大河ドラマが吉原の描写で幕開けしたことが議論を呼んでいますが、「大吉原展」に難癖をつけた勢力の香りがするのは気のせいでしょうか。江戸時代の「文化」を吉原など遊里と切り離すことは不可能というか、遊里が文化の源泉になっていたわけです。主人公は版元ですが、浮世絵の一大ジャンルである美人画のモデルは何か。初期こそ「理想の美女」でしたが、この時代には遊女であり、茶屋女であり、様々な形で男性の目を惹いた実在の女性を描くことで浮世絵も「リアル」の女性も人気を博しています。
このあたりをAVじゃないですが「ぼかす」から、遊里と文化の切っても切れない縁を理解できないのです。
江戸期は「女優」が遊女でもあったという経緯から、そして若衆も男色の相手になったということで、芝居は「野郎歌舞伎」しか認められていませんでした。だから写楽の役者絵の類型と勘違いしてはいけないのです。「女優」はいなかったのですから、「女優」のブロマイド(浮世絵)など存在しませんでした。
一方で遊里と文化が分離し始めた時期でもあるわけです。吉原と言えば「太夫」であり、置屋から揚屋に向かう「花魁道中」が性風俗とは分離した格好で文化として今に伝わりますが、大河ドラマの時代では既に「太夫」は絶えてしまい、「格下」の女郎が形を整えていた時代です。
そして江戸末期から戦後の売春防止法完全施行までの約1世紀は、吉原も含めて遊里は性風俗としてのみ存在した格好です。
昭和初期の恐慌や飢饉で娘の身売りが社会問題になりましたが、単純に苦界に身を沈めるだけの時代です。「大吉原展」も明治初頭の様子を紹介して終わる格好でしたし、文化としては終焉ということでしょう。ただ「美人画」の伝統はあったようで、今の芸能人のように売れっ子芸者が有名になっていたわけですが、浮世絵という文化ではなく、写真という近代化されたツールを通じての伝播は文化とはなりませんでした。
このあたりは遊女の側だけでなく、遊客のレベル低下も原因だったんでしょうね。お座敷由来の文化を継承していた「遊び」が廃れ、性風俗としての欲求を追うだけになったわけです。
江戸末期には吉原や岡場所である品川宿などで「遊女大安売」と妓楼が宣伝するような事態になったのも、文化を生み出すような余裕もない客しか寄り付いていなかったことを示します。
そして明治初頭に芸娼妓解放令で「自由」になったはずが、「自由意志での就業」と再定義されてしまったのも致命的でした。当然それは文化の場としてではなく性のはけ口を求めていた遊客の意向も大きかったわけで、不幸なマッチングで今に続く風俗街としての流れが確立しています。
このあたりをAVじゃないですが「ぼかす」から、遊里と文化の切っても切れない縁を理解できないのです。
江戸期は「女優」が遊女でもあったという経緯から、そして若衆も男色の相手になったということで、芝居は「野郎歌舞伎」しか認められていませんでした。だから写楽の役者絵の類型と勘違いしてはいけないのです。「女優」はいなかったのですから、「女優」のブロマイド(浮世絵)など存在しませんでした。
一方で遊里と文化が分離し始めた時期でもあるわけです。吉原と言えば「太夫」であり、置屋から揚屋に向かう「花魁道中」が性風俗とは分離した格好で文化として今に伝わりますが、大河ドラマの時代では既に「太夫」は絶えてしまい、「格下」の女郎が形を整えていた時代です。
そして江戸末期から戦後の売春防止法完全施行までの約1世紀は、吉原も含めて遊里は性風俗としてのみ存在した格好です。
昭和初期の恐慌や飢饉で娘の身売りが社会問題になりましたが、単純に苦界に身を沈めるだけの時代です。「大吉原展」も明治初頭の様子を紹介して終わる格好でしたし、文化としては終焉ということでしょう。ただ「美人画」の伝統はあったようで、今の芸能人のように売れっ子芸者が有名になっていたわけですが、浮世絵という文化ではなく、写真という近代化されたツールを通じての伝播は文化とはなりませんでした。
このあたりは遊女の側だけでなく、遊客のレベル低下も原因だったんでしょうね。お座敷由来の文化を継承していた「遊び」が廃れ、性風俗としての欲求を追うだけになったわけです。
江戸末期には吉原や岡場所である品川宿などで「遊女大安売」と妓楼が宣伝するような事態になったのも、文化を生み出すような余裕もない客しか寄り付いていなかったことを示します。
そして明治初頭に芸娼妓解放令で「自由」になったはずが、「自由意志での就業」と再定義されてしまったのも致命的でした。当然それは文化の場としてではなく性のはけ口を求めていた遊客の意向も大きかったわけで、不幸なマッチングで今に続く風俗街としての流れが確立しています。