久しぶりに他人から心をゆさぶるようなアドバイスをもらった。
私に足りないものを的確に突かれ、その足りないものを補う方法に納得し、涙が出た。
そんな単純なことに気づかなかったことがくやしいのだか、
そんな大事なことを気づかせてくれたことがうれしいのだか、よくわからない涙だった。
あまりに忙しいので、優先順位を決めて、様々なものを削り取ることで何とかしのいできた。
それは「余計な」経験を削り取ることでもあった。
保育者養成者としてもつべき知識と技術、そして態度の錬磨には、手を抜いたことはないつもりだった。
実際、テキストも書けたし、教育関係11科目について誰かの借り物ではない自分なりの授業を形にすることができた。
しかし、人間は「余計な」経験でできあがっている、ごちゃごちゃしたものである。
仕事の遂行と、心身の安定とのために、人間であるために必要な「余計な」経験を私はあまりに軽視していた。
私は、もともと興味の狭い人間であり、仕事をやりきるため、仕事に直接関係するもの以外はできる限り捨てるようにしていた。
私は、もともと心も体も脆い人間であり、仕事以外考えてこなかったのは自分を守るためでもあった。
教師は人間でなければならない。
とくに魅力的な人間でなければならない。
「余計な」経験は、人間を彩る様々な色を生じる。
魅力的な人間になるには、「余計な」経験が必要だ。
このところ、ずっと「与える」ばかりだった。
そして、だんだん自分の中に、学生たちへ「与える」べきものが枯渇してきたような気がしていた。
学生指導でも、授業でも、少しずつ行き詰まりを感じていた。
数年前は生き生きと話せていた実体験のエピソードも、少しずつ風化して、うまく話せなくなったなと感じていた。
これが年を取ることか、時間が経つということか、と思って納得しようとしていた。
とはいえ、33で枯れ果てるにはまだ早すぎる。
私は、「余計な」経験をもっと大事にしなければならない。
ただでさえ、もっと若いときに引きこもっていて、狭い経験しかしてこなかったのだ。
ただ、アンバランスな自分の心身の調子を保ちつつ、隙間をこじ開けて作り上げたスケジュールをどう再構築すればよいのか、そこがとくによくわからない。
じゃあ、どうするか。今の私が出せる答えは、結局いつもと同じ。
「今やるべきことをやりきってから考えよう」
今の私には結局この答えしか見つけられない。
これから私がどのように自分を変えられるか、今はわからない。
そんなことを考えていられる状況じゃないし、今は自分に課された責任と課題を優先したいため、考えていたくない。
しかし、これからどのように生きていくか、これからどのように自分を高めていくか、問題意識を持つことはできた。
私一人では持つことはできなかったであろう問題意識を。
言葉にしてくれた人に感謝。
読者には意味不明だと思いますが、今日はこんなことを思いました。
必要な時に必要な人が現れ、受け止められる準備ができた時に必要な言葉に出会うことができる。
私の人生は、今のところ幸せな人生なのかもしれない。