面白い ”偽中国語の「貴方明日何処行?」(あなたは明日どこに行きますか?)のような言い方には、中国のポータルサイト・百度(バイドゥ)でも、「まるで昔の文語文みたいだ!」と驚き” sp.recordchina.co.jp/newsinfo.php?i…
— 池田剛介 Kosuke Ikeda (@kosukeikeda) 2017年3月31日 - 12:35
小中学校の新しい学習指導要領。意見公募を受け、小学校で「聖徳太子(厩戸王)」、中学校で「厩戸王(聖徳太子)」としていた表記を、小中とも「聖徳太子」に戻すなど、歴史用語中心に改定案を修正しました。
— 毎日新聞 (@mainichi) 2017年3月31日 - 07:50
mainichi.jp/articles/20170…
小中学校での歴史の教科書における聖徳太子の記述が問題になっているけれど、これは国民国家が教育に関わる限り、ネーションを成す物語の再生産に傾きがちだという好例だろう。聖徳太子についは私も考えて来たので、興味のある方は以下からどうぞ。
— Shinya Watanabe 渡辺真也 (@curatorshinya) 2017年3月31日 - 13:13
twilog.org/curatorshinya/…
「わたし」や「日本人」、「日本語」や「日本」も含め、存在とはいわばフィクションのことだから、近代になって生まれたそういった存在をいかにして扱い、そして乗り越えて行くのかという話をしないと、埒が明からないように思う。
— Shinya Watanabe 渡辺真也 (@curatorshinya) 2017年3月31日 - 13:17
他者との連続性が、フィクションとしての「わたし」や「日本人」という存在の根底を成しているということを前提とした教育をしなくては、そこで教育を受けた子供たちが、「わたし」や「日本人」以外の他者と向き合って創造的な未来を育むことは難しくなるだろう。
— Shinya Watanabe 渡辺真也 (@curatorshinya) 2017年3月31日 - 13:42
これは神の死という「大きな物語」の喪失以降、ネーションという近代の物語=言語と建国神話(いわば小さな物語)を、どうやって着地させて行くのかという問題につながってくると私は考える。
— Shinya Watanabe 渡辺真也 (@curatorshinya) 2017年3月31日 - 13:44
一神教の神の死という「大きな物語」の喪失の後に残るのは、結局のところ、神様とは自分の心の中に浮かんで来る気持ちだということだろう。それは自分の身体を通過して現れた一つの現象であり、さら他者の無意識ともどこかで繋がった自然や環境の総和ではないか。
— Shinya Watanabe 渡辺真也 (@curatorshinya) 2017年3月31日 - 13:58
ああ、そうなんですね。とても参考になりました。ありがとうございました。 twitter.com/sarumi_the_3rd…
— Shinya Watanabe 渡辺真也 (@curatorshinya) 2017年3月31日 - 15:46