教育史研究と邦楽作曲の生活

一人の教育学者(日本教育史専門)が日々の動向と思索をつづる、個人的 な表現の場

歌う歓びと教師―大正新教育実践家・北村久雄から

2020年10月06日 18時50分23秒 | 教育者・保育者のための名言
 芸術教育・音楽教育については素人ですが、塚原健太「北村久雄の「音楽的美的直観」概念―音楽教師としての音楽と生命の理解」(橋本美保・田中智志編『大正新教育の思想―生命の躍動』東信堂、2015年、467~485頁)を読んでいて、北村久雄(1888~1945)の以下の言葉に感じるものがあったのでここにメモとして残しておきます。
 これだけ抜き出すと何気ない文章なのですが、塚原論文によるベルクソンの自由・内的持続論の解説と合わせて読むと、新教育実践家とはここまで深く考えながら実践していたのだな…と感銘を受けることができました。

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 歌ふと云ふことは、対象たる歌曲に、唱歌者自身の芸術的直観を充すことに依って、その直観の必然的発展として歌謡を産み出すことである。尚これを言い換へて見ると、歌はうとする歌曲を美的に直観してその直観の結果どうしても歌はずには居られなくなって来るのである。若し彼れの直観が歌曲の中に余すところなく充されるならば、彼れは歌はずには居られなくなって来るのである。何故なれば芸術的直観と云ふものは、その立場が深くなればなるほど表現的になって来るのがその特徴であるからである。
 (北村久雄『音楽教育の新研究』モナス、1926年、14頁より)

 私が止み難い感謝に充されたことは、斯うした外面的に実証された効果[表現衝動の満足による歓喜を味わわせられたことや、独唱の時間を放課後に設けることによって唱歌の授業時における斉唱練習の時間を多くとることができたことなど]よりは、児童が最も自由な姿に、自分をうたってゆくことに依って、彼等自身――の生命――が、伸び伸びて行くと云ふ、児童等の歓びに報いられたことである。実際彼等は、野に囀[さえ]づる小鳥の如[よう]な、自由な楽しさをうたって居るのである。
 (北村、同上、606頁より)
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