実は私は日本教育史研究者なのですが、関連して昨年末、拙稿「沼田良蔵・實文書について―幕末三原の漢学者から明治大正昭和公立学校長への転身」(広島文教大学編『広島文教大学紀要』第56巻、2021年12月、1~14頁)を発表しました。2020年11月から私が関係者の皆さんに整理を依頼されていた沼田家文書のうち、沼田良蔵・實父子に関する文書群についてその史料的価値を解明しようとした論文です。
論文構成は以下の通り。
はじめに
1.漢学者から公立小学校教員へ
(1)漢学者・沼田郁太郎(竹溪)
(2)漢学者・沼田良蔵(香雪)の公立小学校教員・校長への転身とその活動
2.中等学校長・沼田實
3.沼田家文書による研究の可能性
(1)沼田家文書の所蔵史料の特徴
(2)「広島県備后国御調郡三原町私立菁莪舎々則」について
(3)「私立藹然舎規則」について
おわりに
沼田家文書の資料点数はまだ調査中なのですが、数百は下らない数であり、未整理状態で段ボール数十箱あります。今わかっている限りの概要は、拙稿で確認してください。
さて、今回資料を整理し始めた沼田良蔵(1849~1913)は、三原藩郷校の明善堂の教授であった沼田郁太郎(竹溪)の長男で、幕末に明善堂訓導を務めた漢学者でした。私は昔、良蔵の略伝を別ブログ「大日本教育会・帝国教育会の群像」で書いたことがあって、そのご縁で文書整理の声がかかったわけです。良蔵は、明治に入って広島県公立師範学校を卒業し、公立小学校教員に転身した人物です。三原尋常高等小学校で訓導および校長を34年間勤め続けるかたわら、朝夕に私塾を開いて漢学を教えていました。まさに私に公に、備後三原(現三原市)の中心地で多くの子どもを育て、明治の三原に生まれた人々はみな良蔵の教え子と言ってよいでしょう。拙稿では、彼の関わったと思われる漢学塾(菁莪舎・藹然舎)の規則を比較検討し、その作成時期や意義について検討しました。漢学塾は、江戸後期に立身出世や伝統的な漢詩文化参加への入り口という意味をもって発展したものと思われますが(現に父郁太郎と良蔵自身も漢学で身を立てた)、明治期に入ってその存在意義が問われることになりました。特に、1880年代以降に日本には学歴社会が形成され始め、立身出世・学歴競争の出発点として小学校が確立を始めました。小学校長かつ漢学塾主であった良蔵は、そのはざまにあって葛藤したと思われます。今回見つかった「菁莪舎々則」と「藹然舎規則」からは、その葛藤が見て取れました。今回の拙稿で注目したのはこのところで、漢学者から学校教員への転身という、日本の教職者の歴史における画期的な移行に関する重要な史料群が見つかったことを拙稿では明らかにしました。
なお、良蔵は、三原にあって1894年から御調世羅郡私立教育会長(のち御調郡教育会長)をつとめ、1900年に郡教育会を動かして私立小学校教員養成所を創設します。この養成所についてはまだ調査中ですが、どうも実態としては教員検定試験準備の予備校で、毎年何十人の生徒が学んだようです。彼の日記には(文字数は少ないですが)頻繁に養成所のことが書かれ、かなり力を入れていたことがわかります。また、明治期の広島県には長らく広島市に1校だけ師範学校がありましたが、1909(明治42)年に三原に女子師範学校が増設されました。この三原女子師範学校の誘致運動の有力人物がこの沼田良蔵だったと伝わっています。沼田家文書はまだ調査中ですが、三原における小学校教員養成の実態に迫ることのできる貴重な史料群と見ています。
良蔵については、香雪先生建碑会編『香雪遺稿』(私家版、1915)、および石川忠久監修・神前温子註『香雪遺稿』(私家版、1998)があります。
今回注目したもう一人の人物である沼田實(1889~1976)は、良蔵の二男です(兄は若くして亡くなりました)。父の小学校と漢学塾、養成所で学び、広島県師範・東京高師を出て中等学校教員となり、愛媛県の師範学校・高等女学校・中学校で教員・校長を歴任した人物です。戦後には私立新田中学・高等学校、広島女子商業高等学校・商業学校(現広島翔陽高校)の校長を務めました。退職後は三原に帰って、教育委員会や老人大学に深く関わったようです(調査中)。漢学者・小学校教員の家系から出て、地元の教員養成所(教員検定)・師範・高師を経て教員免許を取得し、ついに中等学校教員、中学校長・高等学校長まで転身していった人物です。沼田家文書に在学中や現職中のノートや一次資料がたくさん残っており、今後の研究が望まれる人物です。
實については、村上節太郎編『沼田実先生教員生活五十年記念誌』(大谷丈夫、1963)があります。
今回の拙稿では、良蔵・實のことだけ書きましたが、沼田家文書全体としては、その周辺の人物の資料もそこそこ含まれています。少なくとも、早くして亡くなった良蔵長男の修蔵(閑谷黌学生)、實の弟の多稼蔵(陸軍中将・防衛庁顧問)、良蔵弟の高橋雄蔵(良蔵の後任で三原尋常高等小学校長)の興味深い資料の存在を確認しています。
2022年3月現在、沼田家文書は旧沼田實邸(先日解体済み)の隣の倉庫に移動されています。今後も残したいということは決まっているのですが、その先どうするかは、関係者の協議中で、まだ決まっていません。三原の教育史・地域史はもちろんですが、広島県・愛媛県教育史そして日本教育史にとっても極めて重要な史料が集まっている資料群であると私は確信しています。今は関係者の篤志で何とか保存されていますが、この先いつどうなるかわからない曖昧な状態です。なんとか公的な施設で保存できないか、知り合いに当たっていろいろ相談しているところです。
論文構成は以下の通り。
はじめに
1.漢学者から公立小学校教員へ
(1)漢学者・沼田郁太郎(竹溪)
(2)漢学者・沼田良蔵(香雪)の公立小学校教員・校長への転身とその活動
2.中等学校長・沼田實
3.沼田家文書による研究の可能性
(1)沼田家文書の所蔵史料の特徴
(2)「広島県備后国御調郡三原町私立菁莪舎々則」について
(3)「私立藹然舎規則」について
おわりに
沼田家文書の資料点数はまだ調査中なのですが、数百は下らない数であり、未整理状態で段ボール数十箱あります。今わかっている限りの概要は、拙稿で確認してください。
さて、今回資料を整理し始めた沼田良蔵(1849~1913)は、三原藩郷校の明善堂の教授であった沼田郁太郎(竹溪)の長男で、幕末に明善堂訓導を務めた漢学者でした。私は昔、良蔵の略伝を別ブログ「大日本教育会・帝国教育会の群像」で書いたことがあって、そのご縁で文書整理の声がかかったわけです。良蔵は、明治に入って広島県公立師範学校を卒業し、公立小学校教員に転身した人物です。三原尋常高等小学校で訓導および校長を34年間勤め続けるかたわら、朝夕に私塾を開いて漢学を教えていました。まさに私に公に、備後三原(現三原市)の中心地で多くの子どもを育て、明治の三原に生まれた人々はみな良蔵の教え子と言ってよいでしょう。拙稿では、彼の関わったと思われる漢学塾(菁莪舎・藹然舎)の規則を比較検討し、その作成時期や意義について検討しました。漢学塾は、江戸後期に立身出世や伝統的な漢詩文化参加への入り口という意味をもって発展したものと思われますが(現に父郁太郎と良蔵自身も漢学で身を立てた)、明治期に入ってその存在意義が問われることになりました。特に、1880年代以降に日本には学歴社会が形成され始め、立身出世・学歴競争の出発点として小学校が確立を始めました。小学校長かつ漢学塾主であった良蔵は、そのはざまにあって葛藤したと思われます。今回見つかった「菁莪舎々則」と「藹然舎規則」からは、その葛藤が見て取れました。今回の拙稿で注目したのはこのところで、漢学者から学校教員への転身という、日本の教職者の歴史における画期的な移行に関する重要な史料群が見つかったことを拙稿では明らかにしました。
なお、良蔵は、三原にあって1894年から御調世羅郡私立教育会長(のち御調郡教育会長)をつとめ、1900年に郡教育会を動かして私立小学校教員養成所を創設します。この養成所についてはまだ調査中ですが、どうも実態としては教員検定試験準備の予備校で、毎年何十人の生徒が学んだようです。彼の日記には(文字数は少ないですが)頻繁に養成所のことが書かれ、かなり力を入れていたことがわかります。また、明治期の広島県には長らく広島市に1校だけ師範学校がありましたが、1909(明治42)年に三原に女子師範学校が増設されました。この三原女子師範学校の誘致運動の有力人物がこの沼田良蔵だったと伝わっています。沼田家文書はまだ調査中ですが、三原における小学校教員養成の実態に迫ることのできる貴重な史料群と見ています。
良蔵については、香雪先生建碑会編『香雪遺稿』(私家版、1915)、および石川忠久監修・神前温子註『香雪遺稿』(私家版、1998)があります。
今回注目したもう一人の人物である沼田實(1889~1976)は、良蔵の二男です(兄は若くして亡くなりました)。父の小学校と漢学塾、養成所で学び、広島県師範・東京高師を出て中等学校教員となり、愛媛県の師範学校・高等女学校・中学校で教員・校長を歴任した人物です。戦後には私立新田中学・高等学校、広島女子商業高等学校・商業学校(現広島翔陽高校)の校長を務めました。退職後は三原に帰って、教育委員会や老人大学に深く関わったようです(調査中)。漢学者・小学校教員の家系から出て、地元の教員養成所(教員検定)・師範・高師を経て教員免許を取得し、ついに中等学校教員、中学校長・高等学校長まで転身していった人物です。沼田家文書に在学中や現職中のノートや一次資料がたくさん残っており、今後の研究が望まれる人物です。
實については、村上節太郎編『沼田実先生教員生活五十年記念誌』(大谷丈夫、1963)があります。
今回の拙稿では、良蔵・實のことだけ書きましたが、沼田家文書全体としては、その周辺の人物の資料もそこそこ含まれています。少なくとも、早くして亡くなった良蔵長男の修蔵(閑谷黌学生)、實の弟の多稼蔵(陸軍中将・防衛庁顧問)、良蔵弟の高橋雄蔵(良蔵の後任で三原尋常高等小学校長)の興味深い資料の存在を確認しています。
2022年3月現在、沼田家文書は旧沼田實邸(先日解体済み)の隣の倉庫に移動されています。今後も残したいということは決まっているのですが、その先どうするかは、関係者の協議中で、まだ決まっていません。三原の教育史・地域史はもちろんですが、広島県・愛媛県教育史そして日本教育史にとっても極めて重要な史料が集まっている資料群であると私は確信しています。今は関係者の篤志で何とか保存されていますが、この先いつどうなるかわからない曖昧な状態です。なんとか公的な施設で保存できないか、知り合いに当たっていろいろ相談しているところです。
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