sigh of relief

くたくたな1日を今日も生き延びて
冷たいシャンパンとチーズと生ハム、
届いた本と手紙に気持ちが緩む、
感じ。

映画:水俣曼荼羅

2024-06-02 | 映画
「苦海浄土」で水俣の問題に触れ、興味を持ってはいたけど
6時間以上のドキュメンタリーには尻込みして、上映している時には見ることができなかった。
でも本を読み終わった今なら見れる!と思ってDVDを買いました。
一緒に読書会で読んだ友達二人と一緒に、うちで上映会をした。
うちにはテレビはないんだけど、プロジェクターとスクリーンはあるのである。
(ちなみに色々調べてみたけどごく親しい身内や友達と自宅など非営利な集まりで
DVDを見ることは著作権上問題にはならないようでした)
さすがに6時間半は見れなくて、3時間くらいで一旦お開きにしたけど
そのあとひとりで残りも見ました。

原監督のオーディオコメンタリー付きでみたけど、監督よくおしゃべりされる。笑
3枚組の、1、2は映画の内容より撮り方作り方に関しての話が多かったけど、
3では水俣の人により寄り添っていて、時に登場人物につられて泣いちゃうシーンがある。
患者さんの恋愛の話を聞いてる時や、酔った支援者の人が感覚障害で
男女のことも感じなくなったと直接的な言葉を使って嘆いたために排除されたところ。
支援者の中でそんなことも起こるんですねと言いながら、もらい泣きする監督はいい人だなぁ。
しかし被害者も支援者も一枚岩ではないし、人間って難しいよなぁと思った。

天皇が訪ねてきた時に、患者のリーダーの一人が、天皇陛下にはオーラがある、
先祖に連なるものに触れた気がしたというようなことを言うシーンでは、
これはちょっとまた大きな問題を含む考え方だなぁと原監督が言ってて、ふむふむ、そうよね。
難しいところです。

あと、3には石牟礼道子さんも少し出てくる。
怒りと許しについての石牟礼さんのインタビューのシーンはすごく考え込んでしまった。
許さないことで苦しいのは何より自分自身なのだ、
「どうしても許せんということが人間の世界にあってよいものじゃろうか?
人を憎めば苦しかろう、そしたら許せば苦しゅうなかごんなるよ、と」
煩悩をどうすればいいかと。
石牟礼さん自身はもちろん水俣病の人々に窒素を許せ、巨悪を許せ、国を許せとは言いません。
誰よりも患者たちに寄り添って患者たちの声を紡ぎ直し、またその運動に関わり
「怨」の幟を作った人ですから。
でも、許すとラクになるというのもまた否定できないと。
運動を続けることに対しての深い問題提起だと監督は言う。
でも許すのはきちんとした謝罪の後でいいとやっぱりわたしは思う。
反省も謝罪も補償もしようとしない相手を許すのはいいことなのかどうか。
許して忘れてしまえば自分は楽になれるのか、そしてそれでいいのかどうか…

これね、わたしがあまり人や物事に怒れないのも本当にそれで、楽な方を選んでるのよね。
怒るエネルギーを捻り出すことから逃げてる。
許せないまま、怒るのもやめて逃げてるのよねぇ。
許せるのなら、許すということが逃げになってもいいとは思うけど、
許せないことを責めるのもいけないよね。

原監督インタビューより、
相手を怒らせるというテクニックについて
「単純に怖いし、撮っていて萎縮しますから。だから、テクニックとして相手を怒らせて撮ることはしたくないけど、それでもね、怒っている人を撮るときってあるんですよ。劇映画にくらべて3倍おもしろくなければ、ドキュメンタリーは観てもらえないと、わたしはね、経験上、思っているんですよ。だから、強い場面や激しい場面が、どうしても、ドキュメンタリーには必要だと思ってきた。」

監督は人間の感情を撮ってきたわけですしと言われて
「だけど、今回の映画では、微妙にその「強さ」という言葉の意味がね、何というか‥‥激しく怒る、激しく泣くってことじゃなく、静かで、ちっちゃくて、かすかなんだけど、「強い感情」を描くことが、やっと、できたのかなあ‥‥と思うんです。」

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