7月14日の毎日新聞の「時代の風」と言うコラムで、長谷川眞理子氏(総合研究大学院学長)が『暗黙知の軽視』というタイトルで寄稿されていました。
その内容は何となく共鳴できる部分が多いように思うのですが、悲しい事に浅学の私はこの「暗黙知」という言葉を知らなかったので、直ぐには長谷川氏の言われていることが正確に掴めず、先ずはこの「暗黙知」という言葉の意味を知ることから始めました。
暗黙知(あんもくち、英: Tacit knowledge)とは、ハンガリー出身のマイケル・ポランニー(或いはポラニー)が命名した概念です。
WIKIPEDIAに拠れば、“経験的に使っている知識だが簡単に言葉で説明できない知識”のことで、経験知ともいい、これに対するのは、言葉で説明できる形式知とあります。
またコトバンクに拠ると、“暗黙知とは経験や勘に基づく知識のことで、個人はこれを言葉にされていない状態でもっている。個人がもつ知識には、言葉で表現できる部分と、言葉で表現できない部分とがあり、前者よりも後者のほうが多くを占めている”とあり、更にこの後者が暗黙知であるとしています。
要するに、 “言葉にすることができない(経験や勘に基づく)知識”が、暗黙知だということです。
これで一つ腑に落ちました。
現在の政治の在り方や世の中の動きに対して、特に下記の様なことに対して何となくモヤモヤ感を感じていたのですが、
・自分の考えとは違う事は判っていても、それが旨く説明できないことがあったり・・・
・何事も数字を交えながら一見理論立っているように、整然と話す人にどこか違和感を感じたり・・・
これらは、全てを形式知で表すことへの違和感だったのでしょう。
私自身も、今までは暗黙知と形式知を区別せずに、思っている全てを(言葉にすることができないものも)相手に伝えるべく、何とか言葉で説明しようとしていて、それが出来なくてイライラしていたのかも知れません。
これからは、「言葉で説明することが出来ない知識」もあるという自覚で、すこし気が楽になることになるかも知れませんが、逆に相手にもこのような事情があることを常に考えておくことが大事になってくるでしょう。
ということで、元に戻りますが、新聞のこのコラムで長谷川氏が伝えようとされていたのは、
・かっての日本には、思想としての「自然との共存」というような特別な言葉はなかったが、日本の文化は自然と人間を一体として捉え、自然と共存を図るのが当然だと考えていた。
それにより、物を大切にしたり、他の人や生き物を尊重したり、更に「おてんとう様に顔向けできない」ような行いをしないように自分の規律や基準を大切にしてきた。
・しかし、資本主義経済の浸透と共に、「金額」という一次元的な尺度が前面に出てくると共に、明示的な数値での目標があたかも“客観的”かのように扱われて、価値判断の基準となった。
・人間にとって意味を持つ全ての現象の全てを科学に基づいた測定するのが難しいのであるから、いくら測定可能なものを数値化してもそれが完全な指標になるはずはなく、最終的には人間が判断することが必要。
というような内容でした。(私の理解が間違っていたらスミマセン)
確かに、政策や目標として提出される色々な数値はある意味で判り易い指標かも知れませんが、その数字はあくまで少しでも判り易くするための手段で絶対的なものではないでしょう。
我々の生活の安全性が如何にすれば実現/継続されるかという事を基本に考えて、上辺の数字だけでなくて人類の経験に基づいた暗黙知を軽んじないことが大切だということでしょう。(まさ)
その内容は何となく共鳴できる部分が多いように思うのですが、悲しい事に浅学の私はこの「暗黙知」という言葉を知らなかったので、直ぐには長谷川氏の言われていることが正確に掴めず、先ずはこの「暗黙知」という言葉の意味を知ることから始めました。
暗黙知(あんもくち、英: Tacit knowledge)とは、ハンガリー出身のマイケル・ポランニー(或いはポラニー)が命名した概念です。
WIKIPEDIAに拠れば、“経験的に使っている知識だが簡単に言葉で説明できない知識”のことで、経験知ともいい、これに対するのは、言葉で説明できる形式知とあります。
またコトバンクに拠ると、“暗黙知とは経験や勘に基づく知識のことで、個人はこれを言葉にされていない状態でもっている。個人がもつ知識には、言葉で表現できる部分と、言葉で表現できない部分とがあり、前者よりも後者のほうが多くを占めている”とあり、更にこの後者が暗黙知であるとしています。
要するに、 “言葉にすることができない(経験や勘に基づく)知識”が、暗黙知だということです。
これで一つ腑に落ちました。
現在の政治の在り方や世の中の動きに対して、特に下記の様なことに対して何となくモヤモヤ感を感じていたのですが、
・自分の考えとは違う事は判っていても、それが旨く説明できないことがあったり・・・
・何事も数字を交えながら一見理論立っているように、整然と話す人にどこか違和感を感じたり・・・
これらは、全てを形式知で表すことへの違和感だったのでしょう。
私自身も、今までは暗黙知と形式知を区別せずに、思っている全てを(言葉にすることができないものも)相手に伝えるべく、何とか言葉で説明しようとしていて、それが出来なくてイライラしていたのかも知れません。
これからは、「言葉で説明することが出来ない知識」もあるという自覚で、すこし気が楽になることになるかも知れませんが、逆に相手にもこのような事情があることを常に考えておくことが大事になってくるでしょう。
ということで、元に戻りますが、新聞のこのコラムで長谷川氏が伝えようとされていたのは、
・かっての日本には、思想としての「自然との共存」というような特別な言葉はなかったが、日本の文化は自然と人間を一体として捉え、自然と共存を図るのが当然だと考えていた。
それにより、物を大切にしたり、他の人や生き物を尊重したり、更に「おてんとう様に顔向けできない」ような行いをしないように自分の規律や基準を大切にしてきた。
・しかし、資本主義経済の浸透と共に、「金額」という一次元的な尺度が前面に出てくると共に、明示的な数値での目標があたかも“客観的”かのように扱われて、価値判断の基準となった。
・人間にとって意味を持つ全ての現象の全てを科学に基づいた測定するのが難しいのであるから、いくら測定可能なものを数値化してもそれが完全な指標になるはずはなく、最終的には人間が判断することが必要。
というような内容でした。(私の理解が間違っていたらスミマセン)
確かに、政策や目標として提出される色々な数値はある意味で判り易い指標かも知れませんが、その数字はあくまで少しでも判り易くするための手段で絶対的なものではないでしょう。
我々の生活の安全性が如何にすれば実現/継続されるかという事を基本に考えて、上辺の数字だけでなくて人類の経験に基づいた暗黙知を軽んじないことが大切だということでしょう。(まさ)