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Straphangers’ Room2022

旧Straphangers' Eyeや習志野原の掲示板の管理人の書きなぐりです

陛下は間違いと指摘できないチキンの叫び

2025-08-19 20:40:07 | 歴史
今年は戦後80年というキリ番の年であり、戦争経験者の大半が90代以上と当時のことを直接聞ける最後のチャンスともいえる年だけに、メディアもいつになく特集を組んでいました。そういう中でやはりNHKのそれは質量ともに群を抜いていたわけで、「公共放送」としての矜持と使命を十分に果たしたそのスタンスは、やはり民放とは全然違うと視聴者に思わせています。

その戦争が終結した8月15日の戦没者追悼式典の式辞で首相が13年ぶりに「反省」のフレーズを復活させました。
それが気に入らない勢力はかねてからいますが、参院選で例の政党が大躍進したこともあり、臆面もなく日本が何か悪いことをしたんですか、という人が例年になく大手を振って表に出てきています。

ちなみに天皇陛下がお言葉を述べられていますが、そこには「反省」の言葉が当然のようにありますが。さらに今後も語り継ぐことを新たに宣言していますよね。そもそも陛下が「反省」しているのに政府が「反省」を省くというのがおかしいわけです。まさか政府は建前としての「統帥権」に隠れて反省すべきは「大元帥」というのでしょうか。例の政党の憲法草案も天皇に意思決定をさせる仕立てですが、それを是とするのであれば、「反省」を示すように責任を負うのは天皇であり政府でない、というつもりなのか。

暗殺された元首相の二回目の時から「反省」が消えていますが、それを称賛するネトウヨレベルの支持者の底の浅さ、歴史に学ぼうとしない姿勢には呆れます。ちなみに上皇陛下が常に示していた「忘れてはならない4つの日」もわかっていないというか、他人事、相手が悪い、という発想なんでしょうね。

一方で左翼勢力がわめく「靖国ケシカラン」も大概で、戦争への反省、戦死者への追悼を本心から思うのであれば、靖国と千鳥ヶ淵に両参りする、そして静かに祈る1日であるべきで、賛成だろうが反対だろうが政治的スタンスで主張することは本来ご法度です。8月6日に毎年繰り広げられる「騒動」に現地は辟易している意味を考えていないからでしょう。

反面やはり避けては通れないのが靖国の「A級戦犯合祀」で、死者に鞭打つ風習が無いのが我が国の美徳ですが、一方で「殉難者」として合祀されている戦犯は「戦死」ではないわけで、この時点で賛否が分かれます。しかも戦後というか「独立」後しばらく経っての合祀ということもあり、ある時点で基準が変更されたわけです。


それが国民(遺族)のコンセンサスであればまだしも、意見が分かれているうえに、そもそも「英霊」が神となり天皇の御親拝を受けるという究極の追悼でありながら、その御親拝が絶えてないという問題があります。かつては御親拝していた昭和天皇がある時点から取りやめた。それは本人の明言こそないが様々な記録からいわゆるA級戦犯の合祀に反発しての対応ということが通説となっており、素直に戦没者の慰霊を行うという場所と行為を靖国神社自身が歪めた格好です。

政府が「反省」とするのは過去の国家、政府としての過ちに対してであり、その責任主体はそれこそ「A級戦犯」でしょう。文官であった広田元首相も「A級戦犯」として処刑されています。なお、文官であり戦死者でもない広田元首相の合祀に関しては昭和天皇が名指して批判したという記録もありますね。この合祀さえなければ神道形式をとるものの戦没者の追悼施設である、という主張を押し通せただけに、いらぬ摩擦やいちゃもんを招いたという意味でも問題です。

その意味では、政府として、国家として靖国神社を無視することはできないし、無視すべきでもありません。終戦の日に国家として追悼をすべきですが、そこで問題となる「A級戦犯」を「反省」ということで意識し続けるということも必要でしょう。各地の史跡、資料館(史料館)などで戦死者の遺言などが掲示されていますが、そういう「無名戦士」の追悼を前面に押し出すのであれば、その死に責任を負うべき指導者層の責任に向き合うべきです。これは決して「死者に鞭打つ」ではなく「歴史の審判」に属する検証であり、そうした積み重ねをすることで政府として、国家として靖国神社の英霊を誰憚ることなく追悼することが可能になります。

まあ例の政党御支持者などネトウヨレベルの自称保守、似非保守は靖国参拝自体が目的化しているわけです。
だから時の首相が参拝すればそれだけで満足するわけで、政権与党もそういう勢力を支持者とすべく工作しています。
でも「利用する側」は心から追悼の意を持って参拝していません。その典型が元祖改革屋の参拝で、参拝して近隣諸国のクレームに毅然とした対応を見せれば称賛の嵐ということになっていましたが、賽銭をスラックスのポケットにむき出しで入れた小銭をつまむとそのまま賽銭箱に投じましたよね。そんな参拝作法のイロハもないような無礼千万な参拝を称賛するような低レベルの支持はいくら積み上がっても意味がないのです。

最近ではネトウヨ芸人とか大きな顔をしていますし、「オールドメディア」によるネットでのこたつ記事で重宝されているようですが、では「先の戦争で日本は悪くない」とか「昭和天皇以下歴代天皇は間違っている」と堂々と言わないのか。それは言えないチキンが百万遍垂れ流しても、世間への阿りにすぎません。







戦前の保守の足元にも及ばない

2025-08-16 17:01:23 | 歴史
戦後フィリピンに残された残留日本人に日本国籍をというニュースに対し、ネット界隈では案の定反対が噴出しています。出稼ぎか何かと同一視しているようですが、父系主義のフィリピンでは父が日本人と認定されてしまったことでフィリピン国籍が取得できない「無国籍者」という基本事項の理解すらできていません。まあ日本でも「日本人」の要件を極めて厳格に定義する政党が躍進するくらいですから、父が日本人というくらいでは排除の対象なのでしょう。

この問題は昔から批判されているのですが、日本政府は対応を取ろうとしていません。ドミニカ移民同様政府による「棄民」ともいえます。戦前の「右翼」というか「国士」は、在外の日本人はもちろん、外国人に対しても義侠心を持って接していましたが、今の日本人にはそのかけらも無いようです。アジア諸国への「侵略」のスローガンとして排除されて黒歴史化している「八紘一宇」の思想もないんでしょうね。戦後の一時期は戦前の反動もあって「八紘一宇」を「日本ファースト」と見做す解釈が支配的でしたが、ナチスドイツによるユダヤ人虐待に与しなかったことなどの根源に「八紘一宇」の概念があったという解釈もあり、政府や軍部による「日本ファースト」の正当化としての利用とは別次元の本来的な概念が浸透していたと言えます。

そう考えると、戦前の「国士」「支那浪人」といった人士の志と全く比較にならないわけです。保守だなんだと言ってもその多くはネトウヨレベル。参院選で「岩盤保守」の支持を失ったと自称保守、似非保守が叫んでいますが、例の政党に流れるような「岩盤保守」なんているはずもないわけで、そもそも「岩盤保守」はとっくに見捨てています。

元祖改革屋政権以来、保守を装う「右の売国」に成り下がっているわけで、それがさらに進行したのが暗殺された元首相時代。言葉が浅薄で責任をとらず食言上等の状況がどれだけ失望させてきたか。中国や左翼を批判すればやんやの大喝采というネトウヨレベルを引き込んでの支持に過ぎず、だからこそ今回あっけなく逸走したのです。保守なんだから斯くあれ、という提言ができるような支持者は既にいないのです。それこそ「無党派層」に転移しています。

そのネトウヨ層を「岩盤保守」としてその逸走をやり玉に挙げている似非保守層が目につきますが、そういう勢力に愛国だなんだと言ってほしくないですね。そうそう、国士様御用達新聞がその典型ですが、日本(人)ファーストではなくアメリカファーストですからね。その根っこは。頼まれももしないのに尻尾を振る、米国が怒ったらどうする、と国内を恫喝するしか能がない勢力にとっては、現政権は目障りなんでしょう。しかも「トランプ関税」で一定の成果を上げただけに、一時巻き起こった「誤解」に対する「それみたことか」の大合唱は誠に分かりやすかったです。



歴史の失敗は後世に理不尽の受け入れを強制する

2025-08-08 21:21:22 | 歴史
保守系というかネトウヨ勢が必死になって蒸し返しているのを見て、ふと思い出して1985年の欧州大戦終結40周年の日における、当時の西ドイツ大統領の有名な演説「荒れ野の40年」を読み返してみました。

例の「過去に目を閉ざす者は結局のところ現在にも盲目となります」のくだりがとくに有名ですが、それは「非人間的な行為を心に刻もうとしない者は、またそうした危険に陥りやすいのです」と続きます。過去を見ている、というかもしれませんが、それはエコーチェンバーの域を脱していません。自己正当化のつまみ食いレベルですから。

そしてそのほんの数行前にあるこのフレーズは、まさに鏡を見ているようなものでしょう。

「今日の人口の大部分はあの当時子どもだったか、まだ生まれてもいませんでした。この人たちは自分が手を下してはいない行為に対して自らの罪を告白することはできません。ドイツ人であるというだけの理由で、彼らが悔い改めの時に着る荒布の質素な服を身にまとうのを期待することは、感情をもった人間にできることではありません。しかしながら先人は彼らに容易ならざる遺産を残したのであります。罪の有無、老幼いずれを問わず、われわれ全員が過去を引き受けねばなりません。全員が過去からの帰結に関り合っており、過去に対する責任を負わされているのであります」

いつまで謝ればいいのか、自分たちがやったことではない、という弁明への批判です。過去の過ちが後世に本来は引き受けることもできないはずの責任を取らせてしまう、という理不尽も甘受しないといけないということです。
しかし「この犯罪に手を下したのは少数です。公けの目にはふれないようになっていたのであります」とナチスに直接的な責任を押し付ける「公式見解」がきちんと取り込まれていますが、であればなおさら全員が過去を引き受けるというのは本来理不尽ですが、弁明が許されていません。実行犯の責任は当然としながら、傍観者であったドイツ国民の罪が問われているとしたわけです。ニーメラーの詩も実は共通するものがあるわけです。傍観していたことが最後は自分に降りかかる、ということですから。

皮肉にもネトウヨ界隈がニーメラーを引いてあれこれ言っていますが、まさにつまみ食いを地で行っています。



周回遅れの蒸し返し

2025-08-08 21:16:20 | 歴史
保守?界隈では廃刊した夕刊紙じゃないですが「あのオレンジ色の憎いやつ」が脚光を浴びていてすっかり影が薄くなった作家が主催する政党ですが、どうも炎上商法じゃね、としか言いようがなく矢鱈めったら噛みつくことで話題の中心になろうとしている感じです。

ここは愛知県知事に対するリコールでのインチキという民主主義の根幹を揺るがす不祥事を起こしながら総括していないわけで、憲法草案で人権規定が一切ないという「オレンジ色の・・・」も真っ青な体質ですから、そういう似非保守が幅を利かすという地獄絵図になっています。

で、広島の「過ちは繰り返しません」に噛みついていますが、何周遅れの議論をする気か。
国士様御用達新聞やその系統の人士も噛みついていましたが、主語は「人類」ということで結論になっているのに何回蒸し返すのか。ネトウヨが持ち上げるパル判事が批判したとか言ってますが、1952年に碑が出来たときに起案者との間で論争になってますよね。起案者は英文も起こしており、その主語は「We」であり、人類を意味すると最初から明白です。だから広島市はこの手の批判に対しては首尾一貫して「人類不戦の誓い」と説明しているのですが、それでも蒸し返すのは最早確信犯でしょうね。あるいはそれこそ当時の人が物故者になっていることで歴史修正が可能と勘違いしたか。

パル判事は別途碑文を提供していますが、申し訳ありませんが人類最初の原爆という災禍に対し、アジア解放とか無関係の話を書き連ねてもただのプロパガンダです。簡潔にして明快、意味も明瞭なのに、一部メディアやネトウヨレベルの保守系が無駄なあがきをしています。

だいたいこういう施設で「現場猫」の「おあしす運動」じゃないですが(「お」れじゃない、「あ」いつがやった、「し」らない、「す」んだこと)、責任転嫁というか被害者意識全開の主張をしたら、これが世界に展開は出来ないでしょう。米大統領が来訪するのにもあれだけの時間と言い訳が必要だったのに、「アメリカ許すまじ」なんて書けないですよね。あるいはそれを見越して「誰も謝らない」表現にして天災のような出来事にしてしまおうとでもいうのか。

過ちとは原爆の使用であり、それが誰の手で何処にが攻撃されたのかは自明の話です。
「人類」とすることで、当然原爆を投下した米国も含むわけです。米国や米国人は第二次大戦早期終結のためやむを得なかった、という建前にすがっていますが、いかな理由であっても原爆の使用は「過ち」だったということです。
その意味では「過ち」もまた示唆に富んでいるわけで、「誤」ではないですからね。本来核兵器は絶対悪として使用はもってのほか、としないといけないのですが、FalseではなくGo too farの趣旨を多分に含む表現ですから、戦争をすべて否定しているのではない、という解釈も可能です。

そう嘆息していたら、今度は保守系団体からいちゃもんが。反省というが、「御霊」も反省なのか、と言い出しました。
ええ、はっきり言ってしまえば「そうです」でしょう。まさに「無名戦士」であれば命令に従うだけですから責任論にはなりませんが、「御霊」には戦争に対する責任を負うべき人が少なからず含まれています。それこそ今回いちゃもんを付けた保守系団体は「終戦の日」の政府主催戦没者追悼式の対象は靖国神社合祀者よりも幅広いと言っていますが、であれば敗戦時に自決した高級将校や戦犯として処刑された人を含むわけです。彼等を追悼するなとは言いませんが、「反省」を押し付けるなという主張は極めて違和感を感じます。

なお保守系団体が切望する靖国神社への「ご親拝」がなぜ途絶えたのか。それこそ保守?は頬かむりですが、近年明らかになった歴史資料や公文書が、昭和天皇がいわゆる「A級戦犯」の合祀を機に「ご親拝」を明示的に取りやめたことを示しています。それこそ「反省」すべき側ではないのか、という批判でしょう。靖国に祀られる将兵がなぜ戦火に斃れたのか。天皇の戦争責任論といった大上段に振りかぶった神学論争はする気はありませんが、少なくとも戦略、戦術を立てて戦闘、戦争を実行した軍の幹部の責任は大であり、全国に及んだ空襲被害、そしてとどめの原爆投下まで勝ち目のない戦争を継続した結果があの惨禍です。それを「追悼」する以上は「反省」の含みを持たせるべきでしょう。「無名戦士」であっても非違行為が指摘された戦場もあったのですし。

最後に、メディアが「戦後80年」とか言ってあれこれ特集していますが、まあ「やっておけば」感が強いですね。本心から、という姿勢が見えません。そういう意識がつい出てしまったのが8月6日夜のNHKニュースで、原爆ドームを背景に灯籠流し、という8月6日夜の風物詩を報じていた現地アナが、「原爆ドーム横の川です」と紹介したのには驚きましたね。
いやいや、あの川が「元安川」ということくらい知らないのか。太田川の市内での分流のうち、元安川と本川は有名ですが。地元広島放送局のアナであれば知らないはずはないのですが、その程度の人材が報じているというのは、その程度に過ぎない放送姿勢です。



一兵卒で斃れるしかない未来を信じたくない威勢

2025-08-06 21:33:08 | 歴史
広島は80年目の原爆の日を迎えました。
言葉を選びながら頑なに核兵器禁止条約には言及しない首相でしたが、リニューアル後の平和資料館訪問を話のマクラにするのは実体験をベースに地に足の着いたスピーチでした。

例年平和宣言などは広島が優等生で長崎が踏み込むという傾向がありましたが、今回は広島もかなり踏み込みましたね。
為政者への再三の呼びかけもそうでしたが、核武装への「誘惑」を踏まえ、自国さえよければの発想を咎めていましたが、どう見ても「日本(人)ファースト」への当てこすりでしょう。さらに言えば、それを選んだ国民に向けられているわけで、いよいよ存命中の被爆者がいなくなるであろう近い将来を憂慮しているんでしょうね。

戦争体験者であればそれが例え「タカ派」と呼ばれる政治家でも戦争を安易に肯定することは無かったのですが、足元の状況は戦争という選択肢を当然のように行使することを肯定する政治家と有権者という絶望ですから。自分たちが一兵卒として、あるいは民間人として、簡単に一山いくらの如く襤褸切れのような死体の山になるということが想像できないのですから。ゲームやフィクションのように参謀や高級将校のように戦争を俯瞰するという立場には間違ってもならないという現実に気が付いていません。ここにも「肉屋を支持するブタ」の構図です。

参院選の比例区で例の政党が2番手の得票となったのですが、一方であの政党では「核武装が安上がり」と公言する候補者(当選者)がいるわけで、平和宣言で平和教育の重要性を訴えていながらのこの現実は実に衝撃的です、
よしんば保守であっても「地元」であれば決して主張しない、それも選挙対策ではなく地元ゆえの本心として主張しないというのが当たり前とも言えますが、有権者、すなわち地元の県民がこれではという話です。リニューアル前の平和資料館が「軍都」を強調して原爆を落とされて当然、という感想を抱くことを誘導しているようにも見えましたが、さすがに核兵器の肯定を支持する人がこれだけ多いと、平和教育の実効性を考える必要もあるでしょう。

なお他の記事でも多々見られますが、自分は自分の意見とは対立する立場を示す属性だが、とエクスキューズを示したうえで、でもそれとは反対で批判されている側の意見に賛成です、というコメントが目立ちますね。パターンが一緒でどうもテンプレがあるんでしょうか。本来は参政するはずの人も反対している、という世論誘導なんでしょう。あるいは記事そのものは中立を装いながらも、ネットではこういう意見が、と本当はこう言いたかった、というような露骨な採択をしての誘導も目につきますし。

ちなみに核武装が安上がりだとするのは、核兵器が「使えない兵器」という前提がありますね。
80年前の「実績」が、そして戦後の南洋諸島での核実験が、核兵器の威力と影響を示したわけです。核保有国同士が撃ち合えば滅亡につながりかねませんし、核非保有国相手でも実際に使えば「長崎以来」の汚名を甘受するしかないわけです。ロシアも再三ウクライナを核恫喝していますが、使えない(使わない)ことがわかっているからウクライナは萎縮しません。

その意味では「金食い虫」の核兵器を必ずしも持つ必要はありませんね。日本が核開発するのであれば莫大なコストがかかりますし、あの政党が主張する「核シェアリング」にしても、じゃあどこがその核兵器を提供するのか。事実上の核保有を顕在化させるくらいなら、日米同盟という核保有国と同盟していますが何か?という「匂わせ」のほうが効果的でしょうし、核抑止力の恩恵は受けられます。ただしそのためには米軍を国内に駐留させて人質とするしかないです。後方から日本を戦場にして対抗する、というステージでは日本は救いがないですから。

あるいは核攻撃を受けたとしたら、日本が核武装していたとしても、核攻撃してきた仮想敵国と全面核戦争をする選択肢は必敗とも言えますからありません。つまり、核シェアリング程度の核武装では核抑止力としては無意味に近いですし、核シェアリング程度の核武装で対抗できるような仮想敵国なら安価な通常兵器を雨あられと撃ち込んで十分対抗できるレベルです。逆に核武装などしなくても、日米同盟での「匂わせ」のほうがよほど抑止力になりますね。