sigh of relief

くたくたな1日を今日も生き延びて
冷たいシャンパンとチーズと生ハム、
届いた本と手紙に気持ちが緩む、
感じ。

映画:パターソン

2017-09-19 | 映画


ジム・ジャームッシュ監督。
30年も前「ストレンジャーザンパラダイス」を見た時は、ほんと衝撃的だった。
めろめろになりましたよ。
新しいと思ったし、これこそ自分たちの今があると思った。
でもそのあとの映画にはどうも今ひとつ乗れないまま30年経ってしまいました。
「ダウン・バイ・ロー」「ミステリー・トレイン」があまり好きでなく(飽きたのか?)
「ナイト・オン・ザ・プラネット」は、ちょっとよかったけど、
「コーヒー&シガレッツ」もいまひとつ足りない。
2、3年前に見た→「オンリー・ラヴァーズ・レフト・アライブ」
大好きなティルダ・スウィントンの吸血鬼が最高で、
困ったお騒がせ妹役のミア・ワシコウスカも良かったけど、
もう一人の吸血鬼のトム・ヒドルトンの事を知らずよくわからず、
映画自体はかなりいいところと、どうにもつまんないところの混合で
なんだかすっきりしない気持ちになる映画だった。
今自分のブログを読み直すと、今回の「パターソン」に感じたもやもやも
同じ事が原因かもしれないとふと思う。
ジム・ジャームッシュはジャームッシュ風の映画を作るのがすごく上手いので
うっかり気づかないけど、実は案外単純な人なのではないか、ということを。
「名もなき人のささやかながらかけがえのない日常」みたいなことを
そんな直裁的な陳腐な表現を使わずに詩のような作品にしたのがこの映画で、
彼の映画は中身的にはみんなわりと、まとめると陳腐になりそうな
暖かいゆるふわなものを、センスのある表現でかっこよく描いてあるものだなと。
これはけなしてるのではなく、褒めるところ。
結局大事なものって、そういう当たり前のささやかなことだからね。
ただ、たまにリアルな関係や描写が必要な時に、現実感が足りなくて
作り物っぽい時があって、ほころびたそこに作り物の単純さが見えることに
なんだかモヤモヤするのかなと思ったのでした。

パターソンという街で、同名のパターソンという青年(アダム・ドライバー)が
愛する妻と犬と一緒に暮らしている。
仕事はバスの運転手さん。
でもなんか、彼のことを言う時に運転手という肩書きが正しいのかわからない。
彼は詩のノートを持っていて、毎日のように詩を書いている詩人なのです。
妻くらいにしか見せてないようだし、どこかに発表するつもりもないんだけど、
彼のことを説明する時には詩人と呼びたい気がする。
でもバスの運転手も多分彼にとってはそれなりに満足できるいい仕事で、
バスの中の会話や、窓から見えるいつもと同じ街の景色を
やはり静かな詩人の目で眺めているようです。
そんな彼の1週間を1日1日淡々と描く映画。

予告を見て、すごく好きな感じで期待の塊で見に行ったんですよ。
センスがよくて賢い人たちもみんな絶賛している。すごく特別な映画みたいに。
なのに、少しもやもやして乗り切れなくて、なんかさびしい気が・・・。
元々アダム・ドライバーが好きでない(いい俳優だけど)のを別にしても、
どうにももやもやするファンタジー映画だなぁと考え考え帰ってきた。
シャームッシュ監督は、結局
「ストレンジャーザンパラダイス」より好きなものがでてこないのかなぁ。

映画はとても好きなところも多いんですよ。いや、かなり多い。
というか大体好きかも。それもかなり好きかも。結局好きなのか・・・?笑
映像も音楽もいいし、主人公の書く詩の手書き文字が画面に白抜きで映し出され
主人公の声でそれを聞く場面がいくつかあるけど。
そのたびに、なんだかうっとりした。詩っていいなー。
詩は、特に派手なところもエモーショナルなところもない淡々とした現代詩で、
家にある青いマッチ箱の美しさとか、もしかしたら本人以外の人にとっては
面白くも興味も持たなさそうな小さなものやことについて書いてある。
でもいいんですよ、その詩が、なんだか。
映画自体も、まあそんな感じ。毎日のほとんど同じような繰り返し。
でも本人には毎日違う日で、どうでもいい同じ日なんかないというような、
そういうことが描かれてる映画、ではあるんだけど、
「かけがえのない日常」みたいな陳腐な言い方をせずに、
淡々とした詩のような映画でそれを上手く描いてる。

不満もモヤモヤもあるけど、詩ってやっぱりすてきだなぁと
テンションが上がる映画でもありました。

不満の方の話もしておきましょうかね。
ラストの方に永瀬正敏が謎の日本人役で出てくるんだけど
ここのセリフの、独特の間合いは悪くないのに
永瀬はいまいちだなぁと思ってしまった。彼の英語が中途半端なんです。
十分流暢に話してるんだけど、その流暢さが微妙・・・。
ネイティヴ並みは無理なんだし、ここはいっそもっと下手でいいのでは?
文学はわかっても発音はとても訛ってる、なんて方が自然だったんじゃ?
そして、映画の締めに出るだけあって、わりとこてっとした存在感のある役で、
でもその演技も、アダム・ドライバーの自然風に比べると、
なんかとってつけた漫画みたいな作りものっぽさというか・・・
ひとつのベンチに腰掛けるアダムドライバーの演技と永瀬の演技は、
並べると、なんというかフォントのサイズが違うような感じがしたんですよね。
アダム・ドライバーが繊細でやさしい線のフォントだとしたら
永瀬は2ポイント大きめのさらに太字で微妙に角の丸い字。
だから、最後に繰り返される彼の「ア、ハァー」もなんか安っぽいんだよなぁ。
アダム・ドライバー好きじゃないと言いながら、ここで永瀬と比べると、
彼は繊細な役の上手い役者だなぁと思った。
笑顔がかわいいしね。映画の中ではあまり笑わないんだけど。

もうひとつの、一番のモヤモヤは、この主人公夫婦。
これが全く現実感がないというか、借りてきた夫婦というか
急ごしらえの夫婦みたいなんですよ。
二人ともお互いに対してとても優しいけど、なんか変で、わたしは落ち着かない。
奥さんはかわいくて魅力的だけど、夢見がちな少女のような人で
カップケーキの店をやる夢や、カントリーシンガーになる夢のために
通販で(彼らにとっては安くはない)ギターを買ったり、
いろんなものを作ったりする。
でも主人公は奥さんが何をしてもたまににこにこする以外はぼんやりした顔で
愛おしそうにはするんだけど、どうも現実感がないんですよ。
朝は奥さんが寝てる間に一人で起きて、
ひとりでシリアルにミルクをかけた食事をする。
主人公は満足してるみたいなんだけど、これ結構わびしく見えてしまう。
他にもいろいろ、主人公は満足してるようだけど
わたしから見たら我慢してるように見えるシーンがいくつもあって
でもとても愛し慈しみ合う二人ということのようなので、よくわからない。
こういうところで、ジャームッシュがいくら映画作りのセンスがよくても
センスだけではうまくいかない点が露呈するのかもしれない。
この二人の関係の違和感以外は、すごく好きな映画なんだけどなぁ・・・

そういえば、アダム・ドライバーが毎朝、目覚ましもなしに
6時過ぎくらいに自然に起きる様子見て、あーこれだ今のわたし!と思いましたね。
自分が、家のリフォームと、生活も仕事も変えて出かけるのも減らして
目指してたのは、この映画の主人公の生活に似てるかもしれません。
わたしは詩は書けないけど、本や詩を読んで、ブログを書いて、
たまに俳句をひねりだしながら、
朝は自然に6時半前後に起き、ゆっくりと支度をして
代わり映えのしない仕事に徒歩で行き、
代わり映えのしない道で買い物をして帰ってきて
ゆっくりくつろいで気持ちよく眠る。
どんなに単調で静かで代わり映えしなくても、
自分にとっては、毎日小さな違うことがある日で、満足して淡々と生きている。


映画の中で永瀬が「詩の翻訳はレインコートを着てシャワーを浴びるようなもの」
と言ってたけど、詩の翻訳は本当にそうですねぇ。

あとちょっとした疑問。
永瀬が「詩は好きなんですか?」って聞かれて「詩は私の全てです」って答えるところ、
字幕では私の全てですと言ってるんだけど、わたしはぼんやり聞いいてて
「I believe in Poem」って言ってると思ったんです。
believe in は信じると言う意味で、よく神を信じるという時などに使う言い方。
なるほどなぁと思ったたのに、ライムスター宇多丸さんの映画評を見てたら、
彼はこの部分についてこんな風に書いていたのです。
>「私は詩を呼吸しています」って言っているんですね。こっちの方がやっぱりこのテーマに合っていると思うんですよ。詩を、呼吸するように、ポエティックな見方をすると。そして、そういう営みの蓄積としての、人類の文化。その一部として、我々の営みがある。その、人類の文化史っていうすごい大きなものとも、我々の日々の営みは呼応しているんだ、という。<
なるほど・・・breathe と言ってたのかな?わたしの聞き間違えだったのかなぁ?
誰か見た人教えてください〜。

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