アーダ、コーダ、イーダ!

浮かんでは消えていく想い。消える前に名前をつければ、何かにつながるかもしれない。何処かにいけるかもしれない。

8月31日の憂鬱

2006年08月31日 06時13分21秒 | Weblog
 中高生の頃、日曜日の夜たまたまテレビの最後の放送を見ることになり、城跡の画面に木管楽器かなんかで演奏する『荒城の月』が流れる。たまらなくブルーになった。夏休みの最終日と日曜日が重なると、それは倍加した。世界の終わりのような気さえした。

 今日、同じ気持になっている小中高生がいるかもしれない。宿題をやってないと気分はもっと重くなる。ただ、物事は自分が思ってるほど深刻ではない場合が多く、夏休みの終わりってのもその代表。気分転換に学校にでも行ってやるか、そんなところでいいんじゃないか。

 さて、教師の2学期は忙しい。どうせまたバタバタと過ぎ去ってしまうんだろうが、とりあえず、健康診断に備えて、節酒・節煙・運動を心がけなければならない。結果が配られて、「どう?」という言葉で交わされる低い声でのやり取り。一つのイベントだナ。

 教師の皆さん、活力と充実の毎日を!

先を生きるからこそ教師

2006年08月30日 03時51分39秒 | Weblog
 きょうし、と打って変換したら狂死と出た。いやな一日になりそうだ。

 以前、全校生徒を前にしてある教師が「君達より先に生まれたから先生だ」と言っていたが、笑ってしまった。先に生まれた、たとえば屋久杉から学ぶことはある。ただ、それは本人にその姿勢があるからできることだ。先生は違う。先を生きるから先生なのだ。
 生徒の今現在から将来を考え生活や学習を指導する。そういう個別指導的なことではなく、これからの世界を考え、そこから生き方を考え、生徒に仕掛けていくということ。生徒がそれをできるようになればもう先生は必要ではない。できない間は先生の言うことに素直に従う以外はない。
 教師は生徒の一歩先を行く。形だけの研修ではなく、研修アイデアを出して、それに予算を組む姿勢が要るように思う。先を行くから前衛だ。ただ、学校が後衛に成り下がっている現状が教師に閉塞感を抱かせる。小手先だけの改革は体質を変えることは不可能だ。

トイレでの読書

2006年08月28日 21時02分44秒 | Weblog
 トイレに入ればとにかく座る。大だろうが小だろうが座る。座ったら本を読む。この小さな積み重ねは、年間トイレ使用時間を考えると結構大きな積み重ねになる。
 時には朝を迎えるまで読む本もある。でもそうでない本もある。そういう本は、トイレの時間は活用した方がいい。トイレに行けば、座って、読む。一行でもいいし、読みたいだけ。
 小説は新聞連載の小説がいい。区切りがはっきりしているので、単位になる。ぼくは今藤沢周平の『蝉しぐれ』を置いている。出しながら、入れている感じ。
 トイレを活用しよう!

重松清の『カカシの夏休み』を読む

2006年08月25日 21時13分06秒 | Weblog
 世界で一番好きな場所は?と訊かれたら、多分ぼくは本屋と答えると思う。劇場も好きだが、劇場は目的地。本屋は出発地。学生時代一冊の文庫本を買うのにかなりの時間を費やした。何度も手にとっては、考え、既に数冊手にしているのでどうしようかと考える。結局買って、何か悪いことをしたような気持になって帰る。迷わず買った本より先に、迷った方を先に読んでしまう。そしてそれが正解だった時の嬉しさ。

 最近は本屋でじっくり選べない。子どもと行くことが多いからだ。それと本を読む時間がないから、本気で探さない。田舎の本屋には演劇関係の本はなく全て注文してるので、演劇関係はコンスタントに手に入れている。そして小説を余り読まなくなった。特に現代小説は殆ど読まない。

 重松清の『カカシの夏休み』も一回は手にして、結局置いて帰った一冊。先日また手にして、迷った本は正解ということを思い、買った。3篇が収められていて、その表題作を読んだ。面白い。「帰りたい、あの場所にー。」という腰巻の言葉で、これはもしかすると脚本に使えるかもしれないと思ったのだが、脚本の材料探しよりも、小説の面白さに引っ張られてしまった。

 主人公は小学校の教師。

 「中途半端におとなで、こどもで、大袈裟に言えばそれが一瞬ごとにめまぐるしく切り替わる。だから、いつも不安定で、危なっかしい。海水と真水が入り交じる河口のようなものだ。複雑な水の流れは、外からではわからない。甘く見て飛び込むと、渦に巻き込まれたり詰めたい水の層から抜け出せなくなって、おぼれる。」
印象に残った部分。

教師は自分の生き方を大切にすべきだ

2006年08月21日 23時38分48秒 | Weblog
 文部科学省、県教委が色々打ち上げるが、本当に子どものためになっているかというと、そうではないことの方が多い。彼らは日本地図や全県地図を広げて考える人間だが、現場の教師はその町の地図を広げて考え、行動している。
 文部科学省、県教委はそういう教師を支援することが一番のい仕事ではないのか。そういう部分が全くない。「担当者によって違う」とかでは困る。
 彼らは仕事で目に前の仕事を右から左にやっているだけだ。そこに現場感覚を持ち込めよ。あんたらを支えているのは現場だよ。現場への思いやりがなくて、何が出来るんだろうか。
 文部科学省、県教委が何と言おうと、自分の生き方の流儀は大切にしましょう。それがあるから生徒の前に立てるんだから。

 全国の教師諸君、充実の二学期に向けて、考えましょう!

教科書採択文書へのクレーム

2006年08月21日 18時03分59秒 | Weblog
 7月に出した文書にクレームがついた。色々な理由を書いて最後の欄が「その他」。「なし」と書いたら、それが悪いんだと。そこで担当者に電話をした。何故悪いのだ。「他にないんですか?」上に全部書いたからその他はないからないと答えた。加えて、別の教科では「特になし」が通っているので、「特に」を付け加えればいいのか、と訊くと、そういう訳ではないと答える。じゃあどういうことだと訊くと、「担当者によって違いますから」だと。情けない。そんなことでいいんかいな。
 今日から後期補習。朝から、熱くなった一日だった。

 早稲田実業、おめでとう。

夏休みが終わる

2006年08月20日 00時39分37秒 | Weblog
 今日で一週間の夏休みが終わる。徹底して学校の仕事はしなかった。食って、飲んで、寝て、子どもと遊び、犬と話し、DVDで映画を観て、本を読み、グータラな毎日だった。
 川の上流に行った時のそこの水が最高に良かった。
 映画は『シービスケット』。こういう映画を作るアメリカなのに、政治・経済では愚作を連発している。
 本は、石原伸司の『ヤクザは女をどう口説くのか』。刑務所暦20年のヤクザの元親分が書いた本だが、これは面白い。教師は学校関係の本ではなく、違う分野の本をもっと読んだ方がいい。これを読めば、学校での性的問題の多くは解決できるかもしれない。生徒への講演会に招きたい人だ。
 結局盆踊りは今日になった。朝からセッティングがある。ここで生まれ、ここで育ち、今ここに住んでいる。ここに、愛情を注ぎたい。

何故犯罪か

2006年08月19日 00時50分02秒 | Weblog
 生徒への性的行為で処分を受ける教職員が多い。おそらく似たようなことはもっと多く、表面化していないだけだろう。
 教師をしていれば、生徒を好きになることはあるだろう。それはおかしいことではない。ただ、それ以降がまずい。
 教師の多くは恋愛経験に乏しいように思う。乏しいから、女の扱い方(これって失礼な言い方ですが)を知らない。性的行為も含めて愛するということをわかっていない。だから、対象を疎かにする。自分の欲望中心に扱うから、飲み終わったジュースの缶にするような態度を取る。彼女はモノ扱いされていることを知る。そうなると、結果、表面化する。好きになった相手は大切にすべきだろう。大切にされた、愛されたという思いがあればそういう結果にはならないんじゃないか。
 いいオトナがガキンチョを相手にしてどーすんだ。オトナの女を相手にすべきだ。それができないからの逃げでしかねえだろう。その精神が犯罪なんだ。
 いや、どうしても好きだというのなら、卒業してから堂々と付き合えばいい。こんなこと明々白々。それがわからないことが犯罪なんだ。
 

盆踊り、あるいは地域で暮らすこと

2006年08月17日 15時30分28秒 | Weblog
 盆踊りとか行かなかったが、子どもが歩けるようになると、浴衣を着て連れていくようになった。ところが、この6年間、雨が多い。同居人が今日から仕事で家を離れ、浴衣が気になったら、台風の影響で雨足が強まり、むしろ浴衣でない方がいい状況になった。
 盆踊りで、子ども達は大人の後ろに付いて、真似しながら踊る。間違っても恥じず、活き活きと踊る。地域で暮らすことはいいと思う。地域の活性化は子どもをいかに取り込むかという点もある。ただ、盆踊りは大人は子どもに迎合しない。手取り足取りなんざしない。子どもは上手に踊る人をみつけ、その背中だけを見て踊る。それが昔から連綿と続いてきた教育の一つの形だと思う。
 大人は子どもに媚びてはいけない。子どもが「コンチキショー」と思う存在、追い越すべき存在でなくてはならないのではないか。
 ぼくはぼくが住んでいる地域の大人はいいと思う。それにしても、今夜の盆踊り、無理だろうな。