【くにのあとさき】東京特派員・湯浅博 なぜ絶望と闘えたのか 産経新聞 2008.7.22(火)08:15
光市母子殺害事件の遺族、本村洋さん(32)が犯人の死刑判決を勝ち取るまでの9年間は、司法への義憤と自らの死のはざまで揺れる過酷な日々であった。
その青年の胸に刻まれた言葉は、「天網恢々(かいかい)疎にして漏らさず」だったという。天に張る網は粗いが、悪人は漏らさずに捕らえるという老子の言葉である。
妻子を殺害されながら、なぜ彼は3300日を闘い抜くことができたのか。誰もが抱いていた思いは、おそらくこの言葉の中に隠されているような気がする。
ジャーナリスト門田隆将氏の新著『なぜ君は絶望と闘えたのか』(新潮社)を読み、彼を何度も「闘いの場」に引き戻し、支え続けた人々がいたことを知った。
世間には人をだまし、訳もなく人を刺し殺す不逞(ふてい)の輩(やから)がいる。それでも門田氏の筆は、いまだ、決然と正義を貫こうとする人々がいることを伝えてくれる。
絶望との闘いは、むろん本村さんのたぐいまれなる精神力によるところが大きい。テニス好きの彼は、多感な中学時代にネフローゼ症候群を発病し、以来、この難病と闘ってきた。このとき、彼に勇気を吹き込んだのは主治医の佐藤克子医師であったという。
「あなたは病気と結婚しなさい。それ、覚悟するのよ!」
幸運だったのは、妻、弥生さんとの出会いだ。「無理かもしれない」と宣告されていた子供を授かったことでもある。それだけに、突然、愛妻と子供を無残に殺された喪失感はいかばかりか。
その年、平成11年の年が明けると、本村さんは再度のネフローゼ治療を終えて病院を退院し、新日鉄の職場に復帰した。そこに襲った悲劇-。犯人は18歳の配管設備会社の社員だった。
新たに少年法の壁が立ちはだかる。奥村哲郎刑事は本村さんの心理状態が極限にあることを察知すると、神戸・酒鬼薔薇事件の遺族である土師守さんに彼への励ましの電話を依頼する。2人は内面の葛藤(かっとう)を吐露しあい、被害者無視の司法に怒りを向ける。
生きる意欲をなくし、上司に辞表を提出したこともあった。しかし上司は「君が辞めた瞬間から私は君を守れなくなる」とそれを許さない。「君は社会人たれ」と辞表は破り捨てられた。
1審の山口地裁判決で犯人が死刑にならなければ、「命を絶とう」と思い詰めていた。それは「被害者が2人なら無期懲役」という司法の世界にある相場主義への挑戦である。1人であろうと人を殺(あや)めた者が、自分の命で償うのは当然ではないかとの思いだ。異変に気づいた上司がかけつけ、自殺を思いとどまらせている。
山口地裁の1審判決は、相場観どおり「無期懲役」になった。このとき、本村さんは会見で司法への絶望を語った。しかし、吉池浩嗣検事は「100回負けても、101回目をやる」と目頭を赤くして本村さんらに訴えたという。
門田氏の報告は日々のニュースが追えない事実の積み重ねで、舌を巻かざるをえない。
こうして9年の歳月が流れ、ことし4月、最高裁の差し戻し控訴審で死刑判決が下された。判決の翌朝、門田氏は広島拘置所で犯人に面会する。男は「胸のつかえが下りました」と述べ、憑(つ)きものが落ちたようだったという。
どんなに司法制度が加害者に甘く、大弁護団が加勢しても、本村さんに対する物言わぬ支援者たちは、一貫して「疎にして漏らさず」を支持していた。(ゆあさ ひろし)
光市母子殺害事件の遺族、本村洋さん(32)が犯人の死刑判決を勝ち取るまでの9年間は、司法への義憤と自らの死のはざまで揺れる過酷な日々であった。
その青年の胸に刻まれた言葉は、「天網恢々(かいかい)疎にして漏らさず」だったという。天に張る網は粗いが、悪人は漏らさずに捕らえるという老子の言葉である。
妻子を殺害されながら、なぜ彼は3300日を闘い抜くことができたのか。誰もが抱いていた思いは、おそらくこの言葉の中に隠されているような気がする。
ジャーナリスト門田隆将氏の新著『なぜ君は絶望と闘えたのか』(新潮社)を読み、彼を何度も「闘いの場」に引き戻し、支え続けた人々がいたことを知った。
世間には人をだまし、訳もなく人を刺し殺す不逞(ふてい)の輩(やから)がいる。それでも門田氏の筆は、いまだ、決然と正義を貫こうとする人々がいることを伝えてくれる。
絶望との闘いは、むろん本村さんのたぐいまれなる精神力によるところが大きい。テニス好きの彼は、多感な中学時代にネフローゼ症候群を発病し、以来、この難病と闘ってきた。このとき、彼に勇気を吹き込んだのは主治医の佐藤克子医師であったという。
「あなたは病気と結婚しなさい。それ、覚悟するのよ!」
幸運だったのは、妻、弥生さんとの出会いだ。「無理かもしれない」と宣告されていた子供を授かったことでもある。それだけに、突然、愛妻と子供を無残に殺された喪失感はいかばかりか。
その年、平成11年の年が明けると、本村さんは再度のネフローゼ治療を終えて病院を退院し、新日鉄の職場に復帰した。そこに襲った悲劇-。犯人は18歳の配管設備会社の社員だった。
新たに少年法の壁が立ちはだかる。奥村哲郎刑事は本村さんの心理状態が極限にあることを察知すると、神戸・酒鬼薔薇事件の遺族である土師守さんに彼への励ましの電話を依頼する。2人は内面の葛藤(かっとう)を吐露しあい、被害者無視の司法に怒りを向ける。
生きる意欲をなくし、上司に辞表を提出したこともあった。しかし上司は「君が辞めた瞬間から私は君を守れなくなる」とそれを許さない。「君は社会人たれ」と辞表は破り捨てられた。
1審の山口地裁判決で犯人が死刑にならなければ、「命を絶とう」と思い詰めていた。それは「被害者が2人なら無期懲役」という司法の世界にある相場主義への挑戦である。1人であろうと人を殺(あや)めた者が、自分の命で償うのは当然ではないかとの思いだ。異変に気づいた上司がかけつけ、自殺を思いとどまらせている。
山口地裁の1審判決は、相場観どおり「無期懲役」になった。このとき、本村さんは会見で司法への絶望を語った。しかし、吉池浩嗣検事は「100回負けても、101回目をやる」と目頭を赤くして本村さんらに訴えたという。
門田氏の報告は日々のニュースが追えない事実の積み重ねで、舌を巻かざるをえない。
こうして9年の歳月が流れ、ことし4月、最高裁の差し戻し控訴審で死刑判決が下された。判決の翌朝、門田氏は広島拘置所で犯人に面会する。男は「胸のつかえが下りました」と述べ、憑(つ)きものが落ちたようだったという。
どんなに司法制度が加害者に甘く、大弁護団が加勢しても、本村さんに対する物言わぬ支援者たちは、一貫して「疎にして漏らさず」を支持していた。(ゆあさ ひろし)