交通事故は須らくクルマが悪い、という主張は、「弱者」=「善」という救いようの無い思い込みが前提にあるわけです。交通法規がクルマに厳しいのも、本来は法規を守っている前提での話で立場の弱い歩行者や自転車を保護するに過ぎず、有責被害者の責任をほとんど問わずに保護する現状は運用が間違っているといえます。
そうした弱者の違法行為を戒めようと警察も必死ですが、こういう現実を見ると「弱者」として保護するに値するか、という話になります。
高齢者の死亡事故のうち実に6割以上、おおよそ7割が犠牲者の違法行為が原因、というのです。
2割でも「問題」というべきところ、過半数を大きく超える7割近くです。高齢者の死亡事故の多くが自らルールを守っていれば発生しなかったのです。
まだ社会のルールを知らない幼児や児童じゃないのです。もちろん認知症など特殊事情もあるでしょうが、それは一部でしょう。故意の法律違反で、過失の「加害者」が罪に問われることが、「公平」でしょうか。
自転車の無法もこうした偏った責任が生んだものでしょう。そういう意味では、責任が無い事例では弱者として十二分に保護する反面、事故に遭えば取り返しのつかない事態になるのを承知で故意に違反行為をした結果の事故であれば、一定の条件下ではクルマの責任を問わない、すなわち「犬死」になる判例を出すことが必要です。
安全運動の啓蒙も大切ですが、故意の違反行為を撲滅するほうが交通安全の実が上がるのです。
そのためには、「犬死」になるという冷酷な現実を示すことで抑止力にすべきでしょう。クルマに対しては、免許更新時などに事故を起こしたら身の破滅と繰り返すことが抑止効果になっていますが、本来教育すべきは「弱者」という名の「無法者」なのです。