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Straphangers’ Room2022

旧Straphangers' Eyeや習志野原の掲示板の管理人の書きなぐりです

現皇室は傍系継承の流れなのだが

2025-04-04 21:08:22 | 歴史
直系主義で馬の骨王朝を実現させようとするからこんな歴史を知らない与太話が出てきます。
旧皇族を養子に迎えて「神武朝」を守るという妥協案に対する批判ですが、よほど「神武朝」が継続すると困るんでしょうね。「皇配」となる旧皇族が憲政史上初の天皇でない天皇の父、といいますが、今の皇位継承法ではそういう事態を想定していますよね。良くない想定ですが、陛下と秋篠宮殿下は同世代ですから、悠仁親王殿下が即位(践祚)する時期とその原因を考えると、直接継承もあり得ます。となると秋篠宮殿下は「天皇でない天皇の父」になりますけどね。

「憲政史上」とか言い出したのは、わずか80年にも満たない日本国憲法の歴史の中での話に限定しないと通用しないからであり、そもそも最後の傍系継承となったのは現在の皇位の直系の祖先となる光格天皇ですが、その父君は閑院宮典仁親王ですからね。天皇ではありません。即位後光格天皇は父宮に天皇号を贈ろうとしましたが松平定信らの反対で実現せず(尊号一件)、明治になって慶光天皇と追号されています。つまり、天皇の父は必ず天皇、ではないんですよ。どうしてもということであれば追号の制度を復活すればいい話。歴史上では天皇の父が天皇でなかった例は平安時代以降で3例ありますし、光格天皇のほか、後花園天皇も傍系継承ですが、父君(伏見宮貞成親王)は後崇光院の院号を没後になって受けています。

ちなみに光格天皇が即位し、尊号一件が起きたのは「わずか」233年前の話ですよ。おりしも今年の大河ドラマの舞台となった時代です。我が国の歴史を考えたらそんな昔の話ではありません。そして明治に追号というと時間が開いているように見えますが、90年忌としての追号ですから、これもそう離れていません。上皇陛下が退位の意向を示されたときも、退位と上皇は光格天皇以来約200年ぶり、という歴史がクローズアップされましたが、それは十分先例として通用する方向で扱われていましたから。

そうそう、傍系継承を否定したら、現在の皇統の流れも否定しますけどね。
光格天皇の直系なんですから。


民営化で国を歪めて国民の資産を私した改革屋

2025-03-11 20:57:46 | 歴史
国会の答弁で国鉄が分割民営化された時の自民党の意見広告を提示し、これらの約束が反故になっているという質問に対し、それが分割民営化の影響なのかを確認する、と首相が答えたことが話題になっています。

事業者無謬の連中にとっては絶対に否定したいあの広告で、時代の変化だとか言って誤魔化すことに余念がないのですが、まさかの国会答弁となっています。まあ確認したが分割民営化とは関係がない、というゼロ回答が予想されますが、一方で寝台特急のヘビーユーザーだった首相は、寝台特急がなくても便利、という証明を自身のケースを持って語らないといけませんね。需要はある、でも消えた、という結論であれば、時代の流れとか言って誤魔化すことはできませんから。

まあそれはそうとして、中曽根内閣時代の民営化は結局40年前後の歳月が流れた現在からみて成功と言えたかどうか。
それでも三公社の民営化はまだマシとしか言いようがないのが小泉内閣時代の「郵政民営化」で、誕生した民営会社がガバナンスやコンプライアンス上等のブラック企業ですから話になりません。

八百屋に魚を売らせるとか無理な畑違いの喩えがありますが、だれも郵便局の業務として望んでもいないギフトセットとかの営業活動に従業員は疲弊し、さらに身内の自爆営業で家族親族まで巻き込んで疲弊しています。
また簡保の営業不正は「官業」だったことによる信頼を悪用した格好で顧客の資産を食い物にして破滅に追い込んだわけで、これもノルマ至上というか、誰も郵便局に望んでもいない体制を選択してきたわけです。それが民営化の必然であれば、郵政民営化はまやかしの極致であり、国民を疲弊させ、経済的損失を押し付ける犯罪的な政策です。

そうして積み上げた利益、そして官業として積み上げた資産は、利権構造が改革屋の「お友達」に付け変わる格好で流出していきました。明治期の「官有物払い下げ事件」のような事象が露骨に発生していましたから。
官から民へ、と還元で国民をたぶらかす改革屋とその一派の政商が跋扈していますが、経営が厳しくなったら人一倍に国のサポートを要求するという二枚舌も特徴です。民間企業の経済活動なんだから完全自己責任、という潔さは微塵もないのがこういう民営化に群がる改革屋一派ですから。



千葉方面の街道は水運と行徳を抜きにして語れない

2025-01-31 22:24:22 | 歴史
千葉街道が小松川から小岩、市川を大回りしているのはなぜ、という記事が出ていました。
水戸街道分岐の官道があり、その短絡路として元佐倉道があり、という位置関係や、官道通行義務がある大名行列で短絡路経由にした大名があったとか、まあ及第点ですが、市川以南で江戸川渡河点がないのは幕府の政策、というのは若干違います。

逆井の渡しで中川を越えて小松川に至ると、まっすぐ今の京葉道路沿いに進むと江戸川区内はそれこそかつては金魚の養殖が盛んだったように池沼や低湿地の地でした。そして江戸川の渡河点である小岩に向かうのは必然でした。さすがに水戸街道に合流する千住まで大回りは厳しいわけで、江戸から40㎞という日着出来るか出来ないかという各藩にとっては1泊分のコストセーブとなるR14コースは悲願であり、あの手この手の陳情で許可を得ています。

大名行列は官道が原則でこうした苦労となりますが、民間は普通に合理的なルートをとります。
小松川付近から千葉街道が右上にまっすぐ向かうのに対し、右下にまっすぐ向かう今井街道があります。これが(旧)江戸川とぶつかるところにあったのが今井の渡しで、そこを渡って千葉県側は行徳街道となって海神で千葉街道(佐倉街道)に合流します。行徳は地回り塩の一大産地で江戸との間の物流も多く、小名木川と新川の開削で本行徳の行徳河岸との間に定期航路が開設されました。江戸時代の成田詣では日本橋から行徳河岸まで行徳舟で、船橋、佐倉を経て成田に向かいましたが、これが当時の「楽」「近」ルートでした。河船であっても徒歩よりは速いですし。

大名行列は船というわけにもいかず、元佐倉道で短絡するのがせいぜいで、民間は快適で近道の行徳舟でした。
なお行徳舟は明治初期に蒸気船となって江戸川、利根川航路の一環となり最後の輝きを見せましたが、鉄道の発達で大正年間に姿を消しました。行徳との小蒸気は大戦末期まで運航していたようですが、この「大量輸送機関」の存在なしには語れません。

このように行徳が製塩業に支えられた一大経済拠点ということが見えていないと、千葉方面の街道筋の実態は見えてきません。中山から木下街道に沿って法典、鎌ヶ谷へ伸びていた東葛人車軌道も一時期行徳まで来ていたくらいです。

また平安朝以来の官道としては利根川東遷事業以前の利根川本流、荒川本流に挟まれた水路が入り乱れた地域を避けて国府台付近を通ったわけで、江戸期の両国橋架橋以降は、官道に合流する市川と、重要拠点の行徳への2wayが整備されたわけです。江戸期以降は水運が主力で、陸路としては今井街道となり、大正期に城東電軌が開通し(荒川放水路区間は小松川橋が道路専用で整備されたので徒歩連絡)、市電→都電→トロリーバス→都バスと一貫して基幹路線の一つでした。

小蒸気が戦中まで残ったのは浦安橋架橋が対米開戦直前であり(その先の旧葛西橋は荒川放水路開削時点からあった)、今井経由以外の陸路がありませんでした。厳密には大正期に今井橋がかかるまでは陸路はなかったのです。しかし行徳には鉄道忌避伝説もありましたが、比較的豊かな町でした。
それが行徳塩田が1917年の「大正6年の大津波」として有名な高潮で壊滅的被害を出したところで斜陽が始まり(浦安町は全町域が水没したといわれる)、大正期の江戸川放水路開削で行徳橋の旧橋はかかりましたが(可動堰上の(旧)行徳橋は戦後の開通)、行徳と浦安は文字通り四周を川と海に囲まれた「陸の孤島」となり、しかも行徳は町域が両岸に分断されています。戦後は1947年のカスリン台風の被害こそ受けませんでしたが、1952年のキティ台風の高潮被害で細々と残っていた最後の塩田も廃止に追い込まれたことで、交通不便な水田と蓮田の地になってしまいました。その後は湾岸開発の絡みで市川市(当時海に面していない)、船橋市の綱引きがあり、1955年に市川市に合併。このあたりが大底と言える時期で、1969年の東西線開通以降の歴史はご存じのとおりです。

行徳へのアクセスは、江戸期の延長線上が戦中期まで続き、戦後の雌伏の時を経て東西線開通という革命でベッドタウンとしての発展という歴史になります。千葉街道(佐倉街道)から続くR14の盛衰も、行徳という「重要経由地」の存在とは無縁ではありません。



往年の「朝日ジャーナル」も斯くやの推しっぷり

2025-01-29 20:25:24 | 歴史
NHKの「映像の世紀 バタフライエフェクト」の歴史修正がひどいですね。
「大東亜共栄圏」時代の東南アジアにおける日本と手を組んでの独立運動とその実現を貶めたり、事実上そのスキームで手にした独立を国家の起源としているのを無視するとかやりたい放題の放送を以前批判しましたが、今度は終結50周年のベトナム戦争を「美化」しています。

チリのアジェンデ政権崩壊を操ったCIAを特集したように、米国=悪、社会主義国家=善という昭和レトロの発想で歴史修正をしています。もともとハノイに特派員を置いてあからさまな北ベトナム寄りの情報を発信してきた通信社(今もあるんですよね)の「秘蔵フィルム」が軸になっている時点でお察しですが、ホーチーミンが傑出したカリスマとしてベトナム戦争を勝利に導く道筋をつけた、というスタンスです。


さすがに南ベトナム解放戦線は虚像とバレているので触れていませんでしたが、南ベトナムを支援する米国がベトナム各地を焦土にして犠牲者や奇形児を生んだとする一方で、北ベトナムはソ連と中国の支援を受けていたからこそ戦えたという事実が歪められていました。ベトナム人民が蟻のように働いて巨像の米国を倒した、というプロパガンダを終結後半世紀も経ってまだ持ち出すとは驚きです。

そもそも共産主義国家がバリバリの共産主義で東西対立の一翼を担っていた当時、共産政権が許容したり提供した映像が「真実」であるわけがなく、プロパガンダの一環だから提供され、許容され、世界に発信されたのです。
一方で米国は従軍記者が自由に取材し、「真実」を報道したことで、戦争の無残さという現実が米軍の攻撃という「事実」とともに報じられたため、反戦の機運が高まり、米国が南ベトナムを見捨てる原因となりました。米軍内では北ベトナムは情報統制をしてプロパガンダやり放題なのに、南ベトナムは悲惨さ負だけがクローズアップと報道批判が起きていましたが、民主主義、自由主義のために戦うという金看板はそれを許しませんでした。

この成功体験がサイゴン陥落から5年程度で欧州全土で沸き起こった「反核運動」につながりますが、さすがに舞台が欧州ということで、それがソ連の支援を受けたプロパガンダだったということが露見しています。短距離弾に近いパーシングと大陸間弾道弾に近いSS20を同列に扱った運動は、日本にとっても危険な時期を生み出しましたよね。「不沈空母」発言をした中曽根内閣に対し、モスクワ放送が核恫喝をしたという有名な出来事もその時です。

まあハノイの事務所など、日本人を擁して日本語放送を続けたモスクワ放送とどこが違うんだ、というレベルです。番組でも南ベトナムを「カイライ」と呼ぶシーンがありましたよね。そこまでの入れ込みですが、自分で取材し、裏を取ったのか。80年代と言えばNHKはじめあらゆるメディアが「北朝鮮・朝鮮民主主義人民共和国」と忖度しまくった放送をしていた時代ですが、60年代から70年代の帰国事業に騙されて北朝鮮に帰国して塗炭の苦しみに喘いでいた親族を訪問した在日朝鮮人が決死の覚悟で出版した「凍土の共和国」がその虚像に風穴を開けて、「真実」がようやく語られるようになった時期でもありますが、プロパガンダもまた最後の輝きを見せていた時期です。

当時、「解放戦線」がゲリラ戦を展開して米軍を撃破する、というドグマを否定したらそれこそ「米帝」の手先と言われるような時代でしたが、ラオス国境の山岳地帯に整備されたホーチミンルートを使ってソ連の軍事顧問団に教育された北ベトナム正規軍が戦線に急行していたというのは歴史が認めた事実です。サイゴン陥落の時、サイゴンに入城したのは誰か。サイゴン陥落当時、日本人記者はこの通信社だけでなく、毎日の古森氏、サンケイの故近藤氏が総撤退(陥落当日未明まで米大使館屋上から米軍ヘリのピストン輸送でサイゴン沖の空母に退避)を拒んで取材をしており、両氏とも著書で活写していますが、北ベトナム正規軍です。申し訳程度の解放戦線もいたようですが、サイゴンが陥落して南ベトナムが無条件降伏して瓦解、消滅したら最早お役御免と、それ以降表舞台にほとんど出てきていません。]

ベトナム民族挙げての悲願が北による統一であれば、なんで統一後ほどなく「ボートピープル」として決死の航海に漕ぎ出す人が後を絶たなかったのか。多くのベトナム人が南シナ海の藻屑と化しています。そしてクメールルージュの大量虐殺がきっかけとはいえカンボジア侵攻と、平和?何それ美味しいの?と言わんばかりの行動を繰り広げましたよね。これはポルポトの後ろ盾だった中国の逆鱗に触れて、「懲罰」として侵攻されるという近現代とは思えない理由の戦争も起きていますが。



ついに「神武朝」の否定まで始まった

2025-01-23 20:44:15 | 歴史
「馬の骨」派による「革命」が最終段階にあるという警鐘を鳴らしていますが、それのモデルともいえる1974年のエチオピア革命が「月賦革命」と呼ばれましたが、いまなら動画の流行り?を踏まえた「ゆっくり革命」でしょうか。

毎度のメディアが最近繰り出しているのが、「神武朝」の権威というか正統性の否定で、「神武東征」のあら捜しや、その過程での地域勢力の殲滅(虐殺)といった現代の感性だと嫌悪感を抱くようなことを論っています。
あるいは記紀には「天壌無窮の神勅」、すなわち男系(男子)継承など書いておらず、一書に曰くの類だとして、歴史としての根拠を否定しようとしています。

「神武朝」の権威と正当性の否定は、エチオピア革命の最末期で「シヴァの子孫」として神聖だったエチオピア皇帝の権威と正当性をはぎ取ったステップと相似形を描いていますが、まさかここまで露骨にやってくるとは驚きであり、「馬の骨」派は本気だというしかないですね。現在エチオピア革命についての資料を検索してもなんちゃって立憲君主制と社会主義革命といった通り一遍の説明しかないのを見ると、知られたくないドグマなのかもしれませんね。