昨夜から フタタビ長女もやって来た 日曜日。
オットの眼鏡が出来上がったとのことで フタタビ 【坂道】へ。
夕食は やっぱりUMEYAの焼き鳥でしょ。
「ちぇるる野毛」で たくさんの食材も調達し さて 今夜のごちそうは やっぱり実家の母も呼びますか・・・
そうなると・・・ このごちそうは 妹にも食べさせたいし。
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ごちそう食べて 新聞読んでいるのが 長女。
学割があるうちに中型バイクの免許を取りに行っているのが 次女。
自力でやってきた 母を車で送っていくのが 妹。
そういう人たちの写真を撮るのが 私。
そして 最近気が付いたんです。
シャッターを切った瞬間 今閉じ込めた時間は「過去」になることに。
このシアワセな瞬間は 写真というある瞬間を切り取った視界に閉じ込めたに過ぎず
又 写真はその意味において その瞬間の「弔辞」です。
私は 過ぎていく毎日 今日その日 その時に 写真を通して弔辞を送っている。
そんな気がします。