教育史研究と邦楽作曲の生活

一人の教育学者(日本教育史専門)が日々の動向と思索をつづる、個人的 な表現の場

他者に出会う公共の場としての学校

2024年08月17日 11時56分10秒 | 教育研究メモ
 学校とは、他者に出会う公共の場である。
 同質性にまみれた親密な家族・家庭から出た子どもや、同質性を求められる社会や職場から離れた学習者が、新たな出会いを求めて集う場である。
 学校では、異なる個性やアイデンティティをもつ他者(同級生・教職員)と出会い、未知の知識や活動(「他者」)に出会い、人々は様々な刺激を受ける。その結果、人々は視野や世界観を広げ、知識や教養、考察を深め、道徳性を身に付けることができる。
 「他者」と出会い、視野を広げ、教養を深め、道徳性を身に付けることは、学校でなくても可能であるが、その場合は無意図的で無計画な中で偶然起こるに過ぎない。教育とはそれを意図的・計画的に行うことであり、学校はそのような教育を行うために特別に設けられた仕組みである。

 したがって、学校教育は同質性以上に異質性を重視する必要がある。
 しかし、それでは学校が無秩序になり、荒れるではないかという意見がある。しかり。荒れるに任せることが学校の方法ではない。学校は異質な他者同士が出会うことで生じる衝突や葛藤を脱して調和・安定に導く必要がある。目指すべき調和・安定の状態は、衝突・葛藤を隠蔽したり、回避したりすることで得られる欺瞞的・固定的な状態ではなく、衝突・葛藤を経て自ら調和・安定を常に探ろうとすることで得られる倫理的・流動的な状態である。教職員の役割は倫理的・流動的で調和・安定を目指す他者との出会いをつくり、導いていくことである。
 異質な他者を出会わせてうまく教育するには、安全・安心を保障する養護・福祉の仕組みを前提とする必要がある。他者との出会いは常に危険・不安と隣り合わせである。安全・安心を保障する仕組みがなければ、他者と出会おうとする意欲を損なうことになりかねない。学校は、安全を保障し安心して他者と出会える場である必要がある。教職員の役割は、安全・安心を前提とした教育を行うことである。

 さらに、異質性を重視する学校教育では、国民・市民を育成できないではないのかという懸念もある。これは、国民・市民とはどのような存在か、という議論が必要である。国民・市民とは、特定の国家や社会を構成するメンバーとして最低限必要な知識や道徳性等を身に付けた、一定の同質性を有する存在である。問題は、この国民・市民としての同質性はどのように身に付けられるかにある。異質性を重視する学校教育は、学習者に最初から同質であることを求めるのではなく、異質でありながらつながっていくことを求める。国民・市民としての同質性はその結果として生じる。国民・市民育成という目的は、段階的に達成されるものである。
 人間の本質は互いに異質なところにあり、学校教育を通しても依然異質な個性的存在(個人)であり続ける。個人が出会う公共の場(社会)では異質な他者として出会うが、他者の出会いは様々な結果を生み出す。学校は、他者の出会いを価値あるものにするための仕組みである。学校で価値あるものとは成長・発達である。成長・発達につながる出会いを意図的に作り出すには、まず、他者がそれぞれ異質な他者として有能になっていくことが必要である。学校教育において個性を伸ばす意義はここにある。
 しかし、孤立した状態で異質な他者として有能になるだけでは、成長の刺激もない。人間は異質でありながらも、一定の知識や態度を共有し、倫理的に調和・安定を目指して協調・努力し続け、刺激し合うことができる。そこには、出会い、刺激を受けて成長し合おうとする意志・意図が必要であり、安全に安心して効果的な出会い・成長を作り出す計画が必要である。学校や教職員は、学習者を孤立させるのではなく、他者として有意義に出会わせるための仕組みである。

 学校は他者と出会う公共の場として整備される必要がある。他者として有能になり、互いに成長し合える仕組みをつくる必要がある。学校は、本質的に異質な個人たちが有意義に出会い、倫理的に調和し協働し合う国民・市民として成長する場となる。同質であることを強制して異質を否定することではその事業は実現しない。異質を前提に、個性を伸ばして、うまく折り合いをつけていくことで、国民・市民は育成できる。
 学校教育が異質を前提とするならば、心身の障害の度合いや出自・国籍の違いは根本的な問題ではなくなる。いじめは異質を排除して同質の集団をつくろうとするところに発生するから、いじめへの向き合い方も明瞭になる。教職員は学校・学級生活の中で一人の他者として学習者と出会い、安全で安心な出会いを整えながら、教育活動全体を通して異質な知識・技能・考え方等と出会わせる必要があり、教科指導・生徒指導を両立すべき理由がはっきりしてくる。学校のスタッフは他者として出会うことが重要だから、学校を教員だけで組織する必要もない。個性を伸ばすための個別最適な学びが協同・協働的な学びと接続されるべき理由や、学力形成と生活・生徒指導、道徳教育を総合すべき理由、個性教育とインクルーシブ教育、国民教育と市民(シティズンシップ)教育を接合すべき理由もはっきりする。

 今を生きる我々は、議論すべき多種多様な学校教育問題に取り囲まれている。我々は議論の整理と問題解決のために、学校観を更新する必要がある。
 1947年以来、教育基本法に基づく日本の公教育制度は、戦前から引き続き、「国民」に囲われ、「能力」に制限されて続けている。1960・70年代には、公教育の福祉的意義に注目が集まり、家族間の格差や進路、もっている障害、出自、国籍の違いに向き合って、これらの違いを取り込んで制度化することが課題となった。今では、格差が拡大し、グローバル化が進み、障害への関心が高まり、他者の異質性はどんどん明瞭になってきている。今我々が直面している教育問題は、個々では法的・政策的・実践的な問題であるが、学校観・教育観の問題を通底して抱えている。
 学校観・教育観の問題は教育哲学と教育史の問題である。十分な哲学的考察は的確な歴史認識・解釈の下で行われる。現在の問題は近代的問題だが、日本では20世紀を通して大きく変動してきた。今こそ20世紀以来の日本教育史を歴史的に総括することが必要であろう。

 キーワード:他者との出会い、異質性/同質性、公共の場(公教育)として意図的・計画的に制度化された学校

※小玉重夫「戦後教育における教師の権力性批判の系譜」(森田尚人・森田伸子・今井康雄編『教育と政治―戦後教育史を読みなおす』勁草書房、2003年、94~112頁)を読んでいて、1980・90年代のプロ教師の会の教師の権力性批判とその居直り的言説を思い出しながら考察したことをまとめていたら、こんな文章になりました。



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