アーダ、コーダ、イーダ!

浮かんでは消えていく想い。消える前に名前をつければ、何かにつながるかもしれない。何処かにいけるかもしれない。

ピラニアとシラス~ある日の学年通信より~

2006年05月31日 20時19分56秒 | Weblog
 シラスというのはウナギの稚魚(ちぎょ)の名前です。近年はどうも外国産のウナギが多いようですが、外国から輸入したシラスをたとえばウナギで有名な浜松(どこの県か、知ってますか?静岡県です)で育てれば国産のレッテルを貼ってもいいとかいう話です。だから、輸入の量では、成長したウナギよりもシラスの方が多いんではないかナ。輸入相手は、世界各国のようで、ヨーロッパが輸出するだけでも年間7億尾という話。もっとも、その全てが無事に成長するとは限らないんです。
 どれくらい確かな話かわかりませんが、10万尾のシラスを空輸すると、その半分が死んだ時代があったようです。そこで、ある養殖業者の社員が、空輸するシラスの水槽にピラニアを入れることを考え付いた。ピラニアは知ってますよね。アマゾン川に生息し、川に入った牛や馬を一瞬にして食い尽くすほどの獰猛(どうもう)な魚として知られていますが、それは集団の場合であって、普段は小魚を食べます。そのピラニアをシラスの水槽に入れたのです。結果は、ピラニアが食べたシラスが約5000尾。残りは生きていました。
 これはどういうことでしょうか。
 ピラニアが入ってない水槽では10万尾のシラスの約半分が死にました。ピラニアを入れた水槽では5000尾がピラニアに食べられ、残りは無事だった。ピラニアを入れることによって、もしかすると、自分が食べられるかもしれないという緊張感が生まれ、それが、シラスの命を救ったという風に考えられないでしょうか。
 「食べられるかもしれない」とかシラスが考える訳がないじゃないか、と反論する人もいると思います。そう。ぼくもそう思います。ぼくは以前、上浦の生徒に招かれてゼンゴ釣りをしました。貸してくれた釣竿の糸の先には針が3本くらいついている。そのどれかにかかるのかと思っていたら、その3本全部にゼンゴがかかっていたりしました。びっくりしながら、嬉しかった。でも、でもですよ。見えない水面下には途方もない数のゼンゴがいると思うのですが、その仲間が次々に釣り上げられて行くのに、一体ゼンゴは何を見ているのか。仲間の悲劇を見て学習せんのか!それとも、釣り上げられることこそ、名誉だとでも考えているのか!ともかく、生死がかかっているのに。ゼンゴはそういうことを考えない。考えないから、おかげで、ぼくのバケツは小一時間で一杯になりました。ゼンゴは考えない。同様にシラスも考えない。だから、「自分が食べられるかもしれないという緊張感が生まれ、それが、シラスの命を救ったという風に考えられないでしょうか」というぼくの記述(きじゅつ)は間違っている、と、皆さんは考えるかもしれない。
ウ~ン。
 ただ、ね、人間は頭だけで考えるとは限らないんではないか、と、これも逃げ口上(こうじょう)になるかもしれないけれど、頭で考える部分は限られている訳だ。
 たとえば、鉢植えの場所を変えたら、その植物が太陽に向けて姿勢を変えるように、そういう部分があるのではないか。「命」は考えるよりも早く、自然に自分を守る方向に反応するのではないか。ピラニアが食おうと追えばシラスは逃げるだけ。無事に逃げても、ピラニアの恐怖を学習している訳ではないから、ノホホンと泳いでいるとまた襲われるので、逃げる。呼吸ができて、心臓が動いているだけの環境。毎日にハラハラドキドキがなかった。ピラニアのいない水槽は何もなかった。何もない環境では生きている実感に乏しい。NOがないから、YESもない。こういうのを空虚、虚無というのでしょうか。それは生きている実感も生きる気力も奪い取る。
 戦乱の最中(さなか。もなかと読まないように)にある子ども達の映像が最近よく流れます。十分な食料がなく痩せてはいるけれど、どの子どもも空虚な眼差しではない。目が輝いている。生きている眼光(がんこう)がある。日本の子ども達にはない強烈なもの。リセットすれば最初からプレイできるゲームに夢中になっているのは、ピラニアのいないシラス状態です。それは、勿論、子どもじゃなく、オトナが悪い。モノを与えることが愛情表現だと考えているオトナが多いが、与えるべきものはお金やモノじゃなく、自分の時間割き、目と耳と肌で同じ体験をする。それがいい。モノを与えること、お金を与えることは、愛情の代替ではなく、愛情の手抜きなのだ.
 生きているということは、呼吸をして心臓が動いているという生物現象だけではない。人間は社会的な動物。一人では生きていけない弱い存在だから、仲間を作る。いや、作るのではなく、仲間は生まれる。生まれるから強く、固い。だから弱い人間でも、仲間を作れば、ライオンの群れより強くなれる。
今、オトナは異常です。
 イラクのあれ、年金のこれだのウダウダ・・・。茶番とオソマツと失笑と落胆とナンテロ、カンテロの議員が典型です。
犯罪が増えている。何故か。困っている人が多いからです。今日本で失業で困っている人がどれだけいるか。そのために学校をやめていく子どもがどれだけいるか。議員は分かっているのでしょうか。多分、関心がないんです。(そんなんで議員って言えるのか!)他国の援助ではなく、まずは日本国内の援助だろうと思う。とにかく、いい加減なオトナは沢山いる。その所業をしっかり見なくてはならない。そして、自分はそんなオトナにはならないぞと思えばいい。それでいい。
 諸君は生まれたからには、可能な限り幸せにならなくてはならない。よく見て、よく聞いて、よく考える。君がシラスか、ピラニアか、状況に応じて変わることも分かるだろう。幸せになろう!

再び個性について

2006年05月30日 18時31分51秒 | Weblog
 中学校から高校に進学する時、推薦入試では推薦の条件がある。多くは部活動での活動、他には生徒会やボランティアの活動がある。それは個性ではなく、特技や能力、顕著な活動だ。その辺に個性は見え隠れする。しかし、それをもって個性と判断するのは良くない。「君はサッカーが上手いね」という言い方は可能だけれど、「そうかサッカーが君の個性か」とは言えないではないか。
 個性はむしろ体臭に近いかもしれない。抑えても出てくる。敵国語として英語が禁じられていた戦時でも、英語や英語作品、ジャズやナンテロやカンテロをこっそりというケースは少なくない。ついついやってしまうのだ。そういう具体的なことをしなくても、自分の体内にフツフツと浮かんでくるものがある。個性は抑えても抑えても出てくる。
 どうも、「ものわかりのいい」オトナが雨後のタケノコみたいに急に出現し始めた時期がある。NOを言わないで、YESを言う。
 子どもにとって、オトナも、オトナの世界も理不尽なところがある。何でや!チクショー、クソッタレ!子どもにはそう思わせればいい。
 ものわかりのいいオトナは子どもに与える。惜しみなく与える。でも、それは子どものためではなく、自分のためなのだ。
 全ては一つの疑問で解決できるかもしれない。

 それは、誰のためだ?

個性なんか認めない

2006年05月30日 03時05分43秒 | Weblog
 おそらく学校は生徒の事情を持ち込みすぎた。そして、その結果、事情に振り回されるようになった。生徒の事情は千差万別。その一つ一つに対応するのは不可能だ。その代表格が「個性」。
 個性の尊重。一体どこの誰が言い出したのか。以前、ルーズソックスが流行っていた頃、学校では禁止していたんだが、ある若い教師が女生徒のルーズソックスを注意したところ、「私の個性です」と言われ、何も言えなかったという。ルーズソックスは、わかりきったことだが、個性ではない。個性の尊重はそういう風に勘違い、思い上がり、身勝手をのさばらせてしまった面がある。
 新しい校長が来ると、経営方針を打ち出すが、その中に「個性」という言葉がたいてい出てくる。それで個性って何ですか、と、訊くが、たいていまともな答えは返ってこない。つまり、よくわかっていない。そのよくわかっていないことで何ができるというのだ。
 個性の尊重というのは魅力的な言葉だが、実体がない。それを持ち込んだ人間はただただ外面つくりのためだけにアドバルーンを揚げたとしか思えない。学校は学ぶ場所だ。それは時代がどう変わろうが、変わらない。時代のあれこれを取り入れるのはよいが、時代に振り回されてはいけない。個性は部活動で尊重してもらうとして、教室では学ぶこと一点に絞り込まなくては。

距離感と職員室

2006年05月29日 06時36分50秒 | Weblog
 高校生の頃、職員室に行った記憶は一回だけしかない。一回だけということもないと思うのだが、遅刻して遅刻届の用紙を取りに行った一回の記憶しかない。
 最近の高校生は職員室に平気に入る。近道に利用する生徒さえいる。職員室が平気になったのは、おそらく、生徒の教師への距離感がなくなったせいではないかと思う。それはそれでいいことだと思う反面、廊下を歩いていて後ろから走ってきてポンと肩を叩き、お早うッスってのはどうかと思う。オレはお前の友達じゃない。
 職員室が一部生徒のサロンのようになっていて、しょっちゅう職員室に来ては若い教師を見つけては、長時間時折笑い声を響かせては話している。教室で友達と話せよ、と思うけれど、中には教室にいづらい生徒もいるかもしれないから厄介なのだ。
 距離は置いた方がいい。余り生徒は近づけない方がいい。間違いの一番の原因だとも思う。

可能性ゼロの悦び

2006年05月27日 13時15分02秒 | Weblog
 「こいつが親になったら、どんな子どもに育つのだろう」と、時々考えることがある。「こいつ」がズボンを下げてトランクスを見せ、遅刻は多いし、進級はギリギリだったり、化粧に茶髪で机の上にペットボトルを置いて、当てれば「わかりませ~ん」としか答えなかったり、とにかくそれで子どもを育てることができるのか心配になることがある。成績や問題行動で呼び出したら、おばさんやおじさんになった「こいつ」と再会することになるのか・・・。ただ、その頃は、ぼくは退職している。そう思うと、少し楽になる。

サムライ、ブルー

2006年05月26日 23時25分25秒 | Weblog
 昔生徒会顧問になった時、上司の特別活動主任(特活主任)はぼくにこう言った。
「オレは、生徒会のことは分からん。好きにしていい。責任は全て持つ」
ぼくはこの言葉を額面通りに受け取り、取り組んだ。文化祭前には、生徒会役員に学校のセミナーハウスに着替えを持ってこさせた。
「いいか、泊り込むんじゃない。文化祭の準備をしてて、疲れたので、ちょっと横になったら朝になっていました。それだけのことだ。」
文化祭は祭だから、日常とは違う空間だ。羽目を外さないと、祭にはならない。ただ、風呂の問題があった。生徒はチャリで頃合を見計らって銭湯に行っていた。また、食事の問題があった。これまた生徒は上手に処理していたようだったが、ある夜、特活主任は寿司を差し入れしてくれた。生徒の眼差しがぼくに向いた。次の夜、モスバーガーを一人2個ずつ差し入れしたら、2万を超えて、青ざめた。

 好きにしていい。責任は全て取る。

こう言える上司は絶滅の危機にある。管理職の殆どは自分の保身しか考えていない向きがある。青ざめたサムライばかり。いや、サムライの心根なんて教育現場では遺伝子すら残っていないのかもしれない。
 学校は多くの問題を抱えている。解決の一手は、教師が尊敬できる校長だ。最近は上からの指示を伝えるだけの「掲示板」だけの校長が多い。想像力と感性に優れていて、さすがだ、と思うからこそ上司ではあるまいか。
 東京都が職員会議での多数決にNOを出したが、納得できる校長がいないことが問題であることを、まず認識すべきだ。
 理想の上司が毎年発表されるけれど、文部科学省はアンケートで「理想の校長」を問い、結果を発表すればいい。コソコソしてるから、理解も効果もないんだ。

サムライ・ブルーのワールドカップ戦士の活躍を応援します。頑張れ、日本!

教師百景(2)

2006年05月26日 21時18分21秒 | Weblog
 16歳から18歳の高校生を相手にしていると、目の前の人間が歳を取らないので、教師も自分の歳を忘れるのかもしれない。
 中学を卒業して、30年ぶりの同窓会。会場に入って、「すみません、間違えました」と出た。外で会場案内を確かめると、間違いはない。それでまた恐る恐るドアを開け、半身で覗き込む。おじさん、おばさんばかりだ。すると向こうから「○○ちゃん!」と声がして頭髪の薄くなった小太りのおじさんが走りよってきた。もしかして・・・?そうだ! 
 そうなのか、オレはあのおじさん、おばさんと同じなのか。かつて憧れた可憐なセーラー服の君も今では立方体に近くなっている。オレもまた、かつての面影もなく・・・、待てよ、何故あいつはオレを見て迷うことなく名前を呼んだんだ。

 ぼく自身のことも書いておかないと・・・。んじゃ!
 

学校のNO 携帯電話

2006年05月26日 06時00分06秒 | Weblog
 昔、ポケベルが流行っていた頃、休み時間や昼休み、学校の公衆電話には生徒が群がり、凄い速さでダイアルボタンを押していたものだ。最近公衆電話が殆ど使われずに、事務室はテレフォンカードを使わないで、このままでは撤去しないといけないから、と、漏らす。
 予想を超える多くの生徒が携帯電話を持っている。どこの学校でも生徒の携帯電話の使用については頭を抱えているようだが、修学旅行では役に立つ。
 5年ほど前、校内では使用禁止の携帯を、修学旅行では許可した。校長は苦い顔をした。ところが、生徒が財布を失くし、担任の携帯に連絡してきた。担任は旅行社のスタッフに携帯で電話。やがて、見つかったという連絡があった。それまで携帯を持っていなかった校長は旅行から帰ると、携帯を購入した。
 以前は、生徒の自主研修中は、ホテルに待機して、生徒からの連絡に備えていなくてはならなかった。しかし、携帯の普及で、その必要がなくなった。同時に生徒からの連絡が増えた。それは北海道の旅行では「カニは何処で買えばいいんですか」というのが多かったが、気楽に連絡できるようになったようだ。
 教師が夜見回っていると、ある部屋で携帯の明かり。どうやらメールを打っているらしい。誰にだ、と、教師が問うと、同じ部屋の友達だったという話しがある。
 おそらく、携帯は更に進化し、学校で問題になることも出てくるだろう。ただ、闇雲に禁止するより、正しい使い方という形で指導した方がいいように思う。学校にはNOが多すぎる。

ちょっとタメ息

2006年05月25日 18時14分42秒 | Weblog
ブログの女王と呼ばれるタレントの眞鍋かおりに挑戦してみるか、と、最初は考えたが、それがとんでもないことだとすぐ分かった。彼女は知名度があるから、それだけで訪問者は増える。現在、ぼくが利用しているブログのアクセスランキングトップは一日のアクセスIPが15000を超える。1分に10人ちょっと。現在ぼくのブログが1日に40程度だから、驚嘆と同時に底なしの無力感に突き落とされる。
また、投稿してすぐ「新規記事」をクリックしてみると、ぼくの記事のタイトルが一番上にあることはない。すぐなのに、ぼくの上にはもう20近くのタイトルが並んでいることもある。時間帯を変えてやってみるが、一番上になることはない。同じ時間に日本のあちこちのあいつやこいつが投稿している訳だ。とてつもない世界だ。
 そして、これはつい最近気がついたのだが、ぼくのブログを訪ねた数、つまりアクセスポイントとそのポイントがそのサイトのブログの中で何位かが表示される仕組みになっている。ただ、上位1000までしか順位は出ない。ぼくがびっくりしたのはそのサイトのブログの数だ。ぼくが開設した時は、

―位(541890BLOG中)

と表示されていた。言うまでもないと思うけれど、位の前の「-」は漢数字の「一」ではなく、ハイフン。ぼくが始めた時にそのサイトのブログだけで54万以上あったのだ。他のサイトを入れれば、総数がどれだけになるか、見当もつかない。これまた天文学的な数字かもしれないが、ブログに興味を持っている人が多いことは明白だ。で、その後の毎日のブログ数を見ると、なんと、ほぼ1000ずつ増えているではないか。来年の春先には80万を超える計算だ。オーマイ、ゲッ!異常だ。雨後のタケノコウルトラ・スーパー現象だ。
 Be cool!
 人気ブログが本になったり、映画化されたり、今やブログは文化の一翼を担っていると言ってもいいかもしれない。ぼくはインターネットを始めた時、図書館を手に入れたような気持になった。そして、インターネットが図書館より優れているのは、本となって出版されない情報が手に入ることだ。本にするにはお金がかかる。ところが、その辺をインターネットはヒョイと乗り越えることができる。自分でホームページを開設すれば、自分のこだわりをとことん披露できる。それがどんなにマイナーだろうと関係ない。たとえば、ぼくが好きな作家のロアルド・ダール(『チョコレート工場の秘密』が映画化されたが・・・。もう亡くなったが、生前は世界一原稿料の高い作家と言われていた。ちなみに、日本は原稿料を原稿用紙の枚数で計算するが、はて、日本で一番原稿料の高い作家は誰だろうか、と、調べたことがあった。その時の結果は2万円だったが、もっと高い作家もいたかもしれない。もう一つちなみに、アメリカの作家で数々のヒット映画の原作を書いたマイケル・クライトンはハーバード大学医学部を卒業したが、彼はお金がなくて、お金がなくて始めることができる商売は何かと考えて、結論が作家だった。『アンドロメダ病原体』はベストセラーになり、映画化された。以後、書くたびに映画化された。彼の原稿料も今は凄いだろうナ。・・・説明が長すぎて、前の文、忘れるでしょ?))の名前を打ち込んで検索すると、凄まじい数の結果になる。
 インターネットは多くの人に場所を与えた。その功績は大。
 ブログも同じ。雑誌に投稿しても採用されない内容のものが、世界に発信できるのだ。ただ、インターネットは自分を隠せるし、偽ることもできる。そこが問題なんだが、だからこそ、毎日増殖しているのだ。

 ウ~ム、ブログの向こうが見えない。

地球上の生命の数は一定である

2006年05月25日 06時00分48秒 | Weblog
 東京にいた頃、ヤギにそっくりな人がいた。この人の前世はヤギだったのか、と、思った時にある台詞を思い出した。
「誰かが泣き出すと、誰かが泣き止む。誰かが泣き止めば、別の誰かが泣き出す。だから世界の涙の量は一定なんだ」
手元にないので確かめることはできないが、確かそんな内容だったと思う。
 その「涙」を「生命」に置き換えれば、
「ある生物が死ぬと、新しい生物が生まれる。ある生物が生まれると、別の生物が死ぬ。だから、世界の生命の数は一定である」
 おそらくあの人に宿った生命は以前はヤギに宿っていたのだ。前の器の記憶が残っているので、新しい器の形がそれに似てしまった。
 君に宿る生命は前はユリの花に宿っていたんだね。だから、君はユリのように美しいんだ。ってな口説き文句はダメか?