《突然ですが、皆さん、人に謝ったことがありますか?》で始まる國分さんの自著紹介。不思議な中動態がぐっと身近になってきます。ぜひ!│私たちがこれまで決して知ることのなかった「中動態の世界」 gendai.ismedia.jp/articles/-/513… #現代ビジネス
— 白石正明 (@shiraishimas) 2017年4月2日 - 10:59
「重要なのは『私が謝る』ことではないからです。私の心の中に『ごめんなさい』という気持ちが現れていることこそが本質なのです。」國分功一郎さんの内省の形のあり方に、私はスピノザ的な、個体を超えた全体から私を捉えようとした時に初めて生まれる優しさを感じる。
— Shinya Watanabe 渡辺真也 (@curatorshinya) 2017年4月2日 - 14:47
國分功一郎さんの中動態の議論は、私が次回作となる奄美のシマ唄の映画で表現を試みている、主体的なエンパシー(感情移入)ではなく、間主体的なシンパシー(共感)の世界=全体=自然とも繋がっていると思う。スピノザの一元論的思考から影響を受けた人は、このテーマを追いかけるのかもしれない。
— Shinya Watanabe 渡辺真也 (@curatorshinya) 2017年4月2日 - 14:49
中動態的に言うと、「スピノザの一元論的思考から影響を受けた人」ではなく、「スピノザの一元論的思考に触れた時、彼の真実を求める考え方は自分の考えと同じなんじゃないか、という気持ちが心に浮かんだ人」と言った方が、ふさわしいかもしれない。
— Shinya Watanabe 渡辺真也 (@curatorshinya) 2017年4月2日 - 14:54
國分功一郎さんは「謝ること」の意味を妻と娘から教わったそうだが、私が謝ることの意味を初めて意識的に理解したのは、たぶん小学校1年生くらいの頃、従姉妹たちが喧嘩をしていて、妹(5歳くらい)が姉(6歳くらい)の腕に噛み付いた時のことかもしれない。
— Shinya Watanabe 渡辺真也 (@curatorshinya) 2017年4月2日 - 15:12
姉妹がものを取り合って喧嘩を始めた時、妹より力の強い姉は、妹を叩いてそれを奪った。すると妹は、それを奪った姉の腕に、思いっきり噛み付いたのだった。あまりの出来事に、大声で泣き始める姉。するとその姉妹の母(私の叔母)がやってきて、二人を向かい合わせて座らせたのだった。
— Shinya Watanabe 渡辺真也 (@curatorshinya) 2017年4月2日 - 15:12
叔母は、長女の腕にくっきりとついた歯痕をその妹に見せると、彼女に向かってこう言った。「あなたは人に噛み付くって、どういうことか分かっているの?」そして、なんと次女の腕に(もちろん手加減をして)噛み付いたのだった。その痛さに、声を上げて泣き始めた次女。それを見つめる長女。
— Shinya Watanabe 渡辺真也 (@curatorshinya) 2017年4月2日 - 15:14
「どう?これがあなたがお姉ちゃんにしたことなのよ。人に噛み付かれたら痛いでしょ?だったら、人に噛み付いちゃあ、いけないでしょ?」そう言うと、娘たちに仲直りを促した。妹「ごめんなさい」。「お姉ちゃんもお姉ちゃんで、妹をぶっちゃ駄目だよ」と叔母。姉「ごめんなさい」。
— Shinya Watanabe 渡辺真也 (@curatorshinya) 2017年4月2日 - 15:15
私はまだ子供だけれど、兄弟喧嘩の仲裁でここまでやってくれるなんて、立派なお母さんだなぁ、と思ったことを覚えている。大人が子供に痛みの意味を教えようと試みた時、そこに優しさが込められていたからこそ、私はこの出来事を良く覚えているのかもしれない。
— Shinya Watanabe 渡辺真也 (@curatorshinya) 2017年4月2日 - 15:15
映画監督の本田孝義さんが、夭折の俳人・住宅顕信を描く、映画「ずぶぬれて犬ころ」の製作支援をクラウドフォンディングにて募っています。映画製作に協力してみたいと思われる方、ぜひ以下のサイトから詳細をご覧になってみて下さい。
— Shinya Watanabe 渡辺真也 (@curatorshinya) 2017年4月2日 - 15:28
motion-gallery.net/projects/kensh…