天然居士の独り言

主に日記主体のブログです。

裏磐梯・喜多方へ・・・

2018年10月31日 18時29分07秒 | 日記
 一昨日は、その前の晩に早く寝た事もあり、日の出前に目が覚めました。
 泊まりの時は、何時に寝ても早く目が覚めてしまいますが。
 窓から外を見たら、磐梯山に掛かった雲がピンク色なのに気が付きました。
 モルゲンロートは山体が赤く染まる事でしょうが、それと同じような感じです。
 温泉に行った時の楽しみの一つ、朝風呂に入ってから、カメラを持って散歩に出ました。
 あてはなかったのですが、通っていた人から小野川湖に行ける道を教わり、
 そこに行って見ました。
 すると、10人以上の、良いカメラや三脚を持った、
 いかにもカメラが趣味と言う感じの人とすれ違いました。
 皆さん良い写真が撮れたと喜んでいる感じです。
 どうやら、小野川湖に朝霧が出て、その写真を撮っていた感じでした。
 まだ少し霧が残っていたので、僕も撮ってみました。

 とにかく良い天気だったので、五色沼の遊歩道を歩く事で決定して、宿を出ました。
 ところが五色沼に着くころになって、雲が出て来ました。
 2年前にやはり五色沼に行った時は、雨に降られて、
 とても写真どころではなかったのですが、
 何とか降られる前に歩けるかと思い歩き出しました。
 しかし、途中で風も強くなり、雨も降り出しました。
 それでも何枚かの写真は撮れました。

 遊歩道を抜けた頃には雨も上がり青空も見えて来ました。
 どうも日ごろの行いが悪いのかも知れません。
 山の天気なのでしょうが、女心と秋の空の文句を思い出しました。
 檜原湖から喜多方に向かいましたが、この途中の紅葉が物凄く綺麗でした。
 車を停めて写真を撮りたかったのですが、中々停める場所がありませんでした。
 それでも何とか停めて撮ってみたのですが、余り上手く撮れませんでした。
 檜原湖も1枚だけ撮れましたが、良い景色でした。

 途中から、また激しい雨になりました。
 喜多方に着いても止みません。
 喜多方は蔵の町です。
 今でも4200棟の蔵があるとの事ですが、
 僕の学生時代、友達のお姉さんが建築をやっていて、
 喜多方は良い蔵が残っていて面白いと聞いた事があります。
 その頃は、上野発喜多方行きの急行などもありましたので、
 馴染のある名前でした。
 その後、2度ほど行った事がありますが、最後に行ってから30年近く経過しています。
 街中がもの凄く変わったような印象でした。
 本当は、どこかに車を置いて歩いてみたかったのですが、
 雨が止みそうになく、
 止むを得ず、車を置けそうな、喜多方市で整備した蔵の里に行ってみました。
 市内の蔵を移築して整備した感じですが、
 移築した後、綺麗に整備し過ぎたようで、余り時代を感じさせない印象でした。
 そこの受付の小母さんから、
 近くの美味しい喜多方ラーメンの店を教わり、そこに行きました。
 喜多方は、ラーメンの町としても有名です。
 僕が昭和58年頃に行った時には、ラーメンは有名でなかった記憶で、
 暑かった事もあり、喫茶店に入ってスパゲティを食べた覚えがあります。
 紹介された店は、まだ新しい感じでしたが、中々美味しいラーメンでした。
 雨が降って少し寒かったのも良かったかも知れません。

 ラーメンを食べた後、駐車場のある甲斐家の蔵を見に行きました。
 大正年間に建設された、店蔵と蔵座敷です。
 店蔵にある手斧で削ったという螺旋階段は、支えがありませんでした。
 明治時代の洋館と同じような構造なのでしょう。
 蔵座敷もとても立派なものでした。

 その後、やはり喜多方で有名な新宮熊野神社に行ってみました。
 喜多方の街中からは離れていますので、車でないと難しそうです。
 新宮熊野神社は、長床と呼ばれる拝殿があり、国の重要文化財になっています。
 脇に大きなイチョウの木があり、
 その黄色の落ち葉が絨毯のようになった風景が特に有名です。
 イチョウが黄色くなるのには、まだ早いだろうと思いましたが、やはりまだ緑でした。

 神社の正面の鳥居が、どことなく変わった印象を受けました。
 両部鳥居に太い注連縄が下がっているからでしょうか?
 とても迫力のある鳥居だと思いました。
 そして長床です。
 建造された時代は明らかになっていませんが、
 藤原時代の貴族の住宅建築としての寝殿造りの主殿の形式を踏み、
 熊野神社の拝殿として建てられたもので、
 44本の太い柱に芧葺寄棟造り、周りには壁も扉もない吹き抜けの壮大な建物です。
 長床に上がる事が出来ましたが歴史を感じさせてくれました。
 本殿も特に屋根が変わった形をしていました。
 下から見ると兜のようにも見えます。
 宝物殿もあり、重要文化財の銅鉢や木造文殊菩薩騎獅像など
 貴重な文化財が展示されていました。
 ともかく新宮熊野神社はとても良かったです。

 新宮熊野神社から、再び山王峠を越えて帰って来ました。
 暗くなるのが早くて、車の通りも少なく、深夜走っているような感じになりましたが、
 鬼怒川温泉辺りに来たら、夕方で帰りを急ぐ車が多くて、日常に戻った気がしました。

 この日の分の写真もアップしましたので、宜しければご覧下さい。
 http://photozou.jp/photo/album/2882708

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

奥会津へ・・・

2018年10月30日 18時38分31秒 | 日記
 一昨日から昨日まで、友達に誘われて福島県に行って来ました。
 宇都宮市から会津に行くのには、高速道路を使うのが普通ですが、
 他に鬼怒川温泉や川治温泉を経て山王峠で県境を越える、
 国道121号を通る、江戸時代には会津西街道と呼ばれるルートがあります。
 以前、このルートは通った事がありますが、今回久しぶりに行きました。

 鬼怒川温泉辺りから綺麗な紅葉を見る事が出来ました。
 一昨日から昨日まで2日間に亘って紅葉を満喫する事が出来ました。

 最初に向かったのが、南会津町の前沢集落です。
 ここは、集落のほとんどが曲家の地区で、そのほとんどが茅葺屋根です。
 曲家とは、馬を飼うために母屋と馬屋が直角に曲がっている家で、
 岩手県の南部地域などで見られる家屋の形態ですが、
 福島県内にも存在し、特に前沢地区は、1907年(明治40年)の大火で、
 集落のほとんどの建物を焼失したため、一斉に再建され、
 現在でも当時の家屋に人々が生活しているのが特徴で、
 文化庁の重要伝統的建造物群保存地区に指定されています。
 内部を観られるのは1棟だけでしたが、それでも十分雰囲気が分かりました。
 土間に続く板の間には囲炉裏があって火がありました。
 その煙が建物の中を漂い、昔の生活を偲ぶことが出来ました。
 狭い集落の中を歩くと長閑な感じがしました。

 前沢集落から、只見町に向かいましたが、
 ほとんど道路に信号機がありませんでした。
 先ほど調べてみたら、栃木県の五十里ダムの近くの信号機の後、
 南会津町田島の国道352号との分岐までの26kmほど信号機がなく、
 国道352号に入ると舘岩村までの35km間に信号機がありません。
 さらに、只見町までの46kmほどの間に信号機がないようです。
 つまり110kmほどの間で信号機があるのは3か所と言う感じでした。

 只見町は、JR只見線が通っていますが、2011年7月の豪雨で
 現在も会津川口~只見駅間の運転を見合わせていて、
 全線復旧は2021年になるとの事です。
 只見町は、何度か日記に書いて来た、越後長岡の河井継之助の終焉の場所です。
 河井は、長岡城の攻防戦で、流れ弾が膝に当たって重傷を負いました。
 河井は八十里峠を越えて会津に向かおうとしますが、
 只見村で動けなくなってしまい、そこで亡くなりました。
 終焉を迎えた家が残されていると聞いていましたので、行ってみたいと思っていました。
 立派な記念館があり、その建物の中に当時の家を切断して入れたような感じで、
 終焉の部屋や控えの間、療養していた部屋などが残されていました。
 とにかく、思っていた以上の立派な記念館でした。
 館内の資料で、河井の最後の12日間を述べた文章がありました。
 最後の様子がよく分かりました。
 記念館の裏のお寺に、河井を荼毘に付した時の細骨を集めた墓がありました。
 今年は7月に越後長岡の河井継之助資料館にも行きましたので、
 改めて河井を身近に感じる事が出来ました。

 只見町から、次の目的地柳津町に向かいました。
 お昼を過ぎたので、どこかで何か食べたいと思ったのですが、
 食事を出来る店が沿道にありません。
 コンビニも、ほとんどありませんでした。
 道の駅の案内板をみつけ、道の駅かねやまに入ろうとしたら、
 駐車場が一杯で車を停めるのに時間が掛かりそうなので、パスしました。
 次の道の駅、尾瀬街道みしま宿もやはり車を停めるのに時間が掛かりそうでした。
 結局、目的地の会津柳津の道の駅に着いた午後2時までお昼を食べられませんでした。
 その代わり、柳津名物のソースかつ丼を食べられました。
 お腹が空いていた事もありましたが、本当に美味しかったです^^

 その道の駅の敷地内に、行きたかった斎藤清美術館があります。
 斎藤清をご存知ない方もいらっしゃるかも知れませんが、
 会津坂下町出身の版画家で、柳津町のアトリエで活動をしていたようです。
 僕は、会津地方の茅葺屋根の家に雪が積もったのを描いた版画が好きです。
 一昨日は、特別展をやっていたので、斎藤清の版画は少なかったのですが、
 会津の版画だけではなく、京都を題材にした版画にも力を入れていたのを知りました。

 その美術館から、歩いていけるとの事なので、福満虚空蔵尊圓蔵寺に行きました。
 陸奥南部~常陸にかけて
 多くの寺院を建立したとされる徳一が創建したとされる寺院です。
 紅葉の名所との事でしたが、余り時間もなく、
 紅葉の綺麗な場所には行けなかったのかも知れません。

 この日は、柳津町から裏磐梯に行き、そこで泊まりました。
 若干疲れましたが、温泉に入り酒を飲んで楽しく過ごしました。

 長くなりますので、昨日の事は明日書きます。
 今日の分の写真をアップしましたので、宜しければご覧下さい。
 http://photozou.jp/photo/album/2882708

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

小池里奈さん・・・

2018年10月27日 17時45分37秒 | 日記
 小池里奈さんをご存知の方は少ないかも知れません。
 今年25歳になる女優さんで、栃木県の小山市出身です。
 ネット上多くの画像がありました。
 下記のアドレスに何枚かありますので、宜しければご覧下さい。
 https://search.yahoo.co.jp/image/search?rkf=2&ei=UTF-8&p=%E5%B0%8F%E6%B1%A0%E9%87%8C%E5%A5%88

 僕は、彼女と3回会っています。
 最初に会ったのが2012年8月24日でした。
 その時の事は8月26日の日記に書きました。

 その当時の仕事の関係で、彼女に依頼した事があったので、その挨拶に来てくれました。
 その年の9月20日と12月6日にも会っています。
 3回会っていますので、馴染だと思うのですが、彼女は覚えていないでしょうね^^
 その当時、19歳で大学に行きながら芸能活動をやっていたようです。
 ツーショットの写真も残っていますが、
 顔は僕の二回り位小さくて、体は僕の半分位でした。
 とても愛想が良くて、全て肯定的な話し方をしていました。
 とにかく可愛いお嬢さんと言う感じでした。
 その日はきつい日程だったと聞いていたのですが、
 そのような気配は微塵も見せず、プロだなぁと感心してしまい、ファンになりました^^

 その小池さん、しばらくテレビなどにも出ていないようですし、
 どうしたのかなぁと先日思っていましたが、
 今日のネットのニュースに彼女の記事が出ていました。

 それによると、2年ほどの間、ニュージーランドへの留学、
 オーストラリアでのワーキングホリデーなどで、芸能界から離れていたそうです。
 この秋に帰国して、
 芸能活動に復帰することを、都内で行われた会見で明らかにしたようです。
 さらにTBS公式YouTubeチャンネル「となりのこいけ」を開設、
 今日の18時からレギュラー番組配信を開始し
 「YouTuberデビュー」を果たすことを発表しました。

 オーストラリアにワーキングホリデーで滞在していた間は、
 ダイニングレストランでウェイトレスとして働いたとの事ですし、
 体調を崩して、1週間ほど入院生活も送ったとの事です。
 これらの経験を生かして、また活躍して欲しいと思います。
 僕も「となりのこいけ」を見ないといけないなぁと思っています。

 明日からチョッと出掛けます。
 今回は1泊2日です。
 明日と明後日の日記などは休む事になると思いますので、ご承知おきください。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

深夜放送・・・

2018年10月26日 19時58分29秒 | 日記
 一昨日の夜、NHKBSで、
 「たけしのこれがホントのニッポン芸能史」をやっていました。
 芸能史は好きですが、どうもビートたけしさんが余り好きではないので、
 この番組を観た事はありませんでした。
 しかし、新聞の案内で、「ラジオの魅力を徹底解剖!」と題して、
 ラジオの深夜放送を取り上げると載っていましたので、観ました。
 中学・高校の頃、毎晩のように聴いていたもので、とても懐かしかったです。
 特に、オールナイトニッポンの冒頭の音楽や、残っていた昔の音源を聴いて、
 当時の気分を味わえました。
 残念ながら、深夜放送の部分は短かった感じもしましたが。

 深夜放送の中で、一番よく聴いていたのが、
 パックインミュージックの野沢那智と白石冬美さんのコンビでした。
 毎週木曜日の深夜を楽しみにしていました。
 あの頃の投稿者の名前とか、高崎高校と前橋高校のライバル話、
 チョッとHなデカメロンや金瓶梅など、色々覚えている事があります。
 パックインミュージックでは、他に北山修さんや大村麻梨子さん、永六輔も好きでした。

 僕は、どちらかと言うとパックインミュージックの方が多かったのですが、
 オールナイトニッポンも時々聴いていました。
 糸井五郎、斎藤安弘さん、亀渕昭信さん、今仁哲夫さんなど思い出します。
 一昨日は、亀渕さんも出演していましたが、ニッポン放送の社長もなさったのですね。
 余談ですが、今仁哲夫さんの名前から連想したのだと思うのですが、
 小林信彦さんは、今似見手郎と言う人気DJを
 小説「大統領の密使」に登場させていました。

 当時の僕は、部活もやっていたので、帰宅すると一度寝て、
 夜8時か9時頃に起き出して夕飯を食べてから
 勉強すると言うかラジオを聴くと言う生活でした。
 深夜は、部屋に一人でいる事を実感できたような、僕の好きな時間帯でした。
 大学に入ってから、その習慣はなくなってしまいましたが、
 今でも夜型人間であるのはその頃の生活リズムが影響しているのだと思います。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

憲法改正・・・

2018年10月25日 18時16分35秒 | 日記
 昨日の臨時国会で、安倍総理は所信表明演説を行いました。
 その際、野党側からは激しいヤジが飛んだと報じられています。
 特に今後の政権運営について
 「長さゆえの慢心はないか、国民の懸念にしっかり向き合う」と語ると、
 野党議員は「慢心だらけじゃないか」と批判を浴びせたとの事です。
 このヤジが妥当かどうか、色々なご意見もあるかと思いますが、
 僕は正にその通りだと感じました。

 今回の所信表明、いつもながらの美辞麗句ばかりの印象ですが、
 その中で、憲法改正について
 「(国会の)憲法審査会で政党が具体的な改正案を示すことで、
 国民の理解を深める努力を重ねていく」と述べ、実現への決意を訴えました。

 憲法改正問題は、安倍総理だけが積極的で、周囲は冷めているような印象を持っています。
 今回の自民党人事で、
 下村博文議員が自民党憲法改正推進本部の本部長に就任しましたが、
 安倍総理に近い人ばかりを集めたとの印象はぬぐえません。
 更に、その憲法改正、特に9条の改正内容は、
 第1項と第2項をそのままにして、自衛隊を書き込むだけの改正になっています。
 その理由として、安倍総理が一貫して言っているのは、
 『自衛隊を合憲』と言い切る憲法学者はわずか2割で、
 その結果、多くの教科書に自衛隊の合憲性に議論があるとの記述があり、
 自衛官の子どもたちもその教科書で勉強しなければならず、
 防衛や災害救助で献身的に働く自衛隊員が可哀想だから改憲するとの趣旨です。
 憲法を改正する理由としては、余りにも情緒的過ぎ、
 お涙頂戴の浪花節の世界のような感じがします。

 しかも、1項と2項をそのままにして自衛隊を入れる事は、
 戦争の放棄と戦力の不保持をそのままにしている訳ですから、
 正直、何が何だか分からなくなると思っています。
 更に、自衛隊と言う組織が憲法上の機関となる事は、
 国会や裁判所などと同じレベルになる事ですから、
 法理論としても無茶苦茶な感じがします。
 ともかく動機も内容も余りにもお粗末な改正案ときり言いようがないと思っています。

 何故、このような憲法改正に安倍総理は前のめりになっているのでしょうか?
 これまでの自民党政権で誰もなしえなかった憲法改正を行った総理大臣として、
 名を残したいがためのように思えてなりません。

 今回の憲法改正の動き、誰も本気になって受け止めていないような気がしています。
 自民党内部においてすら異論がある訳ですし、
 公明党内部でも、9条の改正に対しては根強い反対があります。
 国民の中で、この改正が必要だと思う人がどの位いるのでしょうか?
 賛成するのは、根っからの安倍総理の支持者だけのような気がしています。

 そんな事もあるのでしょうか、
 憲法改正は出来ないと、高を括ったように感じている人が多いように思っています。
 僕もその1人なのですが、
 しかし、余りにも愚劣だからと、まともに相手をしないでいると、
 いつの間にか、憲法改正が出来てしまう事になる事も考えられます。
 安倍総理は、所信表明の中で、国民の理解を深めていくと言っていますが、
 これまでの安倍政権で、丁寧に説明するなどの言葉が実行された事はありません。
 国などの説明があるとも思えませんが、その有無にかかわらず、
 今回の憲法改正案の問題点について、
 多くの人が声を挙げないと、とんでもない事になりそうな気もしています。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

安田純平さん・・・

2018年10月24日 19時53分16秒 | 日記
 昨夜遅く、菅義偉官房長官が記者会見し、
 シリアで2015年6月に行方不明になった
 フリージャーナリストの安田純平さんとみられる男性が解放され、
 トルコ南部アンタキヤの入管施設に保護されたとの情報が寄せられたと発表しました。

 安田さんについては、何度かネット上で動画や静止画が流れ、
 特に今年の7月下旬には、
 安田さんとみられる男性の映像がインターネット上に公開され、
 男性は、銃を持った男2人の前に座り
 「とてもひどい環境にいます。今すぐ助けてください」と日本語で訴えていました。
 このニュースを見て、どうなっているのかと気になっていました。

 菅官房長官の話では、昨夜日本時間の午後7時40分ごろ、
 カタール政府から「安田さんが早ければ23日中に解放される」と連絡があり、
 午後9時ごろ、安田さんが解放・保護されたとの情報が同政府から提供されたとの事です。
 しかしながら、一方では解放されたのは4日前との報道もあり、
 情報が錯綜している感じもします。

 先ほどのニュースによると、河野外務大臣は、
 トルコ南部アンタキヤの入管施設に保護された安田純平さんを本人と確認したと
 発表しました。
 在トルコ日本大使館員が安田さんと施設で面会したとの事です。
 安田さんの健康状態について河野氏は「一見するといいようだ」と説明し、
 「なるべく早く帰国していただく」と述べています。
 また、入管施設での安田さんの動画も報じられました。

 特に気になるのが健康状態です。
 動画を見る限り健康そうな感じはしましたが、
 先月末の時点で、「安田さんの健康状態は非常に悪い」との報道もあります。
 外見は健康そうに見えても、3年に及び拘束が続いていた訳ですし、
 その間、常に命の危険を感じていたでしょうから、
 精神的なダメージも大きいのではないかと思います。

 安田さんの解放が伝えられた頃から、
 Wikipediaの安田さんのページの概要欄で、
 本人を誹謗する内容への書き換えが相次いだと、BuzzFeed Japan が伝えています。
 現在の段階では、中傷するような内容は取り除かれていますが、
 今後帰国すると、自己責任などとする誹謗中傷が続く事も考えられます。

 また、まだ精神的な状態が明らかになっていない状態の中で、
 マスコミの取材なども気になるところです。
 無事に助かったのですから、
 本人の状況を見ながら慌てないで報道する事も必要だと思います。

 今日は安田さんについて書こうと思って、夕方から資料を漁っていましたが、
 その内にどんどん情勢が変わって、
 そのニュースを追うだけで大変になってしまいました。
 若干おかしい所もあるかも知れませんがご容赦ください。
 やはりホットなニュースを書くのは大変ですね^^

 ともかく、安田さんが無事に解放されて良かったです。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

周防大島・・・

2018年10月23日 20時13分23秒 | 日記
 一昨日の未明、山口県の周防大島町と本州側を結ぶ橋に、
 マルタ船籍の貨物船エルナ・オルデンドルフのマストやクレーンの一部が衝突し、
 橋に設置されていた送水管が海に脱落し、
 この影響で町内のほぼ全域で断水が続いています。
 衝突の影響による橋の安全点検のために、
 橋も通行止めになっているとのニュースもあり、
 本州と結ぶ唯一の道路のため、生活に大きな影響が出ているようです。
 特に水道の復旧がいつになるのか見通しがついていないようで、
 お住まいの方は大変だろうと思います。
 今回の事故のあった、大島大橋は
 山口県の本州側の柳井市と周防大島町を結ぶ鋼鉄製の橋で、
 1976年(昭和51年)に完成しました。
 橋の長さは1020m、中央部分の高さは海面からおよそ30mあり、
 片側1車線の国道437号線が通っているほか、
 橋桁の下の作業用通路には送水管や光ケーブル、電話線などが通っています。
 この送水管が250mに渡って落ちているとの事です。
 一日も早く復旧して、生活の不便が解消されると良いと思います。

 周防大島では、8月に2歳の幼児が行方不明になりましたが、
 3日経って、ボランティアの男性が発見して
 無事に保護され大きなニュースになりました。

 周防大島は、面積138㎢、人口16,000人ほどの島です。
 瀬戸内海では淡路島・小豆島に次いで3番目に大きな島です。
 僕は行った事がありませんが、行ってみたい島の1つです。

 先日、菅江真澄について書いた日記で、
 その本の著者が宮本常一であると書き、僕が信頼している人物の一人だと書きました。
 その宮本常一が生まれた所が、周防大島なのです。
 宮本は1907年(明治40年)に周防大島に生まれています。
 大阪府立天王寺師範学校(現大阪教育大学)を卒業後、
 一時期教員生活を送りますが、学生時代に柳田國男の研究に関心を示し、
 渋沢栄一の孫で日銀総裁や大蔵大臣を務め、
 また民俗学者でもあった渋沢敬三に見込まれて食客となり、
 本格的に民俗学の研究を行うようになりました。
 1930年代から1981年に亡くなるまで、
 生涯に渡り日本各地をフィールドワークし続け、
 1200軒以上の民家に宿泊したとも言われ、膨大な記録を残した人です。

 数多くの著作を残していますが、
 1冊を挙げるとするならば「忘れられた日本人」だと思います。
 1939年(昭和14年)頃から全国を隈なく歩き、
 辺地に生きた無名の存在である人々を描いた名著です。
 僕が読んだのは学生時代でしたから、僅か40年位前の日本は
 こんな国だったのかと思った記憶が残っています。
 今ならば、80年前になってしまう訳ですが。

 この本の中には、宮本の祖父や父親の話も出て来たと思いますが、
 周防大島の風土の中で、
 父親や祖父から教えられた事が宮本の民俗学の原点になったような気がしています。
 そんな事から、周防大島には行って、
 どのような風土なのか空気を吸ってみたいと思っていますが、どうなりますか。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

川越祭へ・・・

2018年10月22日 20時12分09秒 | 日記
 昨日は、埼玉県の川越市に行って、川越祭を見て来ました。
 川越在住の知り合いから、
 川越市内でオフ会をやるけど来ないかと誘われたのがきっかけでした。
 若干穴埋め要員かなとも思ったのですが、
 参加者は6名で、川越市に住んでいる人は2人でした。

 川越市に行くのは、今回で3度目になります。
 宇都宮から大宮まで行って、川越線に乗り換えます。
 大宮駅でトイレに寄りました。
 用を足して振り返ったら、若い女性の格好をした人が入って来て個室に入りました。
 え@@!と言う感じでしたが、後ろ姿きり見ていません。
 しかし、白いスカートを穿いて、若い感じがしました。
 女性用のトイレが結構混んでいましたので、緊急事態だったのかと思いましたが、
 あるいは女装が好みの男性かも知れないとも思いました。
 本当は出て来るのを待って、確かめたかったのですが、
 本当の若い女性だったら可哀想だと思い、そのままトイレを出ました。
 都会は色々あるのだと思いました。

 川越市に着いたら、市内の中心部は完全に通行止めになっていて、
 街中が歩行者天国になっているような感じでした。
 集合場所に向かうのでしょうか、1台の山車を見掛けました。
 今回の川越祭には、29台の山車の内、19台が出ているとの事です。
 いずれも江戸型の山車で、3段になっていて最上部は下に仕舞う事が出来ます。
 江戸時代、将軍の上覧の際江戸城に入るのに、門につかえてしまうため、
 最上部は降りるようになっていると聞いた事があります。
 栃木市の秋祭りの山車と同じような山車です。
 最上部には、それぞれ町内によって異なる人形が立っています。
 山車にはお囃子が乗り、狐やお多福などの衣装を着ての踊りもあります。
 華やかな山車ですね。
 こうした山車は、他の町内の会所の前に来たり、利他の町内の山車とすれ違うと、
 山車の上部を回転させてお囃子の競演などを行うようです。
 この辺が見ものなのでしょう。

 交差点に群衆の指導に当たる指揮車の上に可愛い女性警察官が立っていました。
 警視庁のDJポリスのように特に放送はしていませんでしたが^^

 街中に色々な露店が出ていました。
 特に驚いたのが、お寺の境内に出ていたお化け屋敷です。
 各地を回っている感じで、
 マイクを握った小母さんが客の勧誘を休む事なく行っていました。
 この他、射的や金魚すくいなど、懐かしい店もありました。
 お子さんは嬉しいでしょうね。

 オフ会の人たちと行き会い、2時間ほどお昼を食べながら歓談しました。
 皆さん良い方々で楽しかったです。
 その後、一部お帰りになった方を除いて、再び蔵の街辺りで、山車を見物しました。
 物凄い人出で、山車がすれ違う時など、ほぼ満員電車のような感じでした。
 一体、何人位の人が来ていたのでしょうか?
 祭の規模の大きさを感じました。

 祭見物の後、夕方から再び居酒屋で飲んで、帰って来ました。
 疲れたので、大宮からグリーン車に乗って、爆睡しました^^

 昨日撮った写真をアップしましたので、宜しければご覧下さい。
 http://photozou.jp/photo/album/2882708

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

菅江真澄・・・

2018年10月20日 20時02分18秒 | 日記
 最近、菅江真澄に興味を持っています。
 彼女が出来たと勘違いされる方もいるかも知れませんが、残念ながら男です。
 しかも、現代人ではなく、江戸時代の人です。

 菅江真澄は、1754年(宝暦4年)に、
 三河国渥美郡牟呂村字公文(現在の豊橋市牟呂公文町)に生まれ、
 本名は白井秀雄です。
 1783年に30歳で故郷を出て、
 それ以来信越・東北から蝦夷地にいたる長い旅を重ねます。
 1810年(文化7年)の日記『氷魚の村君』から菅江真澄と名乗っています。
 旅先の各地で、土地の民族習慣、風土、宗教から自作の詩歌まで数多くの記録を残します。
 今で言う文化人類学者のフィールドノート(野帳)のようなもので、
 著述は100種200冊ほどを数え、「菅江真澄遊覧記」と総称されています。

 ここのところ、僕はJR東日本の大人の休日俱楽部切符で旅行する事が多くなりました。
 JR東ですから、どうしても東北地方が多くなります。
 そして菅江真澄の名前を何度か聞きました。
 最初は、菅江真澄って誰?と言う状況でしたが、
 青森市の善知鳥神社で歌碑と来歴の一部を見て、
 ネットで調べている内に、次第に興味を持つようになった次第です。

 ネットだけではなく、本でどんな人だったのか読もうと思って、
 最初菅江真澄の名前の付いた本を読みましたが、これは少し期待外れでした。
 しかし、特に菅江が亡くなった秋田県内で、研究会が設けられ、
 熱烈なファンがいる事は分かりました。

 もう少し実像を知りたいと思い、県立図書館で探してみて、
 「宮本常一著作集」を出版している未来社の
 「旅人たちの歴史」のシリーズの中で、菅江真澄を見付けました。
 著者は宮本常一で、1980年の出版になっていますので、彼の生前の出版です。
 宮本常一は、民俗学者で、僕が信頼する人の一人です。
 語るべき人が語ったと言う感じがしましたが、
 どうも、どこかの講演をまとめたもののようでした。
 宮本自らのフィールドワークの経験を踏まえ、他の旅日記との比較などを通して、
 単純に菅江真澄を持ち上げるだけでなく、その実像を解き明かしていて、
 とてもよく理解出来ました。

 菅江真澄の残した著作の中には、題名だけが伝わり本物が残ってないものがあります。
 宮本は、何か藩などに不都合な事を書いたので、没収されたのだろうと推理しています。
 そして、そうした事から記述が慎重で大人しい傾向があるとも述べています。
 菅江真澄の100年ほど前に、円空が北海道に行っていますが、
 そこで円空仏を見ています。
 青森県内でも円空に触れていますので、かなり意識していたようです。
 また、菅江は晩年に秋田藩に雇われますが、雇われた後の記述は、
 考証が入って来るので面白くないと、宮本は述べています。
 民俗学者としては、生の記述が欲しかったのかも知れません。
 その他、単に菅江真澄について述べるだけではなく、
 東北地方への文化の伝播を述べていて、とても興味深く読みました。

 この「旅人たちの歴史」シリーズは3冊で、1冊目が
 日向国佐土原(現在の宮崎県宮崎市佐土原町)の修験者野田泉光院についてです。
 泉光院も全国各地を歩き、克明な記録を残しています。
 泉光院については、以前書いたものがありますので、宜しければご覧下さい。
 https://blog.goo.ne.jp/tennnennkozi/e/e32ff01b1c13ae7540845d3ce47d6029

 3冊目は、古川古松軒とイザベラ・バードについてです。
 古川古松軒は、「菅江真澄」との対比で宮本が述べていて初めて知りましたが、
 イザベラ・バードの概要は、やはり以前に書きました。
 宜しければご覧下さい。
 https://blog.goo.ne.jp/tennnennkozi/e/b115c924e45ebd59f8d8a89fbdb1c09c

 泉光院もイザベラ・バードも興味のある人です。
 多分2冊とも県立図書館にはあると思いますので、
 宮本常一がどのように捉えていたかも知りたいですから、
 是非、読んでみたいと思います。

 明日は、チョッと出掛けます。
 帰るのが遅くなると思いますので、日記などは休ませて頂きます。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

時間ですよ・・・

2018年10月19日 19時35分11秒 | 日記
 先日、樹木希林が亡くなった時に話題になったテレビ番組の1つが、
 TBSで放送された「時間ですよ」でした。
 現在、この番組がBSトウェルビで放送されているのを、最近知りました。
 放送は、月曜日から金曜日の午後8時からです。
 1971年(昭和46年)7月21日から1972年(昭和47年)3月15日まで放送された、
 第2シリーズの全35回です。
 今夜は第13回ですから、まだ少しの間放送されそうです。

 森光子、船越英二、松山英太郎、悠木千帆、三代目江戸家猫八、かまやつひろし、
 飯田蝶子、はしだのりひこなど、既に鬼籍に入られた人達が、元気に出演しています。
 堺正章さん、松原智恵子さん、天地真理さん、岸部シローさんなども出ています。
 いずれも若いですね。
 天地真理さんは、この番組で人気が出ましたが、やはり可愛いです。
 そして、松原智恵子さんはとても綺麗ですね。
 これだけ綺麗な女優さんも少ないなぁと思いながら見ています。

 このドラマで特に印象に強かった、
 小料理屋の女将を演じた篠ヒロコさんとその店の客の藤竜也さんが出ていたのは、
 第3シリーズとの事ですが、
 BSトウェルビのホームページには、第3シリーズは放送しないと出ていました。

 「時間ですよ」の見せ場と言えば、
 女湯の脱衣場のヌードシーンですが、
 現在でも、多分修正なしで放送されています。
 今のドラマでは、あり得ないシーンだと思いますが、放送されていて良かったです^^

 ドラマは単純な話ですが、
 悠木千帆のエキセントリックな演技など、
 久世光彦の演出は凄いと感じさせる部分もあります。

 いずれにしても、正に昭和の時代のドラマですが、
 僕には、この時代の方が合っているなぁとしみじみと思っています。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする