数年前のある年のわたしにとって一番衝撃だった小説がこの原作。
→「こちらあみ子」
その映画化の評判は良くて、一体あの小説をどう映画にしたのかずっと気になってたけど、
なるほどなるほど!
予告編見ただけでも画面の作り方とかすごく良いし映画としての完成度は高く、
安心して最後まで夢中で見られます。あみ子役の子すごいし、他の俳優もみんなすごく良い。
広島の風景も言葉もみんなとてもとても良い。
小説は、あちこちで起こり続ける不協和音の居心地の悪さや得体の知れない不穏な空気を感じたし、
あみ子を裁きもしないけど寄り添いもしないフラットな書き方だったと思うけど、
それに比べると映画の方はあみ子への視線がだいぶ優しい気がします。なんというか、寄り添っている。
自分が自分でいるだけで大事な人も関係も傷つけて破壊してしまいながら、
そのことが全くわからないあみ子の存在に、小説では残酷さよりむしろ切なさを感じたけど、
映画の公式サイトはあみ子の引き起こす色々を「ちょっと風変わりな彼女の純粋な行動」と
オブラートに包んだ書き方をしていて、わかりあえない切なさではなく優しさでくるんである。
映画自体は小説の世界をこんなにうまく映画にできてすごいと絶賛したいけど
結局最後にこの優しい優しい主題歌(上の予告編に出てきます)、
あみ子の気持ちを定型の子の感じる最大公約数的な寂しさや孤独に
あてはめてしまいそうなのがわたしは気になりました。
あみ子に孤独がないとは言わないけど、あったとしてもそれはわたしが想像できるものとはだいぶ違うと思うし、
寄り添うことも多分できないものなのに、ラストに甘い優しい歌をふんわり持ってきて
あみ子に寄り添えている幻想を抱かせてしまう。そういうところだけは微妙に気になった。
とりあえずもう一度原作を読み直してみなくては・・・
というわけで「こちらあみ子」の映画を見たあと帰宅後ワイン少々をはさんで、
お風呂で小説の「こちらあみ子」を何年かぶりに一気読み。のぼせた。
でもあらためて映画がかなり忠実に作られてるのはわかった。
ラストの歌の歌詞、あみ子の亡くなってる(と思われる)実の母親が見守っているという視点から
作られたというのは驚いたしなるほどそういう感じはよくわかったけど、
それでもわたしはこのふんわりした優しさがどうも好きじゃないなぁ。
音楽を作った人の感傷や関係をそこに込めないでと思うのはわたしが小説を好きすぎたからか。
(インタビューを読んだらなんだかハートウォーミングな話をしてた気がする)
それ以外は素晴らしくうまく映画化できてるんだけどね。
主人公のあみ子はなんらかの障害があって人の気持ちが理解できない。
あみ子の心はとてつもなく自由で純粋で、
その自由な魂を褒めもせず貶しもせず淡々と描いたのが原作でした。
あみ子は純粋無垢だけど、その無垢さで人を傷つけ関係や場を壊して行く存在で、
誰も悪くないのに壊れて行く世界の絶望を感じさせます。
あみ子のことは理解できないし、あみ子にも周りが理解できない。
でもそれはあみ子が悪いのではなく、わかりあえなくてもお互い存在を受け入れて
一緒に生きていくのだということを、
「コミュニケーションできる、理解できる、寄り添える」幻想でまとめるのは、
間違いかごまかしのように、わたしは思うんだけどね。
とはいえ、なにしろあみ子の役の子の演技も存在感もすごいです。
小説で読んだあみ子がそのまま現れたようにしっくりきてびっくりした。
この小説を好きな人は安心して見ていい映画です。