もらい泣きって、良い言葉だと思う。
— Shinya Watanabe 渡辺真也 (@curatorshinya) 2017年4月13日 - 03:35
もらい泣きしている人って、もう既に他者と自分の壁を壊していると思う。共感能力が100%になった時に、人は自分の感情が他者の感情と一致して、涙が溢れて来るのだと思う。
— Shinya Watanabe 渡辺真也 (@curatorshinya) 2017年4月13日 - 03:50
涙が溢れて来る瞬間って、もう自分という意識が遠のいていて、魂の領域に入るのだと思う。
— Shinya Watanabe 渡辺真也 (@curatorshinya) 2017年4月13日 - 03:51
埴谷雄高は人間にできる最も意識的な行為に「子供を作らないこと」を挙げたけれど、これは彼が幸せな子供時代を送らなかったからではないか。埴谷に寵愛された池田晶子も子供を作らなかった。池田は西洋哲学は疑う哲学であって信じることを哲学できなかったと話していたけれど、池田も懐疑の人だった。
— Shinya Watanabe 渡辺真也 (@curatorshinya) 2017年4月13日 - 05:12
厄介なのは、疑う人に比べて、信じる人は言葉を持たないということ。これは情報と抽象の関係に似ている。つまり二元論的な細分化は疑いによる情報化であり、信じるという行為の逆だということ。人は何かを信じることで一元論的に他の何かと一致できるけれど、それは疑いからは生まれ得ない。
— Shinya Watanabe 渡辺真也 (@curatorshinya) 2017年4月13日 - 05:16
信じるものは救われるのは、信じること自体が、その信じている主体を救うから。つまり神は自らの中にあるもので、それを信じることは自信に他ならない。すると神を信じることで生まれる自由意志とは、自分の中にある神を信じることで、これがSubjectとなり、それが目的語のObjectを産む。
— Shinya Watanabe 渡辺真也 (@curatorshinya) 2017年4月13日 - 05:20
神を信じることで自由になる(自由意志)というのは、「自由」とは自らが決定できるということであって、これは自らの中にある神を信じることによって、自らの決定することを正しいと思うことに他ならない。その自由を失った時に、人は誰かの奴隷になってしまうのだろう。
— Shinya Watanabe 渡辺真也 (@curatorshinya) 2017年4月13日 - 05:23
人間にできる最も意識的な行為に「子供を作らないこと」を挙げた埴谷雄高は、自分の中にある光、すなわち神を信じることができなかったのだろう。それは生まれて来た自分に対する自己否定に他ならず、だからこそ『死霊』みたいな小説を書いてしまうのだろう。これは昭和的シニシズムの極地ではないか。
— Shinya Watanabe 渡辺真也 (@curatorshinya) 2017年4月13日 - 05:26
生まれて来た自分を肯定することって、十分な愛情を得なかった子供時代を送った人にとって、とても難しいことなのかもしれない。でも、それを成し遂げてこそ、初めてその人の表現は芸術、つまり魂の浄化へと向かえるのではないか。
— Shinya Watanabe 渡辺真也 (@curatorshinya) 2017年4月13日 - 05:27
赤塚不二夫の「これでいいのだ!」という言葉は、満州から引き上げて行く途中に二人の妹をジフテリアと栄養失調で無くした赤塚の、「胸がえぐられるようだった」体験から生まれて来た、生まれて来たことや生きること、すなわち自らが信じる光へと向かった、生まれて来た魂の究極的な肯定だったと思う。
— Shinya Watanabe 渡辺真也 (@curatorshinya) 2017年4月13日 - 05:32
自分自身やその回りの人が生まれて来たことを肯定できないということは、自分の視界から切り取った世界の限界を露呈しているに過ぎない。芸術は魂の救済を目指すものだから、生まれて来た魂を否定したり、子供を産まないことを推奨するような人は、優れた芸術家にはなれない。
— Shinya Watanabe 渡辺真也 (@curatorshinya) 2017年4月13日 - 05:36
ヘーゲル好きの池田晶子は、肉体を持って生まれてくるものをエントロピー最大化としてシニカルに捉え、子供を産まないという意思決定をすることで、エントロピー最大化という熱死を「歴史の終わり」として止揚しようと試みたのだろう。でも、宇宙はそんな狭くないんじゃないかな、池田晶子さん。
— Shinya Watanabe 渡辺真也 (@curatorshinya) 2017年4月13日 - 05:40
赤瀬川原平が偶然について書いた文章。「これは生命の進化発展の雛形であるといま気がついた。生命体というのが偶然の充満する海の中でわずかに固形した反偶然の秩序体であるとすれば、それが一方では何ごとかの偶然をきっかけに何らかの変化をしようと待ち構えてもいる。」
— Shinya Watanabe 渡辺真也 (@curatorshinya) 2017年4月13日 - 05:42
弁証法を唱えている人が歴史の終わりを唱えてしまうのは、究極的な自己肯定に囚われてしまった近代人が、他者を見失ってしまった結果の現れなのかもしれない。
— Shinya Watanabe 渡辺真也 (@curatorshinya) 2017年4月13日 - 05:44
逆を言うと、生まれて来ることは単なるエントロピー最大化ではないはずだ、という答えを探す過程で迷い混んでしまった人が、自由意志で子供を産まないことを選択する、という魔界に入ってしまうのかもしれない。
— Shinya Watanabe 渡辺真也 (@curatorshinya) 2017年4月13日 - 05:46
でもビッグデータが揃って来れば、生命が生まれて来ることの意味、すなわち輪廻による魂の浄化の法則と、エントロピー最大化に向かう物理法則の意味が分かって来るのではないか?
— Shinya Watanabe 渡辺真也 (@curatorshinya) 2017年4月13日 - 05:48
赤瀬川原平は赤塚不二夫と一緒に、カレーとラーメンが混合した「ラレーカーメン」を食べたけれど、これは生命の進化発展と突然変異の法則に気づいた、赤瀬川と赤塚の極めてハイレベルなメタ表現だったと思う。 pic.twitter.com/eMai73wW2A
— Shinya Watanabe 渡辺真也 (@curatorshinya) 2017年4月13日 - 05:52
自己肯定が受動的にできる様になった時に、人は他者と一致できるのではないか。それは己を捨てることに他ならず、「わたし」が「あなた」と一致すること、つまり「私」の中にいる「あなた」と、「あなた」の中にいる「私」とが、あかたも向かい合わせの鏡の中の像として一致することなのかもしれない。
— Shinya Watanabe 渡辺真也 (@curatorshinya) 2017年4月13日 - 05:56
匿名で人を批判してしまう人は、自己肯定できない人=自分の中にある神を信じれない人なのだろう。だから第三者的な視点に立って人を否定することで自己肯定する、という無茶な行為に出てしまう。そこには、匿名とは、そもそも他者に恩を着せない為の配慮である、という理解は、微塵もない。
— Shinya Watanabe 渡辺真也 (@curatorshinya) 2017年4月13日 - 06:01
「卵が先か、鶏が先か」という問いは、帰納と演繹の臨界線をなぞったものだろう。演繹法は帰納法の一部だが、帰納法は言語的理解によってしか成立せず、プライベートランゲージは成立しないから、演繹法には帰納法的な経験が含まれる。つまり経験なくしては公理や定理の了解は成立し得ない。
— Shinya Watanabe 渡辺真也 (@curatorshinya) 2017年4月13日 - 06:09
匿名でしか正直になれない人って、自己肯定できていないのだと思う。つまりは、自分自身に向き合えていないんじゃないかな。
— Shinya Watanabe 渡辺真也 (@curatorshinya) 2017年4月13日 - 06:11
孤独に耐えられる人って、自らの中に宿っている光が、他者の中にある光と同じだと信じられる人なのかもしれない。
— Shinya Watanabe 渡辺真也 (@curatorshinya) 2017年4月13日 - 06:56
生と死の縁を見た人しか、生の輪郭は描けないだろう。その深淵をつぶさに観察して、それを描こうとする人が、芸術家になるのだろう。
— Shinya Watanabe 渡辺真也 (@curatorshinya) 2017年4月13日 - 07:08
おお、歳月よ、あこがれよ、
— Shinya Watanabe 渡辺真也 (@curatorshinya) 2017年4月13日 - 07:11
誰(たれ)か心に瑕(きず)のなき?
おお、歳月よ、あこがれよ、
われ究(きわ)めたり魔術もて
万人ののがれも得ざる幸福を。
アルチュール・ランボー「幸福」 堀口大学訳
スティーヴィー・ワンダーって、凄い良い芸名だと思う。どこか自分にアマデウス(ゼウスに愛されたもの)というミドルネームを付けたモーツァルト的なものさえ感じる。
— Shinya Watanabe 渡辺真也 (@curatorshinya) 2017年4月13日 - 14:42
先週札幌のUntapped Hostelにて上映した映画「Soul Odyssey - ユーラシアを探して」ですが、会場キャパを超える来場者があった為、今週土曜日に再上映が決定しました!私もSkypeにて上映後トークに参加します。… twitter.com/i/web/status/8…
— Shinya Watanabe 渡辺真也 (@curatorshinya) 2017年4月13日 - 17:06
『Soul Odyssey-ユーラシアを探して』の上映会にお越し頂いた皆さん、本当にありがとうございました!おかげさまで盛況のうちに幕を閉じました。確かな手応えを感じた一夜でした。
— UNTAPPED HOSTEL (@untappedsapporo) 2017年4月10日 - 09:56
改めて、傑作です。旅やアート、歴史、音楽、そういったものが好きな人は絶対見た方が良い。
見てくれて、ありがとう! twitter.com/wgdevi/status/…
— Shinya Watanabe 渡辺真也 (@curatorshinya) 2017年4月13日 - 17:07
札幌の上映会では会場に伺うことができず、Skypeでお話させて頂いたのだけれど、全力で伝えようという気持ちを持って望めば、伝えたいことはきっと伝わる、そういう手応えを感じた、先週の札幌での上映会でした。
— Shinya Watanabe 渡辺真也 (@curatorshinya) 2017年4月13日 - 17:14