実は読書は好きだが、闘病日記だけは好んで読んだことがない。また、1冊も持っていない。
旦那にブログに書いてもいいか聞くと「いいよ。」と、言う。たぶん、おしゃべりな私が黙っているわけにはいかないと知っているのだろう。そして、せっせと書いていて初めて、闘病日記は書かずにはおられない気持ちが書かせるのだということが分かってきた。心に持っていられないのだ。
闘病日記の本の結末はたいがい「死」だ。縁起でもないと思うが、誰でも死に向かって生きていることを普通は意識しない。意識していたら身が持たない。ところが、嫌でも遭遇するその時に、泣き、うろたえ、後悔し、懐かしむ。何よりも、残される寂しさを思う。
下血の後、一命を取り留め、ほっとすると「ありがとう。的確な対処で冷静さに感謝する。」と、言われた。
その時ほんとうに冷静だった。治ると信じていた。失った血は輸血すればいいと、楽観的に思っていたからだ。無知が幸いするときがある。
二度目の静脈の血栓は腎臓から下全部が詰まっているのを見せられ、行く道は「突然死」という危険を何回も刷り込まれ、医学的な危険度の高い知識を植え付けられる。意識しないではいられない状態になる。ひとりになるたびに泣いていた。
そんなとき、家族や友達の声を聞くとホッとする。後のことを今考えて背負うことはないと言われて、聞いてくれる友達に感謝する。しかし、ひとりになるとやはり我慢できなくなる。そんな時に、パソコンに向かうと涙が流れても、少しずつ気持ちが整理されていく。闘病日記を書く意味が分かってきた。ほんとうに自分が弱い人間であることがわかり、今まで見えなかったことが見えてくる。幸せだったことが当たり前に続くわけではなく、誰もが必ず通る試練であることも知る。
こんなに弱い自分を知り、いつも支えられていたから生きて来られたことを思う。