天然居士の独り言

主に日記主体のブログです。

セクハラ・・・

2015年02月27日 20時12分48秒 | 日記
 昨日、最高裁は、大阪市の水族館「海遊館」での男性管理職のセクハラ発言について、
 「出勤停止などの処分は妥当」と判断し、企業側の厳格な処罰を認めました。
 身体に触れるなど直接的な行為だけではなく、言葉のセクハラを認めた事になります。
 今日は、この話題が出た職場も多かったのではないかと思います。

 人が嫌がる事をしないのは当然の事だと思いますが、
 今の日本では、セクハラだけでなく、
 モラハラとかマタハラとか色々な問題が提起されていて、
 最高裁の判断のように、迂闊な発言で処分を受けかねない状況になりつつあります。
 マスコミなどでは、企業が研修などを行い、問題があれば処分するべきとの論調です。
 こうした状況が続けば、何も言わないのが得策と言う事になりかねません。
 お行儀は良いでしょうが、それで本音で付き合う人間関係が築けるのでしょうか?

 人間は生き物ですから、醜い部分もあれば間違いもあり、愚かさや猥雑さもあります。
 これらをどんどん排除して行った場合、綺麗ではあるけれど無味乾燥な社会になり、
 人間関係もギクシャクしたものになるのではないかと心配しています。
 特に、最近の風潮は、人間の愚かさを許さない懐の狭さを感じます。
 程度の問題はあるとは思いますが、
 些細な事には、もっと大らかに構える必要があるのではないかと思います。

 昔の諺に、「水清ければ魚住まず」がありますが、
 正にそんな感じの社会になりつつあるような気がします。

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宇都宮と2・26事件・・・

2015年02月26日 19時33分30秒 | 日記
 今日は2月26日です。
 1936年(昭和11年)2月26日、
 青年将校らによるクーデター未遂事件が起こりました。
 いわゆる2・26事件です。
 この日が近付くと、事件の時の話が
 テレビで放送される事が多いように感じています。
 昨夜も鈴木貫太郎の話をNHKで放送していました。
 当時侍従長だった鈴木貫太郎宅を襲撃したのが、
 2.26事件の反乱軍の中心的人物の1人安藤輝三大尉でした。

 安藤は旧制宇都宮中学に在学していました。
 僕の先輩になります。
 安藤大尉の父親安藤栄治郎は中学の英語の教師で、
 1917年(大正6年)に第二鹿児島中学から宇都宮中学転勤になった関係で、
 輝三も宇都宮中学に転入します。
 安藤栄次郎は、その後慶応義塾の舎監になります。

 安藤輝三は中学2年の時に陸軍の仙台幼年学校の試験に合格したため、中途退学します。
 そのため、卒業者名簿には載っていませんが、
 現在の宇都宮高校に残る「半途退学者名簿」には載っているとのことです。

 幼年学校から陸軍士官学校と言う、戦前のエリートコースを歩んだ安藤は、
 昭和10年に歩兵第三連隊の中隊長となり、当時の青年将校の指導的な役割を果たします。
 安藤は決起への参加を最後まで渋っていて、参加を決意したのは23日の事でした。
 反乱当日、安藤は、鈴木貫太郎侍従長宅を襲撃し、
 銃撃した後、止めをさそうとしますが、侍従長の夫人に懇願され、思い止まります。
 このため鈴木貫太郎は一命を取りとめ、後に総理大臣になり、
 太平洋戦争の幕引きをします。
 鈴木貫太郎は、安藤輝三は命の恩人だと言っていたとの事です。

 2月29日に、有名な「兵に告ぐ」が出され、
 安藤大尉はピストルで自決しようとしますが、叶いませんでした。
 その後の軍法会議において死刑の判決が下り、刑死しました。

 反乱軍は、首相官邸も襲撃しますが、
 当時の首相岡田啓介の秘書官松尾伝蔵が岡田首相に似ていたため、
 誤って射殺され、岡田首相は難を逃れます。
 この、松尾伝蔵は元陸軍大佐で、妻のトシホは岡田首相の妹です。
 松尾は1919年(大正8年)から、宇都宮の歩兵59連隊の連隊長をしていました。
 大正年間に宇都宮に住んだ人物が、
 2・26事件の時には、加害者と被害者に別れてしまった訳です。

 この2・26事件には、僕の父親も制圧部隊として参加しました。
 当時、宇都宮にあった第14師団の騎兵第18連隊にいた親父にも
 出動命令が下り、東京まで出掛けたそうです。
 どの方面だったのか、生前聞いておけば良かったと思いますが、
 今は聞く事ができません。

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花粉症・・・

2015年02月25日 19時48分02秒 | 日記
 ここのところ暖かな日が多くなって、春の到来を感じさせます。
 今日も比較的暖かでした。
 三寒四温と言いますから、まだ寒い日もあるのでしょうが、
 これから益々春めいて来るのでしょうね。

 春と言えば、やはり気になるのが花粉症です。
 悩まれている方も多いと思います。
 今年は花粉の飛散量が多いと予測されていますが、果たしてどうなのでしょう。

 僕はこの時期、今年こそ発症かと心配しながら、ここ数年過ごしていますが、
 今のところ何とか発症までには至らないと思っています。
 毎年、目だけがウルウルするので、目を洗う薬だけは買って、朝夕目を洗っています。
 今年も昨日薬局で買って来ました。
 薬の目を洗う容器も年々進歩しています。
 以前は、上を向かないと洗えませんでした。
 このため薬が流れ出してしまいましたが、
 2・3年前から下向きでも洗えるようになりました。
 容器も柔らかくなって、容器を押すと薬が目に届くようになっています。
 メーカーで色々研究しているのでしょうね。

 今日は、チョッと宇都宮市の郊外を車で走りましたが、
 曇った空が少し黄色いような気がしました。
 栃木県までは黄砂が来ないでしょうから、多分花粉なのだと思います。
 見ているだけで目が痒くなるような感じがしました。

 目が痒くなれば、もう花粉症だと毎年何人かから言われます。
 しかし、僕は他の症状がないので、まだ発症していないと頑張っています。
 さて、今年は頑張り切れるでしょうか?
 
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昨日、・・・

2015年02月22日 20時47分06秒 | 日記
 昨日、仕事から帰宅したらご近所の方の訃報が届いていました。
 同居人と同じく卵巣癌を患っていて、3年近く闘病生活を送っていた方でした。
 入退院を繰り返していましたが、
 娘さんの所に帰宅していたので、しばらくお姿を見ていません。
 ご遺体も帰っていませんので、娘さんの所にいるのだと思います。

 同居人は癌と分かった時に、私は延命治療は望まないとハッキリ言いました。
 辛い思いをして3か月の命が6か月に伸びても仕方ないし、
 とにかく辛い思いをしたくはないと言っていました。
 抗癌剤治療は延命治療ではなくて、癌を退治するための治療ですが、
 2回目の抗癌剤治療を躊躇っていた同居人を説得して受けてもらって、
 かなり辛い思いをさせてしまったかも知れないと言うのが僕の後悔です。

 同居人のように病気が分かってから半年もたたないで逝ってしまうのと、
 抗癌剤治療など身体に負担が掛かる治療を3年間続けるのと、
 どちらが良いと言う事もありませんが、
 色々と考えてしまい、昨夜は落ち込んでいました。

 今日は、日曜日ですが、仕事でさくら市に出掛けていました。
 旧喜連川町で催し物があったのですが、
 帰りに、昨年も行った氏家の雛めぐりのメイン会場に寄って、
 立派なお雛様を見て来ました。
 
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烏め・・・

2015年02月20日 19時43分51秒 | 日記
 今朝、ゴミ捨てに行こうとしたら、やけに烏の声が大きいのに気が付きました。
 ゴミ置き場に行ってみたら、30羽近くの烏がゴミ袋を破って突いていて、
 ゴミが散乱していました。
 僕の組では、特に烏除けのネットなどは使っていません。
 ゴミ収集所の関係で、ネットが使いづらいためです。
 そのため、ゴミ収集の前夜には出さずに当日の朝出す事になっています。
 余り烏の被害には遭って来ませんでしたが、
 今朝は多くの烏がいたのに驚いてしまいました。

 僕が行ったら、全部の烏が一斉に飛び立ち、
 電線などに止まって、僕がいなくなるのを待っている感じでした。
 丁度来合わせた奥さんが、箒とちり取りを持って来る間、
 僕がゴミの見張りをしていました。
 あれほど多数の烏を近くで見たのは初めてでした。
 ヒッチッコクの「鳥」ではありませんが、
 襲われたらどうしようと真面目に考えました。
 しかし、僕が立ち去らないのに我慢出来なくなったのか、
 烏は少しずついなくなりました。
 その後の片付けを、その奥さんと更に来た人とでやりましたが、
 全く困った事です。

 昨年、同居人と弘前に行こうとしていた朝でした。
 列車の時間が早かったので、いつもより早めにゴミを出しました。
 そして家を出て駅に向かおうとしたら、僕の家のゴミが烏にやられていました。
 そのまま駅に向かう訳にもいかず、
 同居人に家からゴミ袋を持って来るように言って、
 手でゴミを片付けて、何とか列車に間に合った事があります。
 あれ以来の烏の被害でした。

 僕の地域では、火曜日と金曜日が生ゴミなどの焼却ゴミで、水曜日が資源ゴミです。
 まさか烏に曜日が分かるとは思えませんが、
 取りあえず来週、再び襲われないように注意する必要があるのでしょうね。

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昨日の・・・

2015年02月19日 20時14分58秒 | 日記
 昨日の予告通り、今朝は墓参りに行って来ました。
 昨夜の雨は上がって、青空が広がり、気持ちの良い天気でした。
 僕の家の墓は、宇都宮市北部の郊外の市営の霊園にあります。
 お彼岸やお盆の時は混雑しますが、時間が早かった事もあり、
 今日は工事の職人さんやジョギングをしている人だけで、とても静かでした。
 紅梅の蕾が膨らんでいました。
 これから梅や桜などの花が咲いて綺麗だと思います。

 ここのところ、街中などで人と行き会った時に、
 悔やみの言葉を言われて戸惑う事があります。
 久しぶりに行き会って、笑顔で挨拶をしてから、相手の人が笑顔を消して、
 「奥さんが・・・」と話始められます。
 僕も笑顔を消さねばなりません。
 相手の人が、同居人の訃報を知っているのかどうか、僕は分かりませんので、
 やはり笑顔が先になってしまいます。
 同居人の事を知っている人もいますし、知らない人もいます。
 丁寧に話されると、僕も目がウルウルしてしまいます。
 悔やみの言葉を頂く事は、とても有り難い事ですが、
 笑顔から神妙な顔に変えなくてはいけないのも大変だと感じています。
 これも仕方ない事なのでしょうが。
 街中で人に会った時には、ここ2ヶ月以内に会っているかどうか、
 なるべく早く判断するようにしていますが、中々難しいですね。

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月命日・・・

2015年02月18日 20時48分12秒 | 日記
 今日は同居人の2回目の月命日でした。
 先月の月命日との間に、四十九日の法要などもあったので、長く感じました。
 納骨をしましたので、本当は墓参りをしなければいけないのですが、
 天気が悪いので、明日に延期しました。
 同居人は日などには余り拘らない、融通が利く性格でしたので、許してくれるでしょう。
 宇都宮は雪かも知れないとの予報でしたが、幸い雨で済みました。
 明日は凍結の心配もないと思いますので、朝の内時間休を取って行くつもりです。

 今夜の夕食は鍋にしてみました。
 我が家の鍋は、湯豆腐のような鍋が定番でした。
 そこに白菜などの野菜等を入れ、更に豚肉を入れて、
 鰹節を利かせた醤油を付け汁にして食べていました。
 とても僕にはそこまで出来ませんので、
 簡単に豆腐と豚肉とほうれん草などを入れてポン酢で食べてみました。
 同居人の鍋には到底及びませんでしたが、それなりに食べられました^^

 同居人と結婚した頃、僕は冬の間忙しい職場にいました。
 土日もなく、毎日深夜まで仕事をしていましたが、
 日曜日だけは家で夕飯を食べられました。
 ある時の夕飯が鍋でした。
 次の日曜日も鍋でした。
 僕は我が家の鍋が好きでしたので、僕の好みが分かって来たのかと思いました。
 しかし、その次もそしてその次も鍋でした。
 さすがに4回目に、他の物が食べたいと言いました。
 同居人は、毎日お袋と夕飯を食べていたので、
 僕が夕飯を食べる時に鍋が続いていたのに気が付かなかったようです。
 毎年冬になって、鍋のシーズンになると決まって話していた笑い話です。
 そんな事を思い出しながら、同居人を偲びました。

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お砂踏み・・・

2015年02月17日 20時41分31秒 | 日記
 今日まで、宇都宮市内の東武デパートで、
 「1日で巡るお遍路さんin東武宇都宮」が開催されていました。
 四国八十八カ所を巡るお遍路には、僕はかねてから興味を持っていて、
 1度は行ってみたいと思っていました。
 しかし、八十八カ所を巡るのに40日以上掛かりますので、
 独居生活になって、
 そんなに長い間家を空けていられるだろうかとも思うようになりました。
 体力的な問題もありますので、行ける可能性は低いかなと、現時点では思っています。

 そのような事から、このデパートでの催しに昨日行って来ました。
 四国八十八ヶ所霊場会と言う団体が主催している行事で、
 各寺院の砂を持って来て、それを踏みながら八十八箇所をお参りする行事です。
 もっとも、その砂は赤絨毯の下に納められているようで、見えませんでしたが。

 午前10時30分頃会場に行きましたが、長蛇の列でした。
 係の人の話では、入場に1時間、参拝に1時間は掛かるとの事でしたので、
 用事もあった事から、諦めました。
 用事が終わって、夕方再度行ってみました。
 そうしたら、今度は空いていて、待ち時間ゼロで入れました。

 入場料金が1200円です。
 料金を支払っている時に、近所に住む高齢者に行き会いました。
 入場すると、僧侶が待っていて、お清めと称して、お香を分けてくれて、
 更に水を少し振りかけてくれました。
 それぞれの寺院にお参りするお賽銭が大変ですからと、
 1冊1000円で賽銭の代わりとなるお札を販売していました。
 その紙を1枚ずつ置きながら、88の寺院の本尊を描いた絵にお参りします。
 それぞれの本尊の真言が書いてあって、3回唱えるのが作法のようですが、
 僕は面倒なのでしませんでした。

 願い事も特にありません。
 宝くじが当たりますようにとか、健康を維持出来ますようにとかは俗ですから、
 ただ同居人の菩提を弔うつもりで手を合わせて祈りましたが、
 10箇所を過ぎた頃から、少し気持ちが洗われたような気分になりました。
 しかし、行き会った近所の高齢者が、まだ徳島県だとか、ここには行った事があると
 色々と話し掛けて来るのに閉口しました。
 その度に、現実に引き戻された感じでした。

 88箇所を回り最後に弘法大師にお参りして終わりになりますが、
 出口で、お砂踏みを行った記念のお守り1000円を販売していました。
 僕は買いませんでした。
 最後に結願の証明書を貰って来ました。

 このお砂踏みのような簡便な方法で参拝する事は、
 江戸時代から各地で行われていたようです。
 江戸時代に建てられた会津若松市のさざえ堂では、
 西国三十三観音が堂内でお参り出来るようになっていました。
 色々な事情で巡礼に出られない人に簡便な方法でお参り出来るようにするのは、
 それはそれで良い事のような気はしますが、
 実際に40日以上掛けて回る事と、1時間ほどで回る事とが、
 同じ御利益と言われると、労力は何なのかとの思いにもなります。
 家の事情ばかりでなく、更にお遍路に行く気持ちが弱まったような気分です。

 今回の催しで、一番御利益を受けたのは主催者だろうなぁと思いながら帰宅しました。
 
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昨日は・・・

2015年02月16日 22時32分59秒 | 日記
 昨日は、上京しました。
 昨年は行った覚えがないので、しばらくぶりです。

 昨日は、用事がありました。
 次男の婚約者のご家族との顔合わせで、
 婚約者の父親と妹、僕と長男、それに次男達が加わって6人での会食でした。
 次男達が設営した東京駅近くのレストランでした。

 婚約者の父上は僕と同じ年です。
 母親は2年ほど前に亡くなっています。
 僕の家も同居人が亡くなってしまいましたから同じような環境です。
 違いは向こうが娘2人、僕の方が息子2人と言う点だけです。
 初対面でしたが、気さくな方なので和気藹々とした感じの会食になりました。

 僕の家が喪中と言う事で、式は先になりそうですが、
 籍は入れたいとの両人の希望なので、そのような事になるでしょう。
 色々と2人で相談して決めるように話しておきました。

 気が付けば、3時間近く話していました。
 それだけ話が弾んだのですね。

 そのまま帰るのも勿体ないので、
 上野の国立博物館に行って「みちのくの仏像」展を観て来ました。
 長男は帰るのかと思っていたのですが、
 親父に付き合ってやろうとの思いがあったのでしょう。
 余り仏像など興味があるとは思えないのですが、ともかく一緒に行きました。

 「みちのくの仏像」は、出品点数が19点と少なかったのですが、
 入館料は1000円で、若干高い感じがしました。
 先日の栃木県立博物館の「下野の仏像と仏画」展は、250円でした。
 もちろん、重要文化財も出展していない「下野の仏像と仏画」展と比べて、
 国宝1点、重要文化財8点でしたが。
 国宝の福島県の勝常寺の薬師如来座像及び両脇侍立像は、さすがに立派でした。
 他の仏像は欠損部分が多いのが気になりました。
 仏像を維持して行くだけの力がなかったのかなと思いましたが、
 どうなのでしょう。

 その会場で、昔の職場の後輩に行き会いました。
 東京で偶然人に会うのは珍しい事です。

 上野駅で、長男とコーヒーを飲んで帰って来ました。
  
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松ヶ崎萬長・・・

2015年02月14日 19時53分49秒 | 日記
 昨夜は、久しぶりに友達と酒飲みをしていました。
 独居生活になってから、飲み過ぎる事がなくなりました。
 帰宅してからの風呂や火の始末などを考えると、
 どうも飲む量をセーブしてしまいます。
 帰宅して、そのまま寝てしまう手もあるのですが、
 そこまで踏み切れないでいます。

 昨日の毎日新聞に、東京駅と台湾の新竹駅が姉妹駅の提携をしたとの記事がありました。
 新竹駅を設計したのが日本人である事が縁との事です。
 新竹駅は、1893年(明治26年)に開業し、
 現在の駅舎は、日本統治時代の1913年(大正2年)完成したもので、
 台湾に現存する駅舎の中では最も古いとの事です。
 辰野金吾が設計した東京駅が開業したのは、1914年(大正3年)ですから、
 共に100年を超える建物の訳です。

 この新竹駅を設計したのが、松ヶ崎萬長(まつがさき つむなが)です。
 1858年(安政5年)、孝明天皇の侍従長堤哲長の次男として生まれていますが、
 孝明天皇の御落胤との噂がある人物です。
 1871年(明治4年)12月、岩倉使節団に加わり、ドイツ(当時のプロイセン)に渡り、
 1883年(明治16年)から2年間、ベルリン工科大学で建築学を学び、
 1884年(明治17年)7月、男爵を賜り、同年12月、帰国しています。
 1885年(明治18年)4月に皇居造営事務局御用掛、
 1886年(明治19年)に内閣臨時建築局工事部長として官庁集中計画に携わり、
 1886年(明治19年)3月15日、辰野金吾、河合浩蔵、妻木頼黄とともに
 造家学会(のちの日本建築学会)の創立委員となりました
 1901年(明治34年)5月に仙台に転居し、仙台の七十七銀行本店の設計を行います。
 1907年(明治40年)、台湾総督府鉄道局に勤務するため、日本を離れ、
 基隆駅や新竹駅などの建築を行い、
 1921年(大正10年)2月3日、東京府で死去しています。

 七十七銀行本店は、現存していないため、
 松ヶ崎が設計して日本に唯一残っている建物が、
 栃木県那須塩原市にある旧青木家那須別邸です。
 1888年(明治21年)に竣工し、現在は重要文化財になっています。
 この建物について詳しくは下記をご覧下さい。
 http://blogs.yahoo.co.jp/tennnennkozi/54410182.html

 台湾の駅がどうなっているのか、気になっていましたが、
 昨日の新聞で、保存されて利用されている事を知り、嬉しくなりました。

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