〈学生たちへ: この記事をコピペしてレポートの字数をかせぐことを禁ず。 2010.8.3追記〉
またもや学問っぽいことを。
今日は、「教育」という文字の語源から、教育とは何か考えてみたいと思います。かつて、「教」という漢字および「おしえる(教)」という日本語、「育」という漢字および「そだつ」という日本語は、どのような意味をもっていたのでしょうか。
「教」の漢字は、記事の図のように「コウ(×が2つ重なった字)」と「子」、そして「ボク(右側のツクリの部分)」の3つの部分から成ってできたものです。「コウ」には、交差・交流の意味があります。「子」の上に「コウ」がありますので、子が(対義語である親または親に類する者)と交わるという意味になります。「ボク」は、棒をもって悪いことを注意する様を表す象形文字です。これを総合すると、「教」の漢字は、棒を持って注意する親子関係を示す字ということになります。ただし、「コウ」は交流すなわち相互関係を意味し、一方的な命令-服従関係を示すものではありません。つまり、「教」の字は、親が善悪を注意して教えるだけでなく、子がその注意・教えを受け入れる意味も示しているのです。
「おしえる」という日本語は、「ヲシム」「ヲサヘ」「ヲシアヘ」という語が転じたものといわれています。「ヲシム」は「愛しむ」であり、愛情をもって接することです。「ヲサヘ」は「抑え」であり、抑制すること。「ヲシアヘ」は「食饗」であり、ごちそうでもてなすこと、転じて生きるための何らかを十分に与えることを意味します。「おしえる」という日本語には、愛情をもって接する、何かを抑制する、生きるすべを与えるといった意味があるわけです。
さて、「育」はどうでしょうか。「育」の漢字は、「云(トツ)」と「月(ニクヅキ)」から成っています。「トツ」は、赤子が頭から生まれる、すなわち無事に生まれる様を示す象形文字です。「ニクヅキ」は、肉付きよく太る、すなわちよく立派に育つという意味をもっています。総合すると、「育」の字は、子どもが無事に生まれ、よく育つという意味をもつのです。
「そだつ」の日本語はどうでしょう。「そだつ」は、「スダツ」「ソタツ」「ソヒタツ」という語が転じたものだとされています。「スダツ」は「巣立つ」であり、ひとり立ちすることを意味です。「ソタツ」「ソヒタツ」は、「傍立つ」「添立つ」「副立つ」であり、助け導く意味をもちます。すなわち、「そだつ」という日本語は、ひとり立ちできるまで助け導くという意味をもつのです。
以上、「教」と「育」との漢字・日本語の語源を探ってきました。このような語源をそれぞれ持つ「教」と「育」とを足した言葉こそ「教育」であるとすると、「教育」という言葉はどのような意味をもつのでしょうか。それを考えるには、教育をする側(親または親に類する者)と教育される側(子)とに分けて考える必要がありそうです。「教育」とは、教育者側からすると、被教育者に対して、愛情をもって善悪や生きるすべを教え、自分で生きていけるようになるまで助け導くことを意味します。そして、被教育者側から見ると、被教育者自身も、教育者の教えを受容して、成長することをも意味しています。語源から言うと、「教育」は、教える者が一方的に教え育てることだけでは成り立ちません。「教育」は、教えられる者が、その教える者の行為やその内容を受け入れることによって、はじめて成り立つのです。
よって、教育の問題は、教育者の行為・内容だけではありません。被教育者が教育者の行為・内容を受け入れる姿勢を如何に引き出すか。ここにも、教育の問題は存在しているのです。
ということですから、学生が教師に「よい教育」を求めるならば、教師の努力を求めるだけでなく、学生も教師の教えを受け入れる姿勢(内容に含まれる概念・思想等に関する知識、論理を理解する能力、教師の言葉・行為を積極的・肯定的に受け入れる態度…など)を整えるため、予習しておくことが必要なのです(笑)。
<参考文献>
藤堂明保・松本昭・竹田晃・加納喜光『漢字源』学習研究社、2006年。
江原武一・山崎高哉編『基礎教育学』放送大学教育振興会、2007年。
(※ なお、「教」の漢字は、お告げの様を描いた象形文字であるという説もあります(寺崎弘昭「教育と学校の歴史」藤田・田中・寺崎『教育学入門―子どもと教育』岩波書店、1997年、111頁)。ここでは、最近の説を採って論じました。)
(以上は、白石崇人『幼児教育とは何か』幼児教育の理論とその応用1、社会評論社、2013年に所収しております)
教育はコミュニケーションであり、受ける側の受け入れ姿勢を引き出す必要があること。今でも自分の教育実践の根幹にあります。