教師は、道徳教育に取り組む自分の姿勢が、道徳を「教えてやる」という姿勢になっていないか常に確認する必要がある。
道徳的に完璧な人間は存在しない。人間にできるのは、道徳的であろうと努力することができるだけである。教師も、道徳的であろうとしながら不道徳を積み重ねてしまう、普通の人間である。
道徳は、日常生活の仕方であり、子どもたちの生活そのものに関わる問題である。子どもたちも、少なからず自分の生活を善くしたいと思っているし、悪いことは悪いとわかってはいる。でもできない。わかってはいるけれど、できないもどかしさを感じている。
道徳を「教えてやる」姿勢は、言い換えれば、子どもを道徳的に劣った立場に決めつけて、道徳的に優れた立場にいるかのようによそおっている姿勢といえる。教師が道徳を「教えてやる」姿勢で道徳教育に臨んだ場合、子どもたちは葛藤を感じ、ひいては反発心を感じる。「わかってるけど、できない」、そして「自分だってできないくせに」と。
道徳教育に取り組む教師には、「教えてやる」姿勢ではなく、「ともに考える」姿勢が必要である。ともに道徳的であろうと努力するのである。そのためには、教師は自らの不道徳性に自覚的でなければならない。そして、自らの不道徳性を諦めてはならない。常に道徳的であろうと努力する必要がある。そうでなければ、「ともに考える」と言いながら、実は「教えてやる」姿勢になってしまう。
ともに道徳的であろうと努力する存在として、教師と子どもは同等である。では、教師が道徳教育の教壇に立てるのはなぜか。道徳的であろうとする努力には支援者が必要だからである。道徳的実践の支援者として、教師は教師でありうる。
道徳的であろうと努力するには、「やりたくない」「めんどくさい」「しんどい(疲れる、つらい)」などの我欲を乗り越える必要がある。道徳的実践とは、我欲との対決なのである。つまり、道徳的努力を支援することとは、子どもたちの中で行われている我欲との対決を支援することである。
我欲は道徳的実践にとっていつも悪いとは限らない。我欲は主体性の源泉でもあるからである。道徳的実践は主体的でなければならない。ある意味、我欲がなければ道徳的実践を行うことはできないのである。したがって、道徳教育は我欲を取り除くことではない。
道徳教育は、目を背けがちな道徳的問題に子どもたちが向き合い、問題解決をさまたげる己の我欲を自覚し、そのうえで道徳的に判断して、道徳的実践に努力するよう支援していくことである。そのためには、子どもたちがどこで葛藤しているのか、どんな問題に直面したことがあるのか、教師は同様の経験はあるかなどを考える必要がある。そのうえで、読み物資料が必要なこともある。自分のエピソードの披露が必要なこともある。グループ討議が必要なこともある。
道徳的であろうとともに努力し、道徳的問題をともに考えるために、道徳教育はある。自分の不道徳性に目を背けた「教えてやる」姿勢では、道徳教育はできない。
(参考:山本政夫の道徳教育論)
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