6月20日のこのブログで触れました、先日亡くなったアルゼンチンの親友北山朝徳(きたやま とものり)君(元、TOSHI代表で、JFAの国際委員)は、まだお元気だった頃に『人間の行動学』とのタイトルで自分の失敗経験談や、Chistesと言うアルゼンチンの男性が楽しむ小噺というかジョークの様なものを定期的に送ってくれていました。
本当は物哀しい話が、彼の広島弁の文章になると、余計に臨場感が感じられると共に、滑稽さと哀しみが増し、更に彼のおおらかな人間性が溢れる内容で、いつも楽しみにしていました。
私がこのブログを始めた時に、何時かこのブログで紹介したい旨を申し出た所、快諾してくれましたが、まさかそれが実現するまでに彼が無くなってしまうとは…
我が家のベランダのハカランダ(ジャカランダのスペイン語読み)も彼を偲ぶように最後の花を散らせましたので、今後機会を見ながら少しずつ紹介したいと思います。
(判り易いようにタイトル名を付けたり、段落やテニオハなどは一部手直ししましたが、原文は殆ど弄っていませんので、北山君の遺稿として紹介します)
先ずは、彼が出会った最初の詐欺事件の様子です。
毎日(日によっては1日の間に2~3度も…)物価表示が変わるようなハイパーインフレに見舞われていた激動期のアルゼンチンの様子や、その中で何とか自力で生き抜こうとする逞しい若人の様子が良く判ります。
尚、文中の(※)の欄は私の注釈です(まさ)
<闇ドル交換屋の意識が抜け切れていなかったんが、間違いの基>
トーシンを立ち上げることになったんは、1976年3月24日に発生した軍事革命が切っ掛けになりました。1973年に亡命先から帰国したペロンが、大統領になったけど年齢もあって死去、これを引き継いだペロン党のオナゴ大統領一派が、国の経済を混乱、混濁に陥れておったのと、極左翼のテロ活動が活発になったことが、三軍の革命の引き金になった訳です。この軍事革命は、何かの変化を感じさせてくれたんですが、当時の細かい状況は、省略です。
1975年の1月から無職、失業者になっていて、思いついた仕事は当時、ペソ貨対ドルレートに公定と並行(即ち、闇)レートの差があることを利用して、そのサヤを稼ぐ『ヤミ・ドル交換屋』でした。
邦字新聞二紙に「カンビオ(※ Cambio=両替)承ります XXX-AAAA」とだけ広告し、アパートの電話一本で商売開始でした。
猛烈なインフレで、午前と午後に商店の値段があがるとともに、ドル・レートも連動してペソ安一方。夕方には、ペソ貨を全てドルにして明日を待つ・・・ドル紙幣を売ってペソ紙幣を必要とする人、ドルを買って貯めてゆく人が、バランスよくおりましたね~、数少ない日本人社会だったんですけど。
その年、二回も日本往復したんは、インフレとその闇ドル交換屋商売があったからですが、職業欄にゃ、「闇ドル交換屋」は無いので、失業者だったことに変わりなかったんです。
日本に戻った時、大学の同輩から「失業者でありながら、二回も日本に来るんじゃから、何か悪ドイことをやっとるはず!」といわれたことを忘れません。需要側と供給側の二ヵ所に通って、喜んでいただくまっとうなビジネスじゃと思うとったんですが・・・
今はもう、名前が変わった商社の方に利用していただいて通う内、応接間に通してもらい「カフェ」をご馳走になりながら「お前はの~、未だ若いんじゃから、闇という言葉の職業は早く止めてマトモな仕事をするべきぞ。闇の付く商売やっとるもんに、商社の仕事を委託する訳にゃゆかんのが、日本の会社なんじゃよ、」と、いつも諭されておったことも忘れません。
そうこうして一年数ヶ月後の1976年3月24日に、軍事革命が起こって軍政になったんですが、この革命に何かの変化を感じて、会社を立ち上げることになりました。友人の中に弁護士、会計士がおりまして会社の設立を相談、同時に友人からアパートを借りて、そこをオフィスにして仕事を探すことから開始、闇ドル交換屋を廃業、失業者から経営者に転進しました。トーシン株式会社を立ち上げたものの、仕事を探すことが毎日の業務・・・
在ア日本商工会議所に通って、日本の会社住所録を調べて日々、そこにせっせと会社紹介の手紙を郵送することが業務でした。その反応と前述の商社の恩人からいただいた業務委託のことなどは省略。
会社登記が終って2ヶ月くらい経った時、オフィスに元空手の生徒が訪ねてきて「南米の某国の大使館の人が、ドル札をペソ貨に交換したいので、協力してやってくれんですか? サヤは相当取ってもエエ~くらい、急いでおるのですが・・・」と。
闇ドル交換屋は廃業してまっとうな仕事をする会社組織にしたものの・・・
一緒に会社を立ち上げた人、「どうする、これを最後にして少し儲けるんは?会社ちゅうても全く金の入る見込みはありゃ~へんし・・・」
結局、受けましたね、ドル小切手の換金を。10.000ドルと15.000ドルの小切手二枚を、旧知のドル換金屋に頼んでペソ貨を受けとって、その元生徒に・・・
一ヶ月後に、換金屋から「口座は、閉まっておったドル小切手だったよ」と。そうです、その小切手は、盗まれた小切手で、口座は閉められておったんです。目の前が真っ暗になったんは当然です・・・
2.000ドルのサヤどころか、25.000ドルをドル換金屋に返済せにゃならんハメになりました。
闇ドル交換業で貯めといた金で、半年から一年くらいは、仕事無しでも会社を続けられると思っていたけど、これでパ~となりました。
そしてトーシンの最初のビジネスは、口座の無いドル札を掴まされた詐欺に遭遇で損失;25.000ドルから開始となりました。
結論;他人のドル小切手、特に知らない人の換金にゃ、関知せんことです。世の中には、ニセ物(詐欺を目的)が、罷り通っておることを忘れちゃ~ならんですわい。
本当は物哀しい話が、彼の広島弁の文章になると、余計に臨場感が感じられると共に、滑稽さと哀しみが増し、更に彼のおおらかな人間性が溢れる内容で、いつも楽しみにしていました。
私がこのブログを始めた時に、何時かこのブログで紹介したい旨を申し出た所、快諾してくれましたが、まさかそれが実現するまでに彼が無くなってしまうとは…
我が家のベランダのハカランダ(ジャカランダのスペイン語読み)も彼を偲ぶように最後の花を散らせましたので、今後機会を見ながら少しずつ紹介したいと思います。
(判り易いようにタイトル名を付けたり、段落やテニオハなどは一部手直ししましたが、原文は殆ど弄っていませんので、北山君の遺稿として紹介します)
先ずは、彼が出会った最初の詐欺事件の様子です。
毎日(日によっては1日の間に2~3度も…)物価表示が変わるようなハイパーインフレに見舞われていた激動期のアルゼンチンの様子や、その中で何とか自力で生き抜こうとする逞しい若人の様子が良く判ります。
尚、文中の(※)の欄は私の注釈です(まさ)
<闇ドル交換屋の意識が抜け切れていなかったんが、間違いの基>
トーシンを立ち上げることになったんは、1976年3月24日に発生した軍事革命が切っ掛けになりました。1973年に亡命先から帰国したペロンが、大統領になったけど年齢もあって死去、これを引き継いだペロン党のオナゴ大統領一派が、国の経済を混乱、混濁に陥れておったのと、極左翼のテロ活動が活発になったことが、三軍の革命の引き金になった訳です。この軍事革命は、何かの変化を感じさせてくれたんですが、当時の細かい状況は、省略です。
1975年の1月から無職、失業者になっていて、思いついた仕事は当時、ペソ貨対ドルレートに公定と並行(即ち、闇)レートの差があることを利用して、そのサヤを稼ぐ『ヤミ・ドル交換屋』でした。
邦字新聞二紙に「カンビオ(※ Cambio=両替)承ります XXX-AAAA」とだけ広告し、アパートの電話一本で商売開始でした。
猛烈なインフレで、午前と午後に商店の値段があがるとともに、ドル・レートも連動してペソ安一方。夕方には、ペソ貨を全てドルにして明日を待つ・・・ドル紙幣を売ってペソ紙幣を必要とする人、ドルを買って貯めてゆく人が、バランスよくおりましたね~、数少ない日本人社会だったんですけど。
その年、二回も日本往復したんは、インフレとその闇ドル交換屋商売があったからですが、職業欄にゃ、「闇ドル交換屋」は無いので、失業者だったことに変わりなかったんです。
日本に戻った時、大学の同輩から「失業者でありながら、二回も日本に来るんじゃから、何か悪ドイことをやっとるはず!」といわれたことを忘れません。需要側と供給側の二ヵ所に通って、喜んでいただくまっとうなビジネスじゃと思うとったんですが・・・
今はもう、名前が変わった商社の方に利用していただいて通う内、応接間に通してもらい「カフェ」をご馳走になりながら「お前はの~、未だ若いんじゃから、闇という言葉の職業は早く止めてマトモな仕事をするべきぞ。闇の付く商売やっとるもんに、商社の仕事を委託する訳にゃゆかんのが、日本の会社なんじゃよ、」と、いつも諭されておったことも忘れません。
そうこうして一年数ヶ月後の1976年3月24日に、軍事革命が起こって軍政になったんですが、この革命に何かの変化を感じて、会社を立ち上げることになりました。友人の中に弁護士、会計士がおりまして会社の設立を相談、同時に友人からアパートを借りて、そこをオフィスにして仕事を探すことから開始、闇ドル交換屋を廃業、失業者から経営者に転進しました。トーシン株式会社を立ち上げたものの、仕事を探すことが毎日の業務・・・
在ア日本商工会議所に通って、日本の会社住所録を調べて日々、そこにせっせと会社紹介の手紙を郵送することが業務でした。その反応と前述の商社の恩人からいただいた業務委託のことなどは省略。
会社登記が終って2ヶ月くらい経った時、オフィスに元空手の生徒が訪ねてきて「南米の某国の大使館の人が、ドル札をペソ貨に交換したいので、協力してやってくれんですか? サヤは相当取ってもエエ~くらい、急いでおるのですが・・・」と。
闇ドル交換屋は廃業してまっとうな仕事をする会社組織にしたものの・・・
一緒に会社を立ち上げた人、「どうする、これを最後にして少し儲けるんは?会社ちゅうても全く金の入る見込みはありゃ~へんし・・・」
結局、受けましたね、ドル小切手の換金を。10.000ドルと15.000ドルの小切手二枚を、旧知のドル換金屋に頼んでペソ貨を受けとって、その元生徒に・・・
一ヶ月後に、換金屋から「口座は、閉まっておったドル小切手だったよ」と。そうです、その小切手は、盗まれた小切手で、口座は閉められておったんです。目の前が真っ暗になったんは当然です・・・
2.000ドルのサヤどころか、25.000ドルをドル換金屋に返済せにゃならんハメになりました。
闇ドル交換業で貯めといた金で、半年から一年くらいは、仕事無しでも会社を続けられると思っていたけど、これでパ~となりました。
そしてトーシンの最初のビジネスは、口座の無いドル札を掴まされた詐欺に遭遇で損失;25.000ドルから開始となりました。
結論;他人のドル小切手、特に知らない人の換金にゃ、関知せんことです。世の中には、ニセ物(詐欺を目的)が、罷り通っておることを忘れちゃ~ならんですわい。