◾️「オッペンハイマー/Oppenheimer」(2023年・アメリカ)
監督=クリストファー・ノーラン
主演=キリアン・マーフィー エミリー・ブラント ロバート・ダウニーJr. マット・デイモン
クリストファー・ノーランがオスカーを制した「オッペンハイマー」。これまでノーランはSF、サスペンス、アメコミ、戦争映画を手がけ、時系列と既成概念をぶち壊す大胆な演出で一時代を築いた。歴史に残るヒット作の中に作家性を保ち続ける作風。何もここまでめんどくさい映画にしなくても…と毎回思ってきた。非現実と非日常を描いてきたノーランが次に手がけたのは現実世界の出来事。しかも原爆の父と呼ばれた物理学者オッペンハイマーの伝記映画だ。
おそらく僕ら世代の映画ファンなら「シンドラーのリスト」を撮ったスピルバーグを重ねてしまうのではなかろうか。ファンタジーを撮る映画少年が、ホロコーストという厳しい現実を撮る。誰もが驚いたし、その出来栄えに賞賛を送った。ノーランも同じ道を辿っているように思える。
被爆国日本での公開は諸般の事情で大きく遅れた。その意見や感情は理解できる。正直なところ、僕も映画館に駆けつけたい程の気持ちにはなれなかった。スクリーンできのこ雲を観て、冷静な気持ちになれるだろうか。ロスアラモスで開発が進むシーンを観ながら、心の片隅で「やめろ」と声がする。結末も歴史も分かっているのに。
映画は原爆投下を正当化している訳ではない。正直なところ、もっと米国万歳な話になっているのではないかと疑っていた。あくまでもオッペンハイマー自身の心境の変化と、彼をとりまく人々の人間模様と対立を徹底した会話劇で示していく。
原子爆弾の開発という目的のために物理学者が集められる。「これは学問の集大成だ」と彼らは言う。学者としてこれ以上ない大実験の機会が与えられたのだから。そんな中でも、オッペンハイマーの友人でもある物理学者ラビが「学問の集大成が大量破壊兵器でいいのか」と冷静なひと言を発する場面は強く印象に残る。しかし、戦争という時代の空気はそうした声をかき消す。さらに、ユダヤ人としてナチスによるホロコーストを許せないオッペンハイマーの気持ちは揺らぐことはなかった。
原爆投下の罪はアメリカ政府にある。ホワイトハウスでのオッペンハイマーとトルーマン大統領との会話はそれを強く印象づける。
「私の手は血塗られている気がします」
オッペンハイマーの言葉を「泣き虫」だと罵る大統領。ロスアラモスにいた物理学者たちも、ナチスドイツが降伏した後、敗戦がほぼ決定的だった日本に原爆を使うことは望んでいなかった。こうした人々や意見が描かれたことで、否定的な意見があったことが広く知られたらいい。本当に憎むべきは、新型爆弾を使う発想しかなかった戦争なのだ。その政府は水爆開発に否定的な彼が都合が悪い存在になり、赤狩りで表舞台から退かせる。
スティングの歌の中で、Oppenheimer's deadly toyと歌われる核兵器。恐ろしいおもちゃ。
作ったことが罪なのか。
使ったことが罪なのか。
本当の破壊者って誰なのか。
広島、長崎の惨状をオッペンハイマーが映像で目にする場面は無言でサラッと過ぎていく。そこで何を見たのかが描かれないことに不満はある。NHKで放送された「映像の世紀バタフライ・エフェクト」では、この場面について次のようなエピソードを流していた。
長崎の惨状を見てきた一人が「爆弾で立て髪の半分を失った馬がいたが、幸せそうに草を食っていた」と報告したことに、オッペンハイマーは「原爆を善意ある兵器かのように言うのはやめろ」と言い放った、という。映画のオッペンハイマーの口からこの台詞を聞きたかった。
3時間近い時間、人間の弱さと醜さを見せつけられた気がした。視点の違い、現在と過去を色彩の差で構成した演出は見事だ。この映画は、戦火が収まらない今の世界に核兵器について考えさせるきっかけを作ったかもしれない。アメリカの観客にどう受け取られているのかは気になるところだ。それにしても、2023年のアカデミー賞で、本作と核が産んだ脅威である「ゴジラ」が揃って受賞したことに因縁のようなものを感じてしまう。これも日本人の身勝手な感想なのかもしれないけど。
おそらく僕ら世代の映画ファンなら「シンドラーのリスト」を撮ったスピルバーグを重ねてしまうのではなかろうか。ファンタジーを撮る映画少年が、ホロコーストという厳しい現実を撮る。誰もが驚いたし、その出来栄えに賞賛を送った。ノーランも同じ道を辿っているように思える。
被爆国日本での公開は諸般の事情で大きく遅れた。その意見や感情は理解できる。正直なところ、僕も映画館に駆けつけたい程の気持ちにはなれなかった。スクリーンできのこ雲を観て、冷静な気持ちになれるだろうか。ロスアラモスで開発が進むシーンを観ながら、心の片隅で「やめろ」と声がする。結末も歴史も分かっているのに。
映画は原爆投下を正当化している訳ではない。正直なところ、もっと米国万歳な話になっているのではないかと疑っていた。あくまでもオッペンハイマー自身の心境の変化と、彼をとりまく人々の人間模様と対立を徹底した会話劇で示していく。
原子爆弾の開発という目的のために物理学者が集められる。「これは学問の集大成だ」と彼らは言う。学者としてこれ以上ない大実験の機会が与えられたのだから。そんな中でも、オッペンハイマーの友人でもある物理学者ラビが「学問の集大成が大量破壊兵器でいいのか」と冷静なひと言を発する場面は強く印象に残る。しかし、戦争という時代の空気はそうした声をかき消す。さらに、ユダヤ人としてナチスによるホロコーストを許せないオッペンハイマーの気持ちは揺らぐことはなかった。
原爆投下の罪はアメリカ政府にある。ホワイトハウスでのオッペンハイマーとトルーマン大統領との会話はそれを強く印象づける。
「私の手は血塗られている気がします」
オッペンハイマーの言葉を「泣き虫」だと罵る大統領。ロスアラモスにいた物理学者たちも、ナチスドイツが降伏した後、敗戦がほぼ決定的だった日本に原爆を使うことは望んでいなかった。こうした人々や意見が描かれたことで、否定的な意見があったことが広く知られたらいい。本当に憎むべきは、新型爆弾を使う発想しかなかった戦争なのだ。その政府は水爆開発に否定的な彼が都合が悪い存在になり、赤狩りで表舞台から退かせる。
スティングの歌の中で、Oppenheimer's deadly toyと歌われる核兵器。恐ろしいおもちゃ。
作ったことが罪なのか。
使ったことが罪なのか。
本当の破壊者って誰なのか。
広島、長崎の惨状をオッペンハイマーが映像で目にする場面は無言でサラッと過ぎていく。そこで何を見たのかが描かれないことに不満はある。NHKで放送された「映像の世紀バタフライ・エフェクト」では、この場面について次のようなエピソードを流していた。
長崎の惨状を見てきた一人が「爆弾で立て髪の半分を失った馬がいたが、幸せそうに草を食っていた」と報告したことに、オッペンハイマーは「原爆を善意ある兵器かのように言うのはやめろ」と言い放った、という。映画のオッペンハイマーの口からこの台詞を聞きたかった。
3時間近い時間、人間の弱さと醜さを見せつけられた気がした。視点の違い、現在と過去を色彩の差で構成した演出は見事だ。この映画は、戦火が収まらない今の世界に核兵器について考えさせるきっかけを作ったかもしれない。アメリカの観客にどう受け取られているのかは気になるところだ。それにしても、2023年のアカデミー賞で、本作と核が産んだ脅威である「ゴジラ」が揃って受賞したことに因縁のようなものを感じてしまう。これも日本人の身勝手な感想なのかもしれないけど。