教育史研究と邦楽作曲の生活

一人の教育学者(日本教育史専門)が日々の動向と思索をつづる、個人的 な表現の場

問題:教員における教職の専門職意識

2006年12月06日 20時07分38秒 | 教育研究メモ
 今日は久しぶりに早朝に起床。
 午前中は中央図書館へ行き、現代的教育問題に関する「感覚」をつけるため、教育雑誌を読む。読む雑誌は何でも良かったのですが、長い歴史を持つ教育科学研究会編『教育』を読むことにしました。最新刊から古いものへ移行しながら1日1号読み、2~3年前くらいまで遡ってみようと思います。こんなことを考えたのは、私は大日本教育会・帝国教育会研究のために年表を作ろうと考え、『大日本教育会雑誌』『教育公報』『帝国教育』にひたすら目を通してきたところ、明治10年代後半から昭和戦時期あたりまで、当時の教育会の中央で何が問題とされてきたかを何となく感覚的に掴んでいたからです。同じ団体発行の雑誌を読み、ひいてはもう2・3種類の雑誌を読めば、現代的感覚はかなりつかめるのではないか、という程度の思いつきです。その上に教育科学研究会編『現代教育のキーワード』などの概説書も読めば、もっとよいのではないかと。…なんか大学院の入試の時みたいだな(笑)。
 今日のタイトルにもあるように、午前中に『教育』を読んで、教員における教職の専門職意識は、私の目的とする教員のサポートシステムの構築において問題だなぁと思いました。が、それについては下に書くことにして、日記を続けましょう。『教育』読書後、運動へ。また体重が元に戻りかけていて(戻ってはいないが)ショック(T_T)。リバウンドは簡単なのです。気をつけなければ。運動後、再び登校。朝読んだ『教育』の内容が私の問題意識を刺激したので、メモ書きを書いていると、予定以上に時間を食ってしまう。雑誌は一日しか借りれない+最新刊は貸出不可なので、早くやっておきたかったのです。
 その後、西川長夫・松宮秀治編『幕末・明治期の国民国家形成と文化変容』(新曜社、1995年)の中の、川上勉「幕末・明治期における近代的知識人の生成」と櫻井進「儒学と近代化」を読む。あと、西川長夫「日本型国民国家の形成」も読み始めるも、分量が多くて今日中に全部読むのは断念。「国民国家形成のイデオロギー装置として作られた学問」という問題設定を強調している点には、直接関係ありそうな章を読んだ限りでは、同書での消化は不十分に終わったように思えますが、興味がひかれます。続編の西川長夫・渡辺公三編『世紀転換期の国際秩序と国民文化の形成』(柏書房、1999年)も読むべきか… 少し時期がズレるんだよなぁ。
   
 午前中、教育科学研究会編『教育』第56巻第12号(国土社、2006年12月)を読む。その上で思ったことを、つらつらと書き連ねます。
 特集は「貧困・格差・社会的排除と教育」ですが、私の関心からはむしろ小特集の「教師を孤立に追い込む構造」の方が興味深く読めました。とくに、八木英二氏の論文にて、保護者は教職を尊敬される職業と見ているのに対し、教員自身は尊敬されていないと感じている、という指摘に興味がひかれました。教員・保護者ともに教職の専門性を尊重していますが、保護者や行政は教員の活動に介入しようとする。しかも、教員は専門性を重視するがゆえに、実践における失敗に対して無力感と自責の念にさいなまれ、バーンアウトするのだといいます。八木氏が「専門職アイデンティティ」と呼ぶものが、本来は教員の教育活動の自律のためにあるはずなのに、別の面で教員を追いつめるものになっている様が見えます。
 八木論文の後に掲載されている石城氏、本橋氏、城島氏の論文は、彼等が体験した教員の問題解決の過程としての苦闘が描かれています。その苦労に共感し、応援したい気持ちになりました。ただ、無意識に書いたか『教育』の編集方針かはわかりませんが、彼等の記述内容を読むかぎり、私には、疲労や熱心さのゆえに、彼等の視野が一つの教室内に限られてしまい、かえって問題解決を難しくしていたのではないかとも思えました。彼等は実際のところ、同じ学校のスタッフの協力でこの問題解決過程上の問題を解消したようです。教育問題には学校だけで解決できない問題もあります。教科指導ならいざしらず、学級における子どもたちの人間関係や性格上の問題は、家庭や社会の問題でもあります。家庭や社会ではどうにもならんから学校でなんとかしろ、というのは暴論でしょう。そのような問題は、学校外とも連携をとって問題解決にあたらない限り、真の問題解決は望めないはずです。では、彼等がそれをできなかったのはなぜか。私は、自分の担当内の問題だから自分一人で解決しなくてはならない、という凝り固まった専門意識が、根深いところで邪魔をしているように思います。しかも、その意識が、教員同士の協力関係の構築までも邪魔しているように思えるのです。もちろん、教員が自らの職業に誇りを持つことは大事です。しかし、教育問題には、ある教員一人だけ、または教員という同一職業内の問題ではないものがたくさんあるので、普段から話し合い有事には協力して問題解決にあたる体制が必要なのだと思います。
 私は、何度も言うように「教員の問題解決をサポートするための、教員・教育学者・教育行政官の共同による教育問題の解決システム」をつくりたいわけですが、そのためには、教員の専門職意識の問題も解決すべき問題として現れそうです。
 雑駁な考察ですが(説明不足の点があるんですよね~)、読後の感想なので以上。
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