老いの途中で・・・

人生という“旅”は自分でゴールを設定できない旅。
“老い”を身近に感じつつ、近況や色々な思いを記します。

播但線と「鉱石の道」 その①  ~「鉱石の道」~

2019年07月31日 20時39分24秒 | 旅行/色々な風景
 7月28日(日)に乗り鉄ネット旅倶楽部企画の“播但線と『鉱石の道』 明延鉱山一円電車乗車体験”というツアーに参加しました。

 同倶楽部は昨年初めに大周り乗車を思い立った後に色々と情報を頂いている所ですが、昨年秋から色々なツアーも企画されるようになり、個人では企画しにくい行き先が含まれていますし、各ツアーには鉄道に詳しいガイドの方がおられるので、目的地や道中の色々な歴史や珍しい風景を紹介して頂けます。

 私は、根っからの鉄チャンではないのですが、旅行が大好きで色々な所に出掛けていますし、鉄道との触れ合いは、色々な昔の記憶や経験などとも結びつきやすいので、今迄断片的だった知識を色々と合せながら、一連の流れとして組み立てることにも役立つ大変面白いツアーで大きな刺激にもなります。

 それと併せて、少し認知症が進んだツレアイを共々色々な所に出掛ける事で、単調になりがちなツレアイの刺激にもなると思い、出来るだけこのツアーに参加させていただき、現在の生活の大きなアクセントとさせていただいています。



 さて、今回のツアーは、鉄道好きな人達を対象とした播但線を利用して、『鉱石の道』を探ろうというものです。

・私は姫路の近くで育ったというものの、どちらかと言えば姫新線の沿線に属する西播州と呼ばれる地域で、播但線を利用する機会は極めて少なかった。
・最近はこのブログでも数回紹介したように宍粟市の山奥に墓参に行った際にチョイチョイ朝来市の神子畑の選鉱場跡に寄ることが多くて「鉱石の道」という日本遺産があることは知っていましたが、「鉱石の道」の詳しい事まで知らずに興味を持っていた。
というような理由で、今回の企画に飛びつきました。


 ツアーの様子をお知らせする前に、『鉱石の道』というのをご存知ない方が殆どだと思いますので、先ずこの『鉱石の道』について纏めて見たいと思います。

 平成29年(2017年)に『播但貫く、銀の馬車道 鉱石の道』~資源大国日本の記憶をたどる73キロメートルの轍~として、文化庁より日本遺産に認定されましたが、これは姫路市、福崎町、市川町、神河町、朝来市及び養父市の6市町の申請に拠るもので、既に平成19年(2007年)に経産省により日本近代化産業遺産群に認定されていたエリアで、『銀の馬車道』(姫路市の飾磨港~朝来市の生野銀山約49km)と、、『鉱石の道』(朝来市生野~養父市明延鉱山~養父市中瀬鉱山の約24km)が合わさったものです。


 ご存知の方が多いと思いますが、播但地方には古くから重要な鉱山が点在していました。主なものを挙げますと、

明延(あけのべ)鉱山:
 戦国時代頃から採掘が始められ、金・銀・銅・鉛・錫などを産出してきた多品種非鉄金属鉱山で奈良・東大寺の大仏鋳造の際に、ここの銅が使用されたと言い伝えが残る古い鉱山です。
明治42年(1909年)に錫鉱が発見されて「日本一の錫の鉱山」として栄えたが、昭和62年(1987年)に円高の為海外との競争に勝てなくなり閉山しました。

神子畑(みこばた)鉱山・選鉱場:
 元々は神子畑鉱山として、銀と銅などを産出する鉱山で一時は生野の支山として幕府の管理下に置かれたりしていたこともありますが、生野銀山よりも鉱石の出産量が不安定だった為、明延鉱山で錫が採鉱されると共に、明延鉱山で採鉱する鉱石の選鉱場となり、山の急斜面を利用した東洋一の生産高を誇った巨大な建物がありましたが、昭和62年に明延鉱山の閉山と共に、閉鎖となりました。

生野銀山:
 1,200年の歴史をもつ日本有数の銀の大鉱山で、佐渡金山/石見銀山と共に江戸幕府の直轄鉱山として栄え幕府の財政を支えました。

 明治元年(1868年)には日本初の官営鉱山となり模範鉱山として、鉱業用送水路やトロッコの敷設や技術者育成のための学校などを備えた近代的な鉱山となりました。
明治22年(1889年)から宮内省に所属し、御料局生野支所と名称が変更されましたが、明治29年(1896年)、政府から三菱合資会社に払い下げられ、はじめて民間事業として操業します。
その後は地下資源の枯渇による品位の低下などが目立つようになり、昭和48年(1973年)に閉山されることになりました。

 その後、三菱マテリアル社として錫の精錬事業を継続していましたが、昭和62年(1987年)の明延鉱山閉山後は、原料を各種滓類・スクラップに求め、平成10年(1998年)からはマテリアルエコリファインが事業を引き継ぐことになりました。

中瀬金山:
 天正元年(1573)に八木川で砂金が発見されて始まり、江戸時代には生野奉行所の直轄鉱山となり、近畿でも最大の金山町として栄えたが、明治時代は三鉱山とともに三菱の経営となりました。
昭和に入ると、日本一大きな「自然金」が出る鉱山として有名になった他、アンチモンを産出して優秀な製錬技術を開発。
採算性が悪化したため、昭和44年(1969年)に閉山したが、現在も輸入した材料から国内生産の80%のアンチモン製品(触媒等)を製造しています



 そして、明治維新後、政府は日本の産業近代化のために、生野銀山を日本初の模範鉱山として、フランス人技師を招聘して近代化を図りました。

 これに伴い、明治9年(1876年)に姫路市の飾磨港と生野の間に、重量物の運搬に耐え得る画期的な構造を持ち、馬車などの車両がすれ違えるように道路幅は3間3尺(6m)以上が確保された我が国初の高速産業道路とでも呼ぶべき馬車専用道路が整備され、採掘や選鉱などに必要な鉱山用資材の運搬や、その後の鉱山製品(製錬・精錬物や選鉱品など)の大動脈として利用されていました。

 これが、『銀の馬車道』(正式名称:生野鉱山寮馬車道)です。
1895年(明治28年)に播但鉄道(現在のJR播但線)が飾磨-生野間で開通したため、物資輸送の主力は鉄道に取って代わられ、馬車道としては1921年(大正9年)に廃止となったが、その後も道路として利用された。現在でも国道312号などの一部に当時の面影を残しています。

(因みに、鉱石は選鉱/製錬された後、最終的に精練されてインゴットになりますが、生野では銀・錫を精練していましたが、金・銅は香川県の直島精練所へ、そして亜鉛は秋田県の秋田精練所に飾磨港から輸送して精練されていたようです)


 一方、神子畑と生野の間は銀鉱石などを馬車鉄道で運搬していましたが、明治18年(1885年)に神子畑や羽渕の鋳鉄橋なども整備され、近代的な道路となりました。

 更に、神子畑と明延の間は、当初は牛車に拠る運搬だったのが、昭和4年(1929)にトンネルの開通と共に明延〜神子畑間(約6km)をつなぐ「明神電車線」による鉱石の大量運搬が可能となり、神子畑の選鉱場としての位置付けが確立しました。
また、この明神電車線は勿論鉱石の運搬が主目的なのですが、これに小さいながらも1両の客車を繋いで、鉱山従業員や家族が利用できました。この運賃が1円だったので、『1円電車』という愛称で呼ばれるようになりました。

 更に、少し離れた中瀬鉱山で選鉱/分離された金も、同様に生野/飾磨港を経由して香川県の直島に運ばれたようです
これらの、生野から神子畑・明延・中瀬を結ぶ地域が、『鉱石の道』と呼ばれているのです。


 以上、簡単に見てきましたが、この銀の馬車道/ 鉱石の道の概略がお判りいただけたでしょうか。
いずれも少し前まで、日本の産業を支えていた施設で、閉鎖されたとはいえ、まだ鉱山の一部は現場を見ることが出来ますし、神子畑精練場跡は「日本のマチュペチ」と呼ばれる威容を保っている非常に興味のある日本遺産です。


 今回のツアーでは、この内の「鉱石の道」の一部を見ただけでしたが、もし時間と体力があればまだ少し面影が残っているらしい「銀の馬車道」にも挑戦してみたいと思っています。(まさ)