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Straphangers’ Room2022

旧Straphangers' Eyeや習志野原の掲示板の管理人の書きなぐりです

薄っぺらい権威主義

2025-05-13 21:22:08 | 歴史
万博で「黄櫨染御袍」を模した装束をモデルに着せた「ショー」を着物着付け教室が実施して炎上しています。
本題に入る前に、この教室に限らず同じ名称に地名や団体名を付した教室が少なくとも3つあるわけで、しかも専門学校というよりも「着付け教室」なんですよね。まずそこの「闇」もあるわけです。

それはさておき、基本的に天皇陛下のみ着用が許される装束をモデルに着せるとはケシカラン、と噴き上がっているわけです。まあどう見てもニワカ愛国者が炎上祭りだと焚きつけているわけですが、そこになんちゃって有識故実の専門家が「禁色」が云々と混ぜ返しています。

万博という檜舞台で服装をテーマにした催しをする際に、その最高峰となる天皇陛下の装束を取り上げることを否定というのも実はおかしな話で、一般的な装束との違い、歴史的な変遷とか、我が国文化の「頂点」でもあるテーマを世界に発信することは別におかしくもありません。宮内庁に許可を求めたのか、とか言っていますが、権威の維持に汲々として文化に無頓着な宮内庁がOKを出すわけもなく、一方でそれを取り上げることはまかりならんということもないでしょう。

天皇陛下の身の回りに関して一切の展示がまかりならんというのか。例えば大宮の鉄道博物館では御料車の特集をしていますし、そこでは各地の皇室ゆかりの駅にあった貴賓室の設えも展示されていました。まあ宮内庁もそれくらいなら協力したわけですが、当初の御料車の御座所レプリカもあったわけです。平城宮跡の大極殿(再現)には高御座もありますしね。

逆に秘中の秘として神聖化することで、伝承すべき技術やデザインが失念されてしまうリスクもあるわけで、我が国文化の頂点と認識するのであれば、今回のような極めて高い再現性をもってするのであれば歓迎すべきイベントでしょう。
その意味で主催者側が「なんちゃって」です、とその文化的意義を否定してしまったことは極めて残念であり、炎上祭りでエクスタシーを感じるネット界隈に対する「お約束」であろうことは見え見えとはいえ、文化の否定にもつながりかねないということで二重の失策です。

まあ女性モデルが着用というのは言い訳が効かない失策で、これは平身低頭謝罪すべき事案ですが、それ以外はマナー講師の変形に過ぎない自称有識故実の専門家も含めて、「貴重なご意見」レベルの域を出ない話です。

だって天皇陛下した来てはいけない装束なんだから、とまた頭の悪い主張が山のように出てくるでしょうが、公の場での装束の意味としての「天皇陛下だけが・・・」との混同に気が付かないのか。宮中の公式行事で我が国の最高権威が最高の序列を示すという記号として「黄櫨染御袍」があるわけで、他の皇族、臣下が着用したら権威も何もなくなりますから、「天皇陛下だけが・・・」となっているわけです。


実用として臣下が市中で着れるかというと、これもNGですが、それも公式の装束は着る場所が決まっているからです。
という文化を示すというイベントですよね。宮中でも公式行事でもないから出せません、ではドッチラケです。説明にもなっていません。即位式でしか使われない高御座が年中展示されているのはなぜか。その文化を披露する目的でしょう。衣装もまた同じです。この衣装(意匠)、色は基本的に天皇陛下だけに許されているものです、という説明で、見学者は立体的な視覚で納得するのです。

視覚的な伝承の機会が乏しいと何が起こるか。交通の世界だと御料車の編成がどのような組成で色はどうかという資料が満足にありません。自動車もそう。御料車は「溜色」といわれていますが、それがどのような色かという資料は十分か。昭和天皇が溜色の自動車で、という文献などはありますが、視覚で入ってきません。
不敬だ、ケシカランとニワカ愛国者が噴き上がっていますが、じゃああなた方は「黄櫨染御袍」ってどういうものか知ってる?という話ですよ。どこかの神社で神職が多分寸分違わない「黄櫨染御袍」で現れたとしてもその神社の正装だと思って気が付かないでしょう。その程度のレベルからの批判です。

今回のイベントで批判されるべき点があるとすれば、「黄櫨染御袍」の再現、着付けに誤りがあった場合です。
もちろん女性が着用することは無かったわけで、過去の女性天皇は十二単を基準とした専用の装束で即位礼に臨まれていますから「黄櫨染御袍」を着用させたのは完全な誤りです。

一方女性天皇が即位で着用した装束は江戸初期の明正天皇のときの有識故実ですら失われていたため江戸時代後期の後桜町天皇即位の際には「創作」されていますし、「黄櫨染御袍」ですら時代により少しずつ変わってきていますから、伝統という意味ではどこを基準として再現したのかも大切な情報になります。そしてこのように「伝統」といわれるものも実は絶えず変化している、あるいは断絶して再建しているわけで、特定の時期の姿を絶対視するというのは伝統でもなんでもないともいうことにも注意が必要です。そう、旧漢字旧仮名を伝統だと思い込んでいる人が少なくないですが、江戸時代の契沖や本居宣長の研究をベースに明治期の教育現場で採用したものですからね。伝統と言いながら上古の万葉仮名を使わないわけで、一種のご都合主義です。

なお全くの余談ですが、旧漢字旧仮名を正と信じて疑わない人が少なくないですが、新漢字とされるものには少なからず中世以前から「略字」として存在していたものもありますし(佛と仏)、旧仮名だと思っていたものが実は文法的におかしいものもあります。(「どぜう」は実は「どじやう」が正しく、江戸期の料理屋がわざと書いただけ。電略「モセ」で有名な下十条電車区も「しもじうぜう」からといわれるが、本来は「しもじう(ふ)でう」と書くのが正しい)



所詮はベンダー

2025-05-12 21:16:28 | 歴史
「トランプ関税」が波及した「安全保障」関係の輸入ですが、航空機がその対象となるようで、B787に機体のメイン構造物など多くを納入している日本企業にも影響が出る見通しです。

今年は戦後80年ですが、敗戦から7年間の航空禁止令により致命的な技術の立ち遅れが発生した日本は、独自開発能力の多くを失いました。厳密にはそれでも世界の最先端を行く技術も維持していますが、戦後急速に発展したジェット機とそれに対応した技術についていけなくなったことは致命的でした。

三菱MRJの失敗はその典型で、独自開発となると今でも困難という現実は、自動車産業や造船と比較して日本の航空機製造がいかに貧弱化を知らしめた格好です。おそらく日本オリジナルの航空機というと、海自の飛行艇しかないといっていいでしょう。しかしそれも1942年制式の二式大艇の延長線上にあるわけで、メーカーも二式大艇を開発した川西の後身である新明和という連続性があるわけで、戦後のジェット化における存在感はゼロに等しいです。

そうした日本の航空機製造の「問題」を指摘すると、B787には日本の技術ガー、と反論が来るのがお約束でしたが、同盟国でメインサプライヤーであっても安全保障を名目にしたら一線を画する、という現実は、完成機まで飛ばしてナンボという厳しい現実を改めて見せつけています。

その意味では中小型機マーケットに君臨するエンブラエルを擁するブラジルにも後れを取った格好です。さらに対中国の諸問題から欧米の型式証明が取得できないと言われながらも商品化された中国のC909やC919(ただしエンジンは欧米合弁)もあるわけで、下請け路線を選択した日本の戦略はどうなのか。今回の事態は改めてその是非を問う格好です。ちなみに中国の旅客機は欧米の型式証明は未取得ですが東南アジア各国での導入が進んでおり、欧米のスタンダードによる参入妨害は思うように進んでいません。

とはいえ米国は半導体やIT関連でも、設計やノウハウ、特許を握ることでスタンダードとなり、要は下請けであるファウンドリーは他国に任せるという戦略を過去30年以上米国は取り続け、それで覇権を握っています。どんなに部品の占有率が高かろうと、それは米国のブランドであり製品ですから。航空機の型式証明もまさにその一環でしょう。

ジェット化というエポックメイキングの時期に乗り遅れたことで、80年経っても追いつけない状態です。これ、単葉引込脚が実用化された時期に乗り遅れたと考えたら、第二次大戦なんか到底無理だったわけで、後れを取ってはいけない時期の遅滞は7年であってもおそらく永遠に尾を引く格好です。それでもキャッチアップの姿勢を見せればよかったんですが、YS11の商業化の失敗もあり、コマーシャルべ-スで確立できるかを大前提に置いてしまったことで、さらにキャッチアップから遠のきました。まず先端の国産機を作る、という強い意思がなかった悲劇です。

米ワシントンDC(とヴァージニア州)にある航空宇宙博物館には、歴史に名を残した航空機の現物やレプリカ、部品が展示されています。そこには日本の航空機も展示されていますが、総て敗戦までのものです。世界一の性能で米英を圧倒したゼロ戦をものにしたはずの日本の航空技術は、80年前に終わったという評価です。1945年8月に初飛行したジェット機「橘花」は機体とエンジンがそれぞれ展示されていますが、それが最後です。同時期に「潜水空母」伊-400級の搭載機として開発された「晴嵐」も機体とエンジンが展示されていますが、いずれにしても1945年の敗戦以降、「日本の航空機」というものは姿を消した格好です。

もちろん「平和国家」として軍用機を積極的に開発してこなかったという事情はありますが、民生用の航空機ができない理由にはなりません。まあ飛行艇くらいは戦後日本の航空機開発として日の目を浴びてほしいですけどね。



見えてきた皇位簒奪の勢力

2025-05-11 13:42:31 | 歴史
皇位簒奪の危機がますます高まっていますが、その骨子として愛子内親王殿下=優秀、悠仁親王殿下=いまいち、という印象操作があります。「優秀」なほうに継がせたい、というまさに世俗の意見がありますが、じゃあ「優秀」が皇位の条件なのか。結局中華圏での王朝交代、易姓革命の発想そのものですが、それでいてこの件に関しては「中国ガー」と一から十まで食って掛かる国士様の面々がだんまりというのもわかりやすいです。万世一系、天壌無窮という定義であれば手が出ませんが、「優秀」であればワンチャンあるわけで、「王朝交代」の経験がない我が国だと「天皇」という肩書があれば連続しているという誤認も多く出てくるでしょうから、そりゃ必死になるのでしょうね。

旧皇族の「適齢者」との女性皇族の婚姻による男系継承という歴史的に見てもそれを想定したシステムを維持してきたことを活用するという方向性に必死に抵抗するのもそうでしょうね。「天皇」を詐称して権威と実利を手に入れたいのですから。その意味では女性皇族には「ワンチャン」あるわけですが、それを視野に入れているのか、女性皇族を貶めようとする動きが「馬の骨」派のメディア、特に女性週刊誌が必死になっています。

おそらく「馬の骨」派は小泉政権の時のように女系継承を政治主導で出来ると読んでいたのでしょう。
ところが意外と反対が多い、政府も押し切るだけの覚悟がない、というわけで、自分たちの野望の妨げになる存在を次々誹謗しているわけです。しかしいかなる手段をとっても、それは「優秀」というような継承基準の変更になってしまうわけです。男系(男子)の放棄以外の何物でもないですから。

邪な皇位継承が行われたら、その先にあるのは「南北朝」です。いや、「南北朝」は両方とも正当性があり、三種の神器を手中に収めているかという違いでしたが、現代の「南北朝」は正当性の有無という明確な差異があります。要は真贋論争です。「偽天皇」を我が国は仰ぐのか。特権階級、地位を容認しない憲法との整合性はどうなるのか。憲法の例外が成立し得るのはそれが憲法制定前から続く「神武朝」だからです。

そうそう、暗殺された元首相が愛子内親王殿下と旧皇族との婚姻を推進していたそうですが、秋篠宮殿下と悠仁親王殿下がいるのになぜ、というと、秋篠宮殿下が「手がかかる」からだという見立てを示した記事を見ました。
まあ結局は例の改革屋の元首相と同じ穴のムジナということでしょう。皇室の伝統行事を侮辱して皇室典範を改定して女系相続の実現にあと一歩まで迫りながら秋篠宮両殿下が悠仁親王殿下を儲けられて頓挫したわけです。

暗殺された方の元首相はまだ旧皇族との婚姻で「神武朝」を維持する意図があるだけマシとはいえ、正当な継承者がいながらウルトラCを繰り出してでも天皇家の直系に継がせたいという意味では、天皇家の直系継承への変更を図った改革屋の元首相と一緒です。よほどこの血筋(神武朝ではない部分)が重要なんでしょうね。「馬の骨」派にとっては。我が国の歴史においてはギリギリ男系が維持されていたとはいえ簒奪の可能性が高かった「天武朝」を、まず天智朝の光仁天皇を即位させて、次いで配偶者からも天武朝の血を消した桓武天皇にスイッチと、念には念を入れて消し去っていますが、逆もまた真なりで、そういうステップを踏んで簒奪していくという発想は常にあるのでしょう。

そしてそれは政治家のみならず宮内庁関係者にも明らかにあるわけで、文字通りの君側の奸です。万博に2日間も愛子内親王殿下がお出ましになる、というのを人気沸騰としてポジティブに報じていましたが、「公務」でもない私的訪問に過ぎないわけで(万博協会であれば秋篠宮殿下が名誉会長)、2日間もとなると「いかがなものか」という声があってもおかしくありません。これが秋篠宮殿下や悠仁親王殿下だったら、「馬の骨」派の工作員が口を極めて批判してたでしょうね。やれ交通費に警備費と無駄遣いとか騒いで。






タブーが次々はがれていく

2025-04-13 15:04:12 | 歴史
NHKの大河ドラマや朝の連ドラは万人受けするもの、という印象がありますが、近年は攻めた内容というか、分かる人にはトコトン面白い、という方向性が見えます。まあ前作の連ドラのように攻めすぎて滑ってしまったケースもありますが。
こうなると忖度メディアも付いていけなくなっているのが笑うしかないのですが、いつも同じようなシチュエーションを焼き直す繰り返しからのブレイクスルーがあるのは進化の証明でしょう。

そうした「攻めの姿勢」の中でも突き抜けているのが今年の大河ドラマですね。2年連続で「文化史」を基軸に据えた異色作ですが、連ドラがこれまで「財界」までは取り上げてもどちらかというと一般人の「女の一代記」だったものが、司法という「三権の一角」を描いたのと真逆といえます。

そして初回からAV女優の「裸体」でいきなり「つかみ」を取りましたが、これまでのTVドラマ、いや、TVであれば必ず回避していた「社会」を描いているわけです。「吉原」であればなんだかんだと言って題材になっていますが、女郎が流れ着く先の「河岸」や病気等のバックヤードである「寮」がでてくるわけです。初回の「裸体」にしてもそこにいわゆる「隠亡」が向こうに見えていたわけですし、役者に対する差別とその吉原に対する差別と、かなり振り切っています。

そうそう、花形女郎の身請先も「障害者団体」の幹部ですからね。史実とはいえそれが高利貸しで社会問題を引き起こしていたとか、前世紀までならこんな描写をしようものなら人権関係で大騒ぎになるでしょうし、逆に今回は人権関係の注釈もなく描写することで状況を理解できるのかという疑問すら感じます。

吉原の光と影をこれでもかと描写しているのを見ると、昨春藝大で開かれた「大吉原展」を巡る批判は何だったんだという感じがあります。吉原を肯定的に取り上げている、という当時の批判を踏まえたら、「吉原者」の一角で、ある意味女郎を「商品化」して名を上げたのが主人公ですが、昨年声を上げた面々がNHKに抗議しているという話を聞きません。これらの描写が免罪符になっているとでも言うのでしょうか。

まだ3ヶ月ちょっとと1/4が終わった段階ですが、おそらく保険として用意した柳営の話題が逆に浮いていますね。
主人公の強敵となる権力者ではありますが、権力者サイドのストーリーがないほうがすっきりしますし深みも出るでしょう。多様性が問われる現代の作品ですから陰間への言及や描写があってもいいわけですし。あるいは敵役に辰巳芸者とか、これも粋を体現したような存在を配してもよかったのでは

このあたりは時折シリアスな顔を見せますが基本は脳天気なお調子者を演じる主人公の姿が中和しているんでしょうね。
江戸っ子の地口とか芸が細かいですが、あとはお約束の階段落としですかね。よく怪我もせず、と思いますが、「プラハの窓落とし」のような陰惨さがないのは救いです。

ちょっと気になるのはさんざん出てくる仲之町通りで、両側の見世も2階建てで背が低いから広く見えるとはいえ、それにしてもちょっと広すぎないか。18世紀後半の設定ですが、その時代であれば当時の地割がそのまま明治になり、今のソープ街につながるわけで、今の仲之町を見る限り、片側1車線と歩道付きの道路ですから、ちょっと広さに差がありすぎるようにも見えます。

なおこういう異色の舞台となると出てくるのが画に描いたような半可通で、「悪所」は岡場所であって吉原ではない、と訳知り顔で言い出す手合いまで出てきます。「悪所」は遊里と芝居町ですけどね。「悪所通い」という言葉もありますし。岡場所専門が「悪所通い」では世間体が悪すぎますわな。ちょっとワルっぽいイメージの「悪所通い」だからこそ言われても角が立たないわけで、岡場所専門と言われたら怒りますよ。



「戦艦」と作戦の評価

2025-04-13 14:45:03 | 歴史
敗戦から80年の節目の年、今月はちょうど「祥月命日」ということもあって戦艦大和の話題がネットをにぎわせています。
時代遅れの大艦巨砲主義というレッテルを貼るのがお約束ですが、戦艦が「時代遅れ」だったかというと疑義があります。
第二次大戦開戦時の各国の主力戦艦は、ワシントン条約、ロンドン条約、第二次ロンドン条約の発効と失効により1938年以降が事実上の「条約明け」になったこともあり、第一次大戦当時の主力艦がそのまま横滑りしており(日本だと長門級)、これらのスペックから見たら「時代遅れ」ですが、条約にとらわれない「新型」は第二次大戦に滑り込むような恰好で竣工しているので、その「新しい時代」への対応が知られていない面があります。

大和も「新型」の一角ですが、軍ヲタが結局どう理屈をつけても27ノットという最高速度は「新型」の最下位グループです。特に米国のアイオワ級と6ノットの差というのはアイオワ級が化け物とはいえ話にならないわけです。

それでも30ノットに至らない米国のワシントン級やノースカロライナ級が機動部隊に随伴出来たことを踏まえると、大和級も機動部隊に編入出来たわけで、出し惜しみという面が強いです。戦艦の任務が大きく変わったと言われますが、それを実現したのはまず帝国海軍なだけに、「新型」がそれに即した使用をしなかったというのは戦略ミスでしょう。

あるいは「抑止効果」の軽視も結果としてあったわけで、46㎝(18インチ)の主砲が絶対の極秘事項として敗戦までその存在を認めていませんでしたが、各国の推測の中には中型戦艦を揃えるのがやっとという観測もあったわけで、戦艦という量産が効かない艦種でマウントを取るほうが効果があったはずです。

存在が「見える」ことによって「脅威」になるのはドイツ海軍のビスマルク級があるわけで、通商破壊戦に参戦することを恐れた英海軍がたかだか1隻の戦艦に総力を挙げて挑みましたし、2番艦のティルピッツも北欧のフィヨルドに追い込まれましたが、英海軍は対応に大きく手を取られました。18インチ砲を装備した世界最大の戦艦が2隻就航、と逆に大宣伝したらどうだったか。航空機の威力がまだ見えていなかった段階で。物量の米国であってもモンタナ級を設計変更して資機材をつぎ込むしかないわけで、それだけでも大きな抑止力となります。

各国が戦艦隊に空母を随伴させる編成だった時代に空母機動部隊に戦艦が随伴というスタイルとしたのは帝国海軍がその嚆矢です。米海軍も空母1~2隻の集団で運用していたところに帝国海軍は4~6隻の集中運用を行い、速力が条件を充足した最古参の金剛級が機動部隊に所属しました。
米国はそれをスケールアップした格好で機動部隊を編成するようになりましたが、空母と同格の速度を出せるアイオワ級が重宝されています。帝国海軍は戦艦による地上攻撃でも先例となりましたが、それは戦後のスタンダードとなり、アイオワ級は1990年頃まで現役であり、決して「時代遅れ」ではなかったのです。明らかに「時代遅れ」になった最末期においておや、打撃能力は有効でしたから。特に「ただの砲弾」を撃ち込むコスパの良さは随一です。

大和が沈んだ天一号作戦を無謀とか意味がないとかいう評価が支配的ですが、敗色が濃いがゆえに「世界一の戦艦」を温存して敗戦に至れば海軍の評価は地に落ちる、というメンツでの作戦でしょうね。あるいは何もしないで置いておくだけでもコストがかかる、資源を消費する、という現実を踏まえた一種の厄介払い。万が一にも沖縄に辿り着ければ丸儲け、というくらいの見通しだったはずです。

確かに航空支援はありませんでしたが、支援が可能なのは戦闘機だけですし、その戦闘機の主力である零戦ではもはや相手にならない現実があるわけです。空母はあるにはありましたが、前年のエンガノ岬沖海戦でも発艦するのが精いっぱいというレベルの練成がやっとだった搭乗員では空母をつけても意味がありません。なお菊水作戦では九州から紫電改も特攻機の護衛で出撃していますが、奄美近海で激しい空戦というのが現実でした。

海軍も何もしていないわけではなく、というか天一号作戦がこれへの加勢と言える菊水作戦で航空特攻を海軍主体で仕掛けており、米海軍の航空兵力を釘付けにしています。もちろん出せたはずの零戦を出さなかったとか、大和の海上特攻については期待していなかったのがありありとしていますが。