凶弾に斃れた安倍元首相の国葬、野党というか「ゆ」党どころかほとんど「よ」党の「Ye」党的な維新あたりが論点をはぐらかして国費の問題にすり替えています。
左派の毎度の反対論にしても、この誤った土俵に乗っかってしまっており、その典型が公費での出席は違法というものでしょう。じゃあ首長はあらゆる冠婚葬祭その他の行事に公用出張はしないのか。公用車は使わないのか。こんな無理筋の主張をしたら、かえって理路整然と国葬を肯定するだけでしょう。馬鹿に語らせるとロクなことにならない典型です。
本来の論点はただ一つ、この人物が国葬をするに足る業績を上げていたのか、であり、その基準は国葬となった吉田茂と、国葬にならなかった岸信介、佐藤栄作、中曽根康弘との比較というある意味簡単な評価です。
それをしたら国葬をするに足るかどうかは一目瞭然なので(皮肉なことに祖父や大叔父との比較になりますね。沖縄返還を実現し、ノーベル平和賞を受賞した佐藤栄作と比較したらどうでしょうね)、在任が一番長いというまあ客観的な基準を持ち出していますが、誰がどう考えても「長ければいいのか」という話になります。
そもそも政権与党として長きにわたり君臨していた自民党において、その総裁が首相(候補)になるという不文律があるわけで、自民党総裁の選出基準が万古不変であれば「長さ」で評価することも可能です。
ところが自民党総裁選出に関する党則は過去何回か変更されているわけで、1974年以前は多選可能だったものが、以降は任期3年の再選まで、さらに1978年からは任期2年の再選までと、最大4年という党則が2003年まで四半世紀続きました。
ですから総裁として「一丁上がり」で再登板しない限り、総裁、そして首相は4年以上務めることは無いわけで、党則を遵守している以上は「長きにわたり」という評価は意味がないものでした。奇しくも多選禁止となった改正前に佐藤元首相が4選していますが、これで打ち止めと4選当初に宣言していること、そして1974年の党則改正と、多選による弊害をまず戒めていた過去の経緯を踏まえると、長さを評価基準にすることはナンセンス極まりありません。
1974年に多選禁止規定が導入されて以降、唯一の例外として中曽根元首相は再選の任期満了後特例で1年間の延長を認められましたが、任期による評価であれば党則の例外となった中曽根元首相の方が「評価」の対象でしょう。
一方で小泉元首相も3選を特例で容認する動きの中で辞退していますが、こちらは任期中にそもそもの総裁任期が2年から3年に延長されていますし、安倍元首相のケースは2017年に総裁の3選が可能になるという党則改正が行われており、いわば小泉総裁時代の党則改正との合わせ技で「長きにわたり」が実現した格好です。
(本来2期4年までだったものが最大2期6年になり、現在は3期9年までと2倍以上に延びている)
いわば「お手盛り改正」とも見られかねない党則改正によって実現した「任期」を以って、1人の例外を除き4年あるいは6年を超えての「任期」が不可能だった時代の総裁(首相)よりも高い評価というのは話になりませんし、それで戦後2例目の臣下の国葬というのは悪い冗談です。
なお、国葬でないと弔問外交が出来ない、というのも詭弁で、大平元首相の「内閣、自民党合同葬」はカーター米大統領、華国鋒中国首相が参列し弔問外交を繰り広げたわけで、あるいは佐藤元首相の「国民葬」は台湾政府関係者の参列について「国葬」だと北京政府との関係がややこしくなるという配慮もあったわけで(国民葬は国府断交からまだ年も経っていない1975年です)、国葬である必然性については弔問外交には左右されない、逆に国交や友好関係を超越した弔問外交が可能になる、という過去の実績を見ていませんね。「国葬でないから来ないでください」とでも言うのでしょうか。
国葬の「基準」について維新の黒幕がニュースショーでしきりに主張しているわけですが、確かに法的根拠を欠く状態での「国葬」は、吉田元首相クラスの業績がなければ無理でしょう。一方で基準として挙げているのが「首相経験者」となるわけで、そうなると時の政権が人気取りで乱発した国民栄誉賞の如く「国葬」の価値も何もあったもんじゃなくなります。
左派の毎度の反対論にしても、この誤った土俵に乗っかってしまっており、その典型が公費での出席は違法というものでしょう。じゃあ首長はあらゆる冠婚葬祭その他の行事に公用出張はしないのか。公用車は使わないのか。こんな無理筋の主張をしたら、かえって理路整然と国葬を肯定するだけでしょう。馬鹿に語らせるとロクなことにならない典型です。
本来の論点はただ一つ、この人物が国葬をするに足る業績を上げていたのか、であり、その基準は国葬となった吉田茂と、国葬にならなかった岸信介、佐藤栄作、中曽根康弘との比較というある意味簡単な評価です。
それをしたら国葬をするに足るかどうかは一目瞭然なので(皮肉なことに祖父や大叔父との比較になりますね。沖縄返還を実現し、ノーベル平和賞を受賞した佐藤栄作と比較したらどうでしょうね)、在任が一番長いというまあ客観的な基準を持ち出していますが、誰がどう考えても「長ければいいのか」という話になります。
そもそも政権与党として長きにわたり君臨していた自民党において、その総裁が首相(候補)になるという不文律があるわけで、自民党総裁の選出基準が万古不変であれば「長さ」で評価することも可能です。
ところが自民党総裁選出に関する党則は過去何回か変更されているわけで、1974年以前は多選可能だったものが、以降は任期3年の再選まで、さらに1978年からは任期2年の再選までと、最大4年という党則が2003年まで四半世紀続きました。
ですから総裁として「一丁上がり」で再登板しない限り、総裁、そして首相は4年以上務めることは無いわけで、党則を遵守している以上は「長きにわたり」という評価は意味がないものでした。奇しくも多選禁止となった改正前に佐藤元首相が4選していますが、これで打ち止めと4選当初に宣言していること、そして1974年の党則改正と、多選による弊害をまず戒めていた過去の経緯を踏まえると、長さを評価基準にすることはナンセンス極まりありません。
1974年に多選禁止規定が導入されて以降、唯一の例外として中曽根元首相は再選の任期満了後特例で1年間の延長を認められましたが、任期による評価であれば党則の例外となった中曽根元首相の方が「評価」の対象でしょう。
一方で小泉元首相も3選を特例で容認する動きの中で辞退していますが、こちらは任期中にそもそもの総裁任期が2年から3年に延長されていますし、安倍元首相のケースは2017年に総裁の3選が可能になるという党則改正が行われており、いわば小泉総裁時代の党則改正との合わせ技で「長きにわたり」が実現した格好です。
(本来2期4年までだったものが最大2期6年になり、現在は3期9年までと2倍以上に延びている)
いわば「お手盛り改正」とも見られかねない党則改正によって実現した「任期」を以って、1人の例外を除き4年あるいは6年を超えての「任期」が不可能だった時代の総裁(首相)よりも高い評価というのは話になりませんし、それで戦後2例目の臣下の国葬というのは悪い冗談です。
なお、国葬でないと弔問外交が出来ない、というのも詭弁で、大平元首相の「内閣、自民党合同葬」はカーター米大統領、華国鋒中国首相が参列し弔問外交を繰り広げたわけで、あるいは佐藤元首相の「国民葬」は台湾政府関係者の参列について「国葬」だと北京政府との関係がややこしくなるという配慮もあったわけで(国民葬は国府断交からまだ年も経っていない1975年です)、国葬である必然性については弔問外交には左右されない、逆に国交や友好関係を超越した弔問外交が可能になる、という過去の実績を見ていませんね。「国葬でないから来ないでください」とでも言うのでしょうか。
国葬の「基準」について維新の黒幕がニュースショーでしきりに主張しているわけですが、確かに法的根拠を欠く状態での「国葬」は、吉田元首相クラスの業績がなければ無理でしょう。一方で基準として挙げているのが「首相経験者」となるわけで、そうなると時の政権が人気取りで乱発した国民栄誉賞の如く「国葬」の価値も何もあったもんじゃなくなります。
米国は大統領経験者は総て国葬ですが(一部例外あり)、それくらい「評価」で分けることは難しいのでしょう。まあ日本で首相経験者は総て国葬としたら、今後細川元首相や村山元首相、そして民主党政権における3代の首相(鳩山、菅、野田)も国葬ですよね。国士様はそんなの論外と切って捨てるんでしょうが、評価が難しければ排除は出来ませんよ。そして評価をするのであれば安倍元首相の国葬は無理筋もいいところです。