井継之助の名前を知ったのは、
 中野好夫の「世界史十二の出来事」だったと思います。
 その中に「蒼龍窟 河井継之助と北越戦争」があります。
 中野好夫は英文学者ですが、
 一方で「淮陰生」の名で、岩波書店の広報雑誌「図書」に
 「一月一話」のコラムを書いていました。
 このコラムは高校の頃から大好きでした。
 この「世界史十二の出来事」は、1954年に新潮一時間文庫で出版されています。
 新潮社が、当時の新書ブームに乗って始めたもののようです。
 「世界史十二の出来事」は、
 その後新人物往来社、文春文庫、ちくま文庫で出版されています。
 僕が読んだのは文春文庫です。

 司馬遼太郎が「峠」を毎日新聞に連載を始めたのが1966年(昭和41年)11月ですから、
 中野好夫の方が先に注目していた人物だと言って間違いはないと思います。
 しかし、「峠」が河井継之助の名を広めたのも間違いないですね。
 連載終了後、上下2巻の単行本が出版されました。
 学生時代、司馬遼太郎の作品が好きでよく読んでいましたので、
 河井継之助の名を見て飛びついた覚えがあります。
 「峠」によって、河井継之助の人物としての肉付けが出来ました。

 河井継之助は、陽明学徒で、備中松山(現在の高梁市)の山田方谷に弟子入りしています。
 どんな所だろうと思い、昔、高梁市には行った事があります。
 しかし、河井継之助の生まれた越後長岡には、行った事がありませんでした。
 越後長岡は、北越戦争で焼け、戦災でも焼けていますので、
 古い物が残っていなくて、河井継之助の足跡を辿る事も出来ないと思っていました。
 2006年(平成18年)12月27日に、長岡市に河井継之助記念館が出来た事を知り、
 その内行こうと思っていて、今年の7月にようやく行く事が出来ました。
 河井継之助の邸宅の跡に建てられた記念館です。

 河井継之助記念館は、もう1か所あります。
 それが、福島県只見町の記念館です。
 河井継之助は、長岡城の攻防戦で負傷し、会津若松に行く途中の只見町で亡くなります。
 終焉の地にも記念館が出来ている訳です。
 この存在も、かなり前から知っていましたが、やはり不便な所なので、
 中々行けないでいましたが、
 先月、奥会津に行く機会があったので、行く事が出来ました。

 同じ人の記念館が生誕の地と終焉の地にそれぞれあると言うのも珍しいと思います。
 それで、僕の行った所を載せているブログ「栃木県内見て歩る記」に、
 昨日は長岡の記念館、今日は只見の記念館を載せました。
 本当は、ある程度の間隔で載せるつもりだったのですが、
 どうもこの先の見通しは、かなり遅くなりそうなので、今日アップしました。
 宜しければご覧下さい。
 https://blogs.yahoo.co.jp/tennnennkozi

 それぞれの記念館は、河井継之助を美化し過ぎているのではないかと気になりました。
 河井が優秀な人物であったことは間違いありません。
 その戦術について、石原莞爾が陸軍大学校で卒業論文に取り上げていますので、
 戦術面でも優秀な人だったのでしょう。
 しかし、優秀であったからこそ、越後長岡の町は戦火に遭った訳です。
 長岡城を新政府軍に占領されてから、奪い返す間に2か月ほどの期間があります。
 この間、激しい戦闘が行われていましたが、
 長岡藩では、百姓一揆も起り、その鎮圧に時間が掛かった事も遅くなった理由です。
 鎮圧を指揮したのも河井継之助です。
 陰の部分も含めて、客観的に理解しないといけないと思っています。

 最近、『峠 最後のサムライ』のタイトルで映画化される事が公表されました。
 封切りは2020年の予定との事ですが、
 河井を役所広司さんが演じる事になっています。
 監督は、「雨あがる」や「蜩の記」、最近では「散り椿」の小泉尭史さんです。
 どのような映画になるでしょうか?

 僕は、先日河井の旅日記「塵壺」を栃木県立図書館から借りて来ました。
 まだ読み始めていませんが、
 これを通して河井継之助の人物が更に分かれば良いと思っています。

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教誨師・・・

2018年11月27日 16時27分54秒 | 日記
 一昨日の日記に映画の話を書いて、しばらく映画を観ていないと気が付き、
 以前から上映されたら観ようと思っていた映画を思い出しました。
 昨日の午前9時40分からの上映に行こうと思っていましたが、
 寝坊してしまい、洗濯をする必要もあったので、
 午後3時15分からの上映にしました。
 その他、多少、細々とした事もあったため、日記は休みました。

 その映画は、大杉漣が最後に主演した「教誨師」でした。
 大杉漣は、ご存知のように、今年2月21日に急逝しました。
 彼は、主演するとともにプロデュースしていますので、
 精魂込めた映画だったのだろうと思います。
 長く日記を読んで下さっている方は、
 僕がかなり強固な死刑廃止論者であるのをご承知の事と思います。
 死刑制度をどのような観点で捉えた映画なのかも気になり、
 観たいと思った次第です。

 教誨師とは、刑務所や少年院等の矯正施設で、被収容者の宗教上の希望に応じ、
 所属する宗教・宗派の教義に基づいた
 宗教教誨活動(宗教行事、礼拝、面接、講話等)を行う民間の篤志の宗教家です。
 大杉漣が演じる教誨師の佐伯は、教誨師になったばかりのプロテスタントの牧師です。
 映画は、導入部もなく、死刑囚との対話で始まります。
 6人の死刑囚との対話の場面が、繰り返されながら話が進んで行きます。
 どのような罪で死刑を言い渡されたのかの説明もなく、
 全て対話の中で、彼らの犯罪が少しずつ明らかになって行くとともに、
 少しずつ死刑囚も変化して行きます。
 それと同時に、最初は上辺だけだった佐伯の言葉も、
 深みが増して行くように感じられました。

 何度教誨を行っていても、一言も発しなかった鈴木が、
 佐伯の兄が殺人を犯した話をすると、
 突然話をし出し、彼がストーカー殺人を犯した事が分かり、
 被害者の女性と気持ちが通じたと叫び、
 あの世で結婚するのだと言う辺りにストーカーの心理が表れていました。

 野口と言う女性死刑囚は、拘置所から出たら、また美容室を再建すると言っています。
 賑やかで話好きの大阪のおばちゃんと言う感じもしますが、
 死刑を言い渡された事を理解しておらず、自分の空想の中で生きています。
 しかし、突然カッとなる事で、事件がリンチ殺人だった事が分かります。

 文盲で、ホームレスの進藤は、佐伯から字を教わり、洗礼を受けます。
 脳梗塞か何かで倒れ、
 彼が宝物にしていたグラビアアイドルの写真を佐伯に渡しますが、
 その裏に、「あなたがたのうち、だれがわたしをつみにとえるだろうか」と
 書かれているのを最後のシーンで佐伯が読み、
 愕然とする佐伯の表情も良かったと思います。

 気の良いヤクザの吉田は、自分が犯した別の罪を告白し、
 刑務官に言うなと自分で言いながら、言わなかった佐伯に掴みかかろうとします。
 刑の執行を少しでも遅らせようとし、
 刑の執行が多い年末が近づくと、かなりナーバスになります。

 個人商店を営んでいて、経営が上手く行かなくなって家計の苦しい小川は、
 家族思いなのだけれど、家族の面会はありません。
 殺人を犯した経緯も状況も記憶にないと言うので、
 佐伯は再審を勧めようとして小川に逆に止められます。

 何らかの福祉施設で17人の大量殺人を犯した高宮は、佐伯に議論を吹っかけます。
 高宮にほとんど言い負けてしまう佐伯が、
 建前を述べる聖職者の立場を離れて、向かい合った時に、
 高宮に変化が生まれ、彼が執行の宣告を受け、茫然自失となりながらも、
 佐伯にすがりつく姿に、彼の贖罪の気持ちが表れているような感じがしました。
 手錠を掛けられ、目隠しの覆面をされた時に、
 「あれ?」と発する彼の一言はどのような意味があったのでしょうか?

 拘置所の1部屋で、6人の死刑囚と向き合い、話をする場面が大部分の映画です。
 低予算の映画のような印象を受けましたが、
 映画の中身は、人間の生き方とは何かを語り掛けるような感じで、
 重い内容でしたがとても良い映画だと思いました。

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フランシスコ法王・・・

2018年11月25日 20時17分50秒 | 日記
 今日のニュースに、
 23日、河野外務大臣が、バチカン(ローマ法王庁)を訪問し、
 同国のギャラガー外務長官と会談し、
 ローマ法王フランシスコが来年の日本訪問を希望していることを踏まえ、
 調整を進める方針で一致したとの記事が載っていました。
 実現すれば、1981年のヨハネ・パウロ2世以来となるとの事です。

 フランシスコ法王は、1936年にアルゼンチンの首都ブエノスアイレスで生まれました。
 2013年3月13日に第266代ローマ法王に就任しています。
 史上初のアメリカ大陸出身のローマ法王であり、
 史上初のイエズス会出身の法王でもあります。
 フランシスコと言う名前は、
 清貧の中に生涯を過ごしたアッシジのフランシスコから付けたような気がします。

 フランシスコ法王の半生が「ローマ法王になる日まで」の題で映画化されています。
 僕は、昨年10月26日にこの映画を観ました。
 ヒカリ座の招待券を頂いたから行ったのですが、
 それ以来、ヒカリ座に通うようになりましたので、
 言うなれば記念すべき映画でもあります。
 映画の概要は下記をご覧下さい。
 http://tennnennkozi.seesaa.net/article/460462712.html
 映画の中で、フランシスコ法王が神学校の学生だった頃、
 日本へ布教活動に行く事を希望しますが、却下されるシーンがありました。
 来日されると、この若い頃の希望が実現する事になります。

 法王就任が決まった後の初めての記者会見で、
 「私は貧しい人々による貧しい人々のための教会を望む」と語っています。
 また、就任式では
 「弱者と環境を守ることが、死と破壊に勝利する方法である」
 「最も貧しく弱き者を抱擁する」と、
 教会の役割として社会的弱者の救済と環境保護を強調しています。
 教皇就任式を控えた時期に、母国アルゼンチンの人々に対して
 「ローマに来る飛行機代があるなら、それを貯金に回すか、
  貧しい人に寄付するかして欲しい」とメッセージを発しています。

 フランシスコ法王は、アッシジのフランシスコと同じく、
 平和への思いが強い事でも知られています。
 2015年8月9日の「日曜日のお告げ」に際し、
 法王は
 「広島市と長崎市への『恐るべき』原子爆弾の投下から、ちょうど70年を迎える」、
 「両都市への原爆投下は70年もの長い時を経ても
  なお私たちに恐怖と嫌悪を誘発させる」と発言したうえで
 「広島と長崎への原爆投下は科学と技術のゆがんだ使用がなされたときに起きた、
  人間性の巨大な破壊の象徴である」と述べています。
 日本に来られる事を希望されている法王は、
 広島・長崎を訪問する事を望まれるかも知れません。

 フランシスコ法王は、精力的に世界各国を訪問し、
 他宗教との協調などを進めて来ました。
 また、小児性愛の問題など、教会内部の問題にも毅然とした対応を示しています。
 民衆の苦しみを理解する、尊敬すべき法王だと思っています。
 是非、日本に来て、平和の尊さ、貧しい人への支援、環境の保護など、
 安倍総理大臣に説いて欲しいような気がします。

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斎藤清と川上澄生・・・

2018年11月24日 19時59分05秒 | 日記
 先月の28日、福島県の柳津町の斎藤清美術館に行った事は日記に書きました。
 その時にも書きましたが、斎藤清は福島県の会津坂下町の出身の版画家です。
 僕は特に、会津の雪を描いた版画が好きです。

 その斎藤清と川上澄生の版画展
 「斎藤清と川上澄生 版表現のいろどり」展が鹿沼市の川上澄生美術館で開かれていて、
 期間が明日までなので、今日行って来ました。

 川上澄生美術館は、鹿沼市が開設した美術館で、可愛らしい建物の良い美術館です。
 詳しくは下記をご覧下さい。
 https://blogs.yahoo.co.jp/tennnennkozi/63627987.html
 川上澄生は旧制宇都宮中学の英語の教師をしながら版画の制作をした人です。
 戦後は宇都宮女子高の講師をしていました。
 1926年(大正15年)、国画会に木版画作品「初夏の風」を出品し、
 川上澄生の代表作となっています。
 棟方志功はこれに触発され版画家への転向を決意したとのエピソードがあります。
 南蛮趣味と言うのでしょうか、独特の雰囲気の作品が多く、僕も好きです。

 先日、宇都宮市内で青木理さんの版画の個展に行った事も日記に書きました。
 青木さんとお話をしましたが、
 宇都宮では版画をやっている方が多いですねと話をしたら、
 やはり川上澄生の影響は大きいでしょうとのお話でした。

 そのような訳で、好きな版画家二人が名前を並べた展覧会ですから、
 これは行かねばと思った次第です。

 川上澄生の作品は、川上澄生美術館所蔵の版画を中心に、
 川上の創作の全体像が分かるような展示になっていました。
 僕の好きな南蛮趣味の版画も何点か出ていました。

 斎藤清は、福島県立美術館と柳津の斎藤清美術館所蔵の作品が出ていました。
 1936年(昭和11年)の日本版画協会展で初入選した「少女」は、
 油彩画のような多色刷りの版画でした。
 また、1951年(昭和26年)の第1回サンパウロ・ビエンナーレに出品し、
 在聖日本人賞を受賞した「凝視(花)」も出ていました。
 そして会津の雪の版画です。
 1938年(昭和13年)と1940年(昭和15年)の作品3点と、
 1987年(昭和62年)の作品2点が出ていました。
 50年近くの歳月を経て、やはり完成度が全然違うと思いました。
 戦前の素朴な感じの作品も好きですが。

 美術館が小さいので、作品は全部で68点でしたが、
 二人の作品の全貌が分かるような良い版画展だと思いました。

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旅人たちの歴史・・・

2018年11月22日 18時15分03秒 | 日記
 去る10月20日に、菅江真澄について日記を書きました。
 宮本常一が講演をしている本を読んで、概略が分かりましたが、
 その本は「旅人たちの歴史」と題する、未来社から出版されて3冊のシリーズでした。
 1冊目が野田泉光院
 2冊目が菅江真澄、
 3冊目が古川古松軒とイザベラ・バードでした。

 菅江真澄を読み終えてから、県立図書館で1冊目の野田泉光院を借りようとしたら、
 3冊目はあるのですが、1冊目がありませんでした。
 図書館の方が親切に調べてくれて、県内のある市の図書館に1冊目ある事が分かり、
 取り寄せてくれるとの事だったので、お願いし、3冊目を先に読みました。
 先日、「野田泉光院」が届いたとの知らせを受けて、借りて来ましたが、
 今日、それを読み終えました。

 1冊目を読んで、初めてこのシリーズの成り立ちが分かりました。
 このシリーズは、
 宮本常一が日本観光文化研究所の所長をしていた時の、
 1974年(昭和49年)秋から1979年(昭和54年)春まで、
 毎月1回土曜日に開催されていた講読会での宮本の話を
 テープ起こしをして、本にしたものでした。
 日本観光文化研究所は、1989年(平成元年)に解散しています。
 聴講者は、主として研究所の所員や、研究所に出入りしていた若い人だったようで、
 主目的は、民衆社会の世相史を調べる事にあったようです。
 江戸時代から明治にかけて、国内を旅した人々の記録を題材にして、
 宮本自身の戦前から戦後にかけてのフィールドワークを踏まえながら述べたものです。
 題材にした資料をサッと読んだのでは見過ごしてしまいそうな点を、
 詳しく述べていますので、研究者には大変参考になったのではないかと思います。

 宮本の最初の講演では、
 日本には様々な紀行文があるが、文学として書かれているので、
 どうしても虚構が入ってしまうと述べています。
 松尾芭蕉の「奥の細道」は優れた紀行文だけれど、やはり虚構が入っていて、
 曽良の「随行日記」の方が真実を伝えているとの事でした。
 しかしながら、幕末になると真実を述べた紀行文が現れて来るとの事で、
 宮本が優れた紀行文として挙げているのが、
 野田泉光院の「日本九峰修行日記」、
 菅江真澄の著作、
 河井継之助の「塵壺」、
 古川古松軒の「東遊雑記」、「西遊雑記」、
 清河八郎の「西遊草」、
 芝居役者の中村仲蔵の「手前味噌」、
 吉田重房の「筑紫紀行」などです。

 河井継之助は、僕も何度か書いていますが、
 「塵壺」が、そんなに宮本の評価が高いとは思いませんでした。
 東洋文庫に入っているようなので、出来れば読んでみたいですね。
 清河八郎は、新撰組の母体となる浪士組を組織し、後に江戸に呼び戻されて
 暗殺された人物です。
 彼の日記が残っているとは知りませんでした。

 日本人よりも外国人が記述した文章の方が
 日本の社会の実際を述べているとも述べています。
 キリシタンの神父が残した「耶蘇会年報」などが、
 当時の日本の状況を伝えているとの事です。

 シリーズ3冊を一通り読んでみて、
 民俗学関係の本を読む時の楽しみの1つである、
 目から鱗の思いを何度も体験、出来ました。
 とても良い1か月であったと満足しています。

 明日は、チョッと出掛けます。
 帰りが遅くなるので、日記などは休ませて頂きますので、ご承知おき下さい。

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街を歩けば・・・

2018年11月21日 18時25分20秒 | 日記
 皆さんにご心配をおかけしてしまいましたが、
 脊柱管狭窄症の具合は、大分良くなっていると思います。
 伊達の薄着ではありませんが、余り厚着が好きでないので、
 腰を冷やしてしまったのかも知れません。
 ここのところ、なるべく温かい服装にしていますし、ズボン下を穿くようにしています。
 風呂の中での前屈も続けているのが良いのかも知れません。
 歩いていて足の痺れも出なくなっています。
 そんな事から、街の中を引き続き歩いています。

 自宅の近くに美味しい蕎麦屋さんがありました。
 小母さん一人で営業している店で、何度か行っていました。
 蕎麦の量が少なくて、大もり700円と若干高めですが、
 カウンターの目の前に、小母さんが揚げた色々なかき揚げが並び、
 それが1個100円で、とても美味しいのです。
 先日、車で前を通った時に、この蕎麦屋がなくなっているのに気が付きました。
 その後、その店まで歩いて行き確かめましたが、やはり更地になっていました。
 以前行った時に、小母さんが、客がだいぶ減ってしまったと嘆いていましたので、
 営業を止めてしまったようです。
 残念な気がしました。

 少し離れた住宅地に、小さな八百屋がありました。
 お爺さんが一人で営業している八百屋でした。
 かつてはお婆さんも営業していたのでしょうが、
 僕が行くようになってからは、お婆さんは座っているだけでした。
 ご記憶されているかどうか分かりませんが、
 昨年の夏、1個100円の小玉西瓜を買った店です。
 その後も時々、前を通ると野菜や果物を買っていましたが、
 やはり先日前を通ったら、シャッターが下りて閉店する旨の張り紙がありました。
 その店に行くようになって1年余り、
 行っている時から、余り続かないだろうなぁと思っていましたが、
 実際に閉店されると、やはり寂しいものがありますね。

 何度か書いたかも知れませんが、毎週1度位は行く焼きそば屋さんがあります。
 自宅から歩いて20分程度ですから、良い散歩コースでもあります。
 先日、その焼きそば屋さんに行った時に、久しぶりに美人さんに行き会いました。
 彼女は、かつて店の近くに勤めていて、よくその店に来ていた顔馴染です。
 彼女と会うのが、その焼きそば屋さんに行く楽しみだった事も間違いありません。
 転職してしまったので、その後は会っていませんでした。
 その日は、近くまで仕事で来たので、懐かしくなって寄ったそうです。
 何年振りかなぁと言ったら、転職して3年近くなるとの事でした。
 彼女は、バツ1で小さな娘さんがいます。
 保育所に行っているその娘さんも、来春小学生になるそうです。
 しばらく彼女の話を聞いて、頑張るように言って店を出て来ました。
 3年経っていても美人は変わっていませんでした^^
 何となく幸せな気持ちになって、帰って来ました。

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カルロス・ゴーン会長・・・

2018年11月20日 18時22分30秒 | 日記
 昨日の夕方は、衝撃的なニュースが流れました。
 NHKは、大相撲中継を中断してニュースを流しましたが、
 災害などを除くと、異例の事だと思います。
 日産自動車のカルロス・ゴーン代表取締役会長が、
 役員報酬を巡る有価証券報告書の虚偽記載事件で、
 東京地検特捜部に取り調べを受けているとの速報でしたが、その後、逮捕されました。
 昨夜午後10時に日産は西川廣人代表取締役CEOが出席して記者会見を開きました。
 やけに手際が良いなぁと思いましたが、
 日産は独自に社内調査を進めていたようですし、
 東京地検特捜部と複数の執行役員らが
 日本版「司法取引」に合意していたと報じられています。
 言うなれば内部告発に近いもののようです。

 容疑の内容は、2011年3月期~2015年3月期のゴーン会長の役員報酬が、
 実際には計約99億9800万円だったにもかかわらず、
 計約49億8700万円だと有価証券報告書に虚偽の記載をした疑いとの事です。
 日産の記者会見では、上記の容疑の外、
 投資資金や経費を私的に支出する重大な不正があったと発表しています。
 今後の捜査の進展によっては、更に色々な事態が出て来るのではないかと思います。

 朝日新聞デジタルの報道によると、
 特捜部が各地から応援検事らを集めて捜査態勢を拡充したのは10月頃で、
 その数か月前に日産から情報提供を受けたとみられるとの事です。
 そして、昨日ゴーン会長の来日に合わせて、逮捕に踏み切ったようです。

 ゴーン会長が初めて日産のCEOに就任した時、
 イギリスの喜劇、「Mr. ビーン」の主人公に似ているなぁと感じましたが、
 その後、経営状況が悪化していた日産をⅤ字形に復活させました。
 経営のカリスマとして、一世を風靡した事は間違いないと思います。
 また、コストカッターとの異名を持っていましたので、
 多くの人の仕事や生活に影響を及ぼした事は間違いないと思います。
 リストラされた人、無理なコストカットを強いられた下請け企業の人々は、
 今回のニュースをどのような気持ちでご覧になっているのでしょうか?

 年間の役員報酬が約10億円とされていましたが、
 一般のサラリーマンの生涯賃金の何倍もの報酬を毎年受け取っておきながら、
 どうして、このような不正を行ったのか、僕には理解出来ません。
 持てる人は、さらにお金を集めたがるのが、お金の魔力なのかも知れませんが。

 「一人に権力が集中し、長年実力者として君臨してきた弊害は大きい」と、
 昨日の記者会見で西川社長が述べていましたが、
 腐権十年と言う言葉があるように、権力は腐るものです。
 ゴーン会長に限らず、そのような人が他にもいるような気がしてなりません。

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丹波篠山・・・

2018年11月19日 19時19分29秒 | 日記
 昨日、兵庫県篠山市で「丹波篠山市」への市名変更の賛否を問う住民投票が行われ、
 賛成が13,646票で反対の10,518票を上回り、
 同時に行われた出直し市長選で、改名を進める前市長の酒井隆明氏が4選を決め、
 「丹波篠山市」の誕生に大きく前進したと報じられています。
 総務省によると、自治体名の変更の是非を問う住民投票は全国初との事で、
 それだけに昨日から全国的にも注目されていますので、ご存知の方も多いかと思います。

 今回行われた住民投票は、市の条例に基づくものです。
 投票結果に法的な拘束力はありませんが、住民参加の自治体運営を目指して、
 このような条例を定めている所が多く、
 一般の選挙と異なりますので、外国人や15歳の児童に投票を認める所もあります。
 濫用を防ぐため、成立要件として投票率を50%以上などと定めている所も多く、
 篠山市も同様ですが、今回の投票率は、69.79%でした。
 市長選が同時に行われた事もあるでしょうが、市民の方の関心も高かったようです。
 酒井氏は、12月の定例市議会にも改名の条例案を提出し、
 改元に合わせて来年5月の市名変更を目指す方針との事です。

 丹波は、ご承知の通り旧国名です。
 現在の区分では、京都府中部、兵庫県北東部、大阪府北部になりますが、
 良いイメージなのかも知れません。
 篠山市の隣には丹波市がありますし、京都府には京丹波町があります。
 改めて丹波篠山市となると、少し紛らわしくなるような気がしますが。

 僕は、旧国名+市町村名の表現は好きです。
 場所が分かりやすいですし、その町が歴史のあるのを表すような感じがしています。
 自分でも信州上田とか越後長岡などと使っています。

 丹波篠山には、行った事がありませんが、名前は知っていました。
 何故知っているかと言うと、やはりデカンショ節です。
 ご存知の方も多いかと思いますが、
 「デカンショデカンショで半年暮らす アヨイヨイ 
  あとの半年寝て暮らす ヨーオイ ヨーオイ デッカンショ」ですね。
 丹波篠山の民謡が、旧制高校生の間に流行りました。
 他には、ない事のような気がします。
 そのため、「デカンショ」の意味は、
 デカルト・カント・ショーペンハウエルだとの俗説も生まれています。

 このデカンショ節に、次のような歌詞があります。
 「丹波篠山山家の猿が アヨイヨイ 
  花のお江戸で芝居する ヨーオイ ヨーオイ デッカンショ」
 丹波篠山の山家の猿ですから、田舎者との意味なのでしょう。
 住民の方は自嘲的に歌われているのでしょうか?

 丹波国は、昔から京都への交通の要として栄えてきた歴史があります。
 このため、京都との結びつきが強く、
 町並みや祭りなどに京文化の影響を色濃く残していると言われています。
 観光情報などを見ると、歴史と文化が残った良い町のようで、
 行ってみたくなりました。
 今回の市名の変更問題、知名度を上げた事は間違いないでしょうね。

コメント
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