Straphangers’ Room2022

旧Straphangers' Eyeや習志野原の掲示板の管理人の書きなぐりです

霧の新名神

2008-07-06 01:24:06 | 交通
これはサイトのほうに書こうかとも思ったんですが、コンテンツとしてのボリュームを確保出来る自信がないのでこちらに書きます。

先月も新名神を走行したんですが、雨上がり、霧というか低雲が立ち込めて視界が極端に効かない状態でした。
鈴鹿峠などで三重と滋賀を隔てる鈴鹿山脈を越える新名神ですが、「坂は照る照る、鈴鹿は曇る、あいの土山雨が降る」と唄われたように気候が変わりやすく、かつ雨が多い土地柄は霧も多く発生します。

このため霧対策が取られており、地形上霧が流れ込みやすい下り線側の路側に緑色の高輝度「自発光デリニェータ」が設置されています。

確かにこの灯り、霧に負けず進路を示してくれる優れものです。
しかし、霧には濃淡があるわけで、晴れかけた時のまぶしさはこれも格段のものがあります。
ここで今回問題を感じたのは、あまりにもまぶしすぎるため、他が見えなくなるということです。具体的に言えば、先行車がこの緑色の列に溶け込んでしまうのです。先行車自身が緑色の灯りを遮ることで存在がわかりそうなものですが、高輝度ゆえ少々遮ってもわからないのです。

今回感じたのは、これははっきり言って浮「です。
緑色の中から先行車が急に湧いてくる感じです。それでもお互いに走っている前提であれば相対速度差も小さいから、直近で見つけても意外と間があるのですが、これが何らかの事情で低速走行や停止していたとなるとかなり厳しいとしか言いようがありません。

もちろん霧対策での効果は絶大ですが、このままだといつか事故が起こりそうです。



国破在山河

2008-07-06 01:04:00 | 時事
杜甫の春望の有名すぎる冒頭の句です。

あまりにも有名なフレーズゆえか、パロディ?も多く、先の大戦で帝国海軍が送り出した陸上爆撃機「銀河」のカタログスペックでの高性能と、繊細すぎる設計とエンジンの信頼性の低さからくる稼働率の低さにたまりかねた戦場で謳われた「国破れて銀河あり」という古典的なものから、かつて東京地裁民事三部(行政訴訟)の名物?裁判長が国側敗訴の判決を多発したことから謳われた「国敗れて三部あり」というのまであれこれ見かけます。


この「春望」ですが、一般的には戦乱(安禄山の乱)で荒廃した唐の都長安を見て、それでも山河は泰然と存在しているという達観がテーマのように思われています。
また、山河がそのままにあることと、二連目の「城春深草木」を以て、自然の偉大さを称える趣獅ナ引用されることも多いようです。

しかし、そういう解釈だと、「残っていて良かった」はずの自然に対し、三連目と四連目で「感時花潅涙、恨別鳥驚心」という感情を持つことはどうでしょうか。
七連目、八連目の「白頭掻更短、渾欲不勝簪」で判るとおり、杜甫は官吏として再仕官する意思があるわけで(官吏の象徴である冠を留める簪が差せなくなるほど髪が薄くなったことを嘆いている)、仕えるはずの唐という国家が「破れた」ことを嘆いているのであって、決して自然はそのままで良かった、というストーリーではありません。







さて洞爺湖サミットが間近ですが、その主要なテーマでもある環境問題を思うと、この春望の有名なフレーズがまさに思い起こされます。
もはや環境なくして夜も日も明けぬ感がありますが、そうした流れにおいては、政治や経済よりもまず地球、という色が濃く出ているわけです。

これはまさに「一般的に流布されている」春望の解釈といえるわけですが、一方で足元の環境を巡る動きは「地球のため」というようなお人好しなものだけではないことも事実です。
そういう視点で見るようになると、やがては日本が杜甫と同じ感情を共有しかねない懸念が拭えません。


端的にいえば温室効果ガスの問題。日本は「京都」議定書ということもあり、ホストとして会議をまとめることを優先させて成立させたわけですが、その中身はどうでしょうか。基準年度からの一律削減という「数値目標」は、すでに高い削減を達成している国も、まだじゃじゃ漏れに出している国も同じという話にならない不均衡なのです。

後発ランナーには非常に有利で、トップランナーにはきわめて不利なこの条件をどういうつもりで飲んだのか。米国は調印批准を拒んだ結果、日本だけが馬鹿を見る条件です。「環境先進国」としてもてはやされる欧州ですが、旧東欧諸国の周回遅れの環境対策が削減におけるャPットになるばかりか、排出権取引の「財源」にもなっているわけで、すでにその算出根拠の不明瞭さも指摘されています。

考えてみれば経済活動でどうあっても追いつけないのなら引きずり降ろせばいいわけです。それに気づいている米国はそんな見え見えの話に乗りませんでしたが、日本は乗っちゃったわけです。
米国も引きずりおろすべきとはいえ、こちらは「お仲間」です。そもそもBIS規制などの経済政策、また、スキーの複合や水泳の泳法などで、「ルールを変えて」引きずりおろしに来ることを常用していた相手にまたもやはめられたといえます。

あるべき姿は単純な数値目標のような論外な基準ではなく、それぞれの経済、工業、生活活動におけるあるべき排出量を設定し、それへの進捗・達成度を設定すべきだったのです。
例えば工業生産においての温室効果ガスの排出は原単位の管理の延長で求めることは容易ですし、最も効果的な生産とそれにおける排出量の算定も可能です。

その理想値、理論値に対する進捗をハードルとすれば、日本のような国であれば「ゴール間近」であり、欧州は「もっとがんばりましょう」ということで、不公平など発生しなかったのです。

普通に考えて不公平で、かつ自国「だけ」が割を食う条件をなぜ飲んだのか。
この不公平な数値目標を達成するためには、他国が達成した時点よりもはるかに高いレベルでの達成にもかかわらず、他国よりも過酷な改善を強いられるか、もしくは経済、工業、生活活動の水準を下げることで達成するしか手段はありません。

そうなった場合、確かに温室効果ガスは減少して、「美しい地球」は残ります。
しかし、その副作用としてまさに「国破れて」となるのです。
美しい山河が残ればいいじゃないか、と思う方も多いのかもしれませんが、山河が残っても国が破れてしまってはどうでしょうか。

それでも「地球市民」として均しく「国破れて」を負担するのであればまだ解ります。しかし、そうではありません。
そう考えた時、後世、この京都議定書の調印、批准というものが、「地球温暖化」に対する人類の英知の象徴ではなく、日本という国の弱体化のターニングャCントとして記録されるのかもしれません。