道教では男性を奇数、女性を偶数と捉え、印欧語族は動くものを男性名詞、動かないものを女性名詞と区別した様だが、これは三角形や五芒星は一筆書きできる(動く)のに対して、六芒星は一筆書きできない(動かない)こととも関係している様に思う。
— Shinya Watanabe 渡辺真也 (@curatorshinya) 2017年4月19日 - 00:05
人類が農耕を開始してから地母神の考えが生まれた。大地は基本的に動かないから、「動かないもの」である女性名詞からintransitivすなわち目的語を取れない自動詞が生まれ、逆に男性名詞の動くものがtransitivすなわち目的語を取る他動詞が生まれたのだろう。
— Shinya Watanabe 渡辺真也 (@curatorshinya) 2017年4月19日 - 00:08
ヨーゼフ・ボイスは最もキリスト教的なシンボルは十字架ではなくペンタグラム(五芒星)であり、何故ならそこには一筆書きで書けることによって初めて可能にある動きが内在しているからだ、と言っている。するとキリスト教原理は「動く」目的語である男性名詞を取る男性原理と言えるのではないか?
— Shinya Watanabe 渡辺真也 (@curatorshinya) 2017年4月19日 - 00:10
するとやはり男性がイデア的で、女性がコーラー的、すなわち場所的になるのだと思う。これは量子のスピンが異なった場合、一つの場所に留まることができる量子力学の説く所と似ている。
— Shinya Watanabe 渡辺真也 (@curatorshinya) 2017年4月19日 - 00:11
量子力学では回転の向きが異なる二つの素粒子は同じ場に留まることができるけれど、ウォシャウスキー姉妹(元は兄弟)の映画を見ていて量子力学的なものを感じるのは、右回転=男性原理、東、太陽、左回転=女性原理、西、月といった複数の原理が内在化しているからだろうか?
— Shinya Watanabe 渡辺真也 (@curatorshinya) 2017年4月19日 - 00:13
単純なコピーを繰り返す単細胞生物とは異なり、多細胞生物は異なる性を持つ個体との生殖活動を通じて個体を作り、異なる個体が生まれて死ぬを繰り返す。つまり生死と性の問題は同時に生まれた訳だけれど、そこにサイバネティクス的なゲシュタルトを見出せるかどうかが重要だと思う。
— Shinya Watanabe 渡辺真也 (@curatorshinya) 2017年4月19日 - 00:14
奄美で伺った話だけれど、ミキ(神酒)を作る時、右巻きに攪拌すると発酵が早く、左巻きに攪拌すると発酵が遅いそう。またミキに蓋をする時は、芭蕉布を被せて左巻きに紐で閉じることで、外のものが入らない様にすると言う。これは伊勢の西側に位置する出雲の注連縄の逆巻きの原理と良く似ている。
— Shinya Watanabe 渡辺真也 (@curatorshinya) 2017年4月19日 - 00:15
道教を軸に考えると、男性が陽で東=イザナギ=伊勢=生、女性が陰で西=イザナミ=出雲=死となるだろう。奄美・沖縄の歴史では太陽神が稲をはらませる男性として描写されることが多いが、男性だったはずの太陽神が古事記では天照=天照として描かれたのは、持統天皇の影響が強かったからではないか。
— Shinya Watanabe 渡辺真也 (@curatorshinya) 2017年4月19日 - 07:09
天孫降臨したニニギノミコトは天照の孫だが、これは持統天皇の息子で病死した草壁皇子から、持統の孫である軽皇子へと皇位を継がせたことを、傷跡を残しながらも美しく表記したものだろう。ここで男性神だったはずの太陽神が持統をモデルとした女性・天照になるという転倒が起こったのではないか。
— Shinya Watanabe 渡辺真也 (@curatorshinya) 2017年4月19日 - 07:10
古事記で黄泉の国から帰ったイザナギの左目から天照が、鼻からスサノオが生まれたとしたのは、百済滅亡と壬申の乱以降の日本を治めて唐から独立する為の一つのギミックとして、出雲族(鼻)と天孫族(左目)を一つの顔として描いたからだろう。これが天皇制と日本という国号のルーツと言えるのでは。
— Shinya Watanabe 渡辺真也 (@curatorshinya) 2017年4月19日 - 07:13
持統天皇の別名は高天原廣野姫天皇(すめらみこと)。すめらみこととはシュメールの尊を意味すると考えると、高天原=ステップロードで、これが蘇我=サッカのルーツか。皇極天皇の娘で天武天皇の姉に間人(はしひと)皇女ことパールシー(ペルシャ人)が登場するのは興味深い。
— Shinya Watanabe 渡辺真也 (@curatorshinya) 2017年4月19日 - 07:14
草壁皇子から軽皇子への魂振りを読んだとされる柿本人麻呂の安騎野冬猟歌「東の野に炎の立つ見えて かへり見すれば月かたぶきぬ」は、冬至の日の太陽(東)と月(西)の融合、すなわち太陽神信仰(道教)とシリウス信仰(ペルシャ)の融合を目指したものだったのかもしれない。
— Shinya Watanabe 渡辺真也 (@curatorshinya) 2017年4月19日 - 07:15
日本語の「結び」という言葉を「ムス」+「ヒ(日)」と考えると、古代エジプト語で「生まれて来る」を意味するms=msi=musu=「生す」はメソポタミア地域で話されていた国際語アッカド語が西に派生したもので、それが東に派生したものが大和言葉の「むすび」になったのでは?
— Shinya Watanabe 渡辺真也 (@curatorshinya) 2017年4月19日 - 07:16
「となりのトトロ」の冒頭で、埼玉に引っ越して来た五月とメイの父が「草壁です」と自己紹介するのは、草壁皇子=他界という連想だけで狭山事件を描くことが可能だと宮崎駿は考えたからだろう。その背景にあるのは、バスク人ビクトル・エリゼによる、検閲を逃れた独裁者フランコの描写だったはずだ。
— Shinya Watanabe 渡辺真也 (@curatorshinya) 2017年4月19日 - 07:16
これはとっても良さそうな映画だ。早く見てみたい!
— Shinya Watanabe 渡辺真也 (@curatorshinya) 2017年4月19日 - 14:17
満島ひかりと永山絢斗が見つめ合う姿も 『海辺の生と死』場面写真一挙公開(リアルサウンド) - Yahoo!ニュース headlines.yahoo.co.jp/article?a=2017… #Yahooニュース
@Azumi725 私は関連はあると考えています。こういった風に色々な議論が30年以上立った今でもなされていることが、傑作の所以ではないでしょうか。
— Shinya Watanabe 渡辺真也 (@curatorshinya) 2017年4月19日 - 14:30
風倉匠によるステージ上のピアノ用の椅子から床の上に無抵抗に1時間落ち続けるという1957年のパフォーマンスは、ジェームス・ブラウンが1956年にリリースした”Please Please Please”のパフォーマンスと良く似ている。
— Shinya Watanabe 渡辺真也 (@curatorshinya) 2017年4月19日 - 16:42
youtube.com/watch?v=vruy2G…
風倉匠さんは米軍が落とした不発弾を触ってしまった為、右手の人差し指を失ってしまったそうだ。指を失い、ピアノを弾けなくなってしまった彼の個人的体験が、このピアノ用椅子から無抵抗に落ち続けるというパフォーマンスに影響を与えていたのかもしれない。
— Shinya Watanabe 渡辺真也 (@curatorshinya) 2017年4月19日 - 16:44
天岩戸の前には、上の枝に勾玉を通した長い玉の緒、中の枝に八咫鏡、下の枝に白紙幣、青紙幣が掛けられていたが、これは上が連綿と繋がった祖先、中が女性器、下が男性器の隠喩ではないか。これは冬至の儀式が出産のメタファーと重ねられたもので、ミトラ教の儀式と平行関係が伺える。
— Shinya Watanabe 渡辺真也 (@curatorshinya) 2017年4月19日 - 19:40
古事記で八咫鏡を作ったのは天津麻羅だが、このマラの名はおそらくサンスクリット語のmāraすなわち陰茎のことだと考えられる。すると男性器が鏡=女性器と向き合ったことで生まれる人間の出産を、岩戸から現れることで生まれ変わる冬至の太陽に重ねたものだろう。
— Shinya Watanabe 渡辺真也 (@curatorshinya) 2017年4月19日 - 19:42
富士山の近くの御胎内神社を訪ねると、洞窟の中に男性器を模倣した御神体がニョキニョキと立っていて驚くけれど、あれは完全にヒンズー教のシヴァリンガの日本版で、洞窟(=胎内)に入った後、そこから出ることで、母から生まれて来た私がもう一度生まれ変わる、という儀式の場所だったと思う。
— Shinya Watanabe 渡辺真也 (@curatorshinya) 2017年4月19日 - 19:42
あたかも日の出と日の入りの様に、人間も生まれては死ぬを繰り返しているのかもしれない。そこにおける主体は、生まれて来た新たな個体に入る魂であり、「私」という個体は、あくまで現象に過ぎないのではないか。
— Shinya Watanabe 渡辺真也 (@curatorshinya) 2017年4月19日 - 19:43
沖縄の綱引きで雌綱と雄綱をつなぐカヌチ棒の意味が分からなかったのだけれど、これはおそらく鍛治師を意味する鍛人(かぬち)のことで、女性器と接合する男性器を、鍛治師の持つハンマー、もしくはハンマー自体を持つ男性に擬えて表現したのだろう。
— Shinya Watanabe 渡辺真也 (@curatorshinya) 2017年4月19日 - 19:44
dee-okinawa.com/topics/2016/08…
今更だけれど、日本神話はアーキタイプの宝庫だ。これはユングを通過した人でなくては、とても理解できないだろう。
— Shinya Watanabe 渡辺真也 (@curatorshinya) 2017年4月19日 - 19:46