何かをすれば何かが変わる

すぐに結論なんて出なくていい、でも考え続ける。流され続けていくのではなくて。
そして行動を起こし、何かを生み出す。

なぜ君は絶望と闘えたのか

2008-07-22 22:52:55 | 心に残ること
【くにのあとさき】東京特派員・湯浅博 なぜ絶望と闘えたのか 産経新聞 2008.7.22(火)08:15

 光市母子殺害事件の遺族、本村洋さん(32)が犯人の死刑判決を勝ち取るまでの9年間は、司法への義憤と自らの死のはざまで揺れる過酷な日々であった。

 その青年の胸に刻まれた言葉は、「天網恢々(かいかい)疎にして漏らさず」だったという。天に張る網は粗いが、悪人は漏らさずに捕らえるという老子の言葉である。

 妻子を殺害されながら、なぜ彼は3300日を闘い抜くことができたのか。誰もが抱いていた思いは、おそらくこの言葉の中に隠されているような気がする。

 ジャーナリスト門田隆将氏の新著『なぜ君は絶望と闘えたのか』(新潮社)を読み、彼を何度も「闘いの場」に引き戻し、支え続けた人々がいたことを知った。

 世間には人をだまし、訳もなく人を刺し殺す不逞(ふてい)の輩(やから)がいる。それでも門田氏の筆は、いまだ、決然と正義を貫こうとする人々がいることを伝えてくれる。

 絶望との闘いは、むろん本村さんのたぐいまれなる精神力によるところが大きい。テニス好きの彼は、多感な中学時代にネフローゼ症候群を発病し、以来、この難病と闘ってきた。このとき、彼に勇気を吹き込んだのは主治医の佐藤克子医師であったという。

 「あなたは病気と結婚しなさい。それ、覚悟するのよ!」

 幸運だったのは、妻、弥生さんとの出会いだ。「無理かもしれない」と宣告されていた子供を授かったことでもある。それだけに、突然、愛妻と子供を無残に殺された喪失感はいかばかりか。

 その年、平成11年の年が明けると、本村さんは再度のネフローゼ治療を終えて病院を退院し、新日鉄の職場に復帰した。そこに襲った悲劇-。犯人は18歳の配管設備会社の社員だった。

 新たに少年法の壁が立ちはだかる。奥村哲郎刑事は本村さんの心理状態が極限にあることを察知すると、神戸・酒鬼薔薇事件の遺族である土師守さんに彼への励ましの電話を依頼する。2人は内面の葛藤(かっとう)を吐露しあい、被害者無視の司法に怒りを向ける。

 生きる意欲をなくし、上司に辞表を提出したこともあった。しかし上司は「君が辞めた瞬間から私は君を守れなくなる」とそれを許さない。「君は社会人たれ」と辞表は破り捨てられた。

 1審の山口地裁判決で犯人が死刑にならなければ、「命を絶とう」と思い詰めていた。それは「被害者が2人なら無期懲役」という司法の世界にある相場主義への挑戦である。1人であろうと人を殺(あや)めた者が、自分の命で償うのは当然ではないかとの思いだ。異変に気づいた上司がかけつけ、自殺を思いとどまらせている。

 山口地裁の1審判決は、相場観どおり「無期懲役」になった。このとき、本村さんは会見で司法への絶望を語った。しかし、吉池浩嗣検事は「100回負けても、101回目をやる」と目頭を赤くして本村さんらに訴えたという。

 門田氏の報告は日々のニュースが追えない事実の積み重ねで、舌を巻かざるをえない。

 こうして9年の歳月が流れ、ことし4月、最高裁の差し戻し控訴審で死刑判決が下された。判決の翌朝、門田氏は広島拘置所で犯人に面会する。男は「胸のつかえが下りました」と述べ、憑(つ)きものが落ちたようだったという。

 どんなに司法制度が加害者に甘く、大弁護団が加勢しても、本村さんに対する物言わぬ支援者たちは、一貫して「疎にして漏らさず」を支持していた。(ゆあさ ひろし)
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感動の経営

2008-07-22 22:30:59 | Book Reviews
「感動の経営 大事は理、小事は情をもって処す 高原慶一朗・著、ダイヤモンド社、1994年6月9日

p.5 「あらゆる変化は成長と進歩の因子であり、人も企業も、自分の考え方・行動・習慣の中で具体的に変化したぶんだけ新しい価値が生まれる」

p.7 メーカーとして消費者のニーズに合わせた生産技術を、たえず開発していくことが何よりも大切である。

p.7-8 確かな技術力による高品質の商品を適正な価格とタイミングで発売できれば、消費者の変化はさほど怖いものではない。それによって、需要を追いかけるのではなく、消費をリードする主体性を企業が得られるからである。

p.10 「人が協力してくれれば自分は人使いの名人だと思い、商品がたまたまヒットすると商品開発のコツを体得したと思い、資金繰りに困らないとバランスのとれた人間だとうぬぼれた」

p.33 理学博士で第一次南極越冬隊の隊長も務めた西堀栄三郎氏が、創造性(新しい発想やアイデア)の発揮のしかたには二通りあるといっている。
 一つは、「これまでのモノでは不便だ」「こういうものが欲しい」という要求や切実感が、その解決策として新しいアイデアや発想を生むもの。既成のものに対する不満が創造性を促すわけである。
 もう一つは、アイデア先行型。こういうアイデアを思いついたが、これは何に使えるか、どうしたら実現できるかと考えるやり方。
 私は、これに技術力というファクターも加えたい。

p.35 小学生の女の子にお母さんがいった。「学校のベルは授業のはじまりと終わりに鳴るのよ」女の子は首をふった。「ううん。休み時間のはじまりと終わりに鳴るの」
 二人の靴のセールスマンがアフリカの未開の土地に派遣された。一人が本社に連絡を入れた。「まったく見込みはありません。ここでは誰も靴をはいていません」もう一人からも連絡が入った。「絶好のビジネスチャンスです。ここでは誰も靴をはいていません」

p.44 商品を測るものさしが客の実感でなく、つくる側の自己満足であるケースだ。こうした商品は失敗する。それが素晴らしい商品であるかどうかを決めるのは消費者であって、メーカーではないのだ。

p.45 失敗を成功の母体とするには、失敗の原因を「景気が悪いせいだ」「ライバル会社が類似商品を発売したからだ」などと他人に転嫁しないこと。失敗の要因は100%自分の側にある。「物事の原因はすべて自分にあり、改善するには自分の力を向上させる以外にない」と考えることだ(原因自分論)。

p.57-8 慶応大学の井関利明教授は『ライフスタイル全書』の中で、「企業サイドの事情や都合から商品開発をするのでなく、ライフスタイル・アプローチによって消費者の購買意識や購買態度の変化を捉え、潜在的な需要基盤を発見していくべきだ」と述べておられる。

p.75 セールスとは商品を売ることでなく、顧客に利益を売り、自分という人間を売ることである。

p.82 小さいうちならともかく、中堅以上の企業ともなれば企業はやはり社会の公器である。そこには品、といってあいまいなら社会性・公共性が要求される。

p.87 ある商品の市場力、つまり売れるか否かを決定するのは、品質、価格、(発売の)タイミングの三要素が深く関わっていると思う。

p.100 自己成長や自己啓発は、不安と自信の繰り返し、チャレンジ限界自覚自信喪失再チャレンジのプロセスそのものであり、その中から経営哲学らしきものがゆっくりと生み出されてくる。

p.100 原因自分の哲学とは、自分が成したことの結果にはすべて自分自身に原因と責任がある、とする考え方である。ことに失敗の原因は外へ転嫁せず、「内」に求める。失敗は自分に原因がある(成功はほかに要因があると考えられれば理想)、「非は我にあり」とする姿勢のことだ。
 何か失敗したり、問題が起こったりすると、誰もがその原因を「外」に求めがちである。あいつが悪い、周囲が悪い、社会が悪い、運が悪い、タイミングが悪い、といった具合に(原因他人論)。

p.107 元経団連会長の土光敏夫さんは東芝の社長に就任したとき、最初の記者会見で開口一番、「東芝の悪口を耳にしたら、すぐに教えてもらいたい。悪いことを知らせてくれた人には礼をさし上げる。ただし、誰がそれをいったかは告げないでほしい」といったそうである。

p.131 量を量で稼ぐのではなく、質で量を生み出す姿勢である。

p.133 社員教育というと、OJTなどの理論が取りざたされるが、私は教える側が「教」と「育」を混同しないことがもっとも肝心ではないかと思う。
 育てるとは、社員に知識ではなく、知恵をさずけ、自発性や自立をうながすことである。命令や指示を待って動くのでなく、暗示や指導によって応用問題が解ける人間をつくることである。

p.135 やりがいや意欲を押しつけるのでなく、自発的に醸成させるように仕向けていく。そうすることで社員みずからが向上心をもち、自己革新していけるようになること。「自主性」を養うことが人材育成の基本ではないだろうか。

p.141 感:情報×感性×達成意欲、勘:情報×知識×小さな成功体験、観:情報×本質×論理の体系化。

p.146 結果を管理するな、途中を管理(評価)せよ。

p.148 苛立ちや不機嫌は、長い間立ち通していたことからも生じる。そのような人に対しては「道理を説くよりも、椅子を差し出してやるがいい」――。

p.160 〈5C主義〉①Change(変化)、②Challenge(挑戦)、③Competition(競争)、④Creation(創造)、⑤Communication(伝達)

p.163 力を伸ばすのは技術ではなく、仕事を好きになることだ。
 仕事を「~ねばならない」義務感でとらえている限り、苦しさは消えない。義務感を消すのは「~したい」と言う「主体性であり、主体性は好きであることから生じるのだ。

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