老いの途中で・・・

人生という“旅”は自分でゴールを設定できない旅。
“老い”を身近に感じつつ、近況や色々な思いを記します。

沖縄辺野古問題と、“寄り添う”について 

2018年12月19日 21時17分20秒 | その他
 沖縄の辺野古の埋め立ては地元の反対を無視して、強引に進められていますが、この経過を見るたびに日本政府の政治姿勢を疑問に思わざるを得ません。

 市街地にあり今までも何度となく墜落事故などを引き起こしている普天間基地の撤去は当然のことですが、これを実現するために辺野古に米軍の飛行場を作ることが何故に“唯一の方法”なのでしょう。
この点が、沖縄県民が一番疑問に思っていることでしょう。

 沖縄県民は、戦争中は国内では唯一の戦場となって多くの一般住民が直接の被害を受けただけでなく、終戦後も沖縄だけは日本の施政権が及ばない占領地として苦しんだ挙句に日本に復帰し、“これでやっと、日本の本土並みの扱いを受けられる”と思ったのも束の間で、今度は日本政府から基地負担の重荷を継続して押し付けられているのが今までの経過でしょう。

 この問題は、よくよく考えると、沖縄県民に対する物凄いまでの仕打ちで、仮に私がその立場にいるとすれば、“良く判った、もうええは…、私は日本から離れる”と言いたくなるような気持になってもおかしくないと思います。
それでも、沖縄の人達は我慢強く、選挙などを通じて日本政府に沖縄の民意を訴え続けているのでしょう。

 それに対して、我が国の行政の最高責任者が取っている態度は余りにも見苦しく恥ずかしい限りです。
最高責任者は公の場で、“沖縄に寄り添う”と確かに言われましたが、その後具体的には何をされたのでしょうか。

 確かにアリバイ証明の如く、沖縄県知事と2度ほどは会われたようですが、その中で本当に沖縄に寄り添うようなことがあったとはとても思えません。

 “寄り添う”という非常に重い言葉をまるで儀式での挨拶のように平然と使われましたが、本当に“寄り添う”ということがどういうことなのか考えられたことがあるのでしょうか。

 私も、言葉や国語の専門家ではありませんが、少なくとも“寄り添う”というような相手との関係の在り方と、その後の自分の行動が問われる言葉については、言葉を大事にする日本人としてもっと吟味して慎重な使い方をすべきではないかとおもいます。


私なりに、“寄り添う”という言葉について考えてみますと、

◆辞書などで「寄り添う」を見ると、簡単に「そばに寄る」というような事が書いてありますが、“そっとそばで相手にそって一緒にいる”ような物理的なことだけでなく、精神的な意味で使用される事もとても多い言葉です。(この国で一番忙しい立場にある人としては、物理的に寄り添うのは難しいでしょうから、精神的な意味での「寄り添う」という意味で発言されたのだと思います)

◆精神的な“寄り添う”については、特にどのようなことなのかという定義はないのでしょうが、私なりに“寄り添う”という事を考えてみますと、“相手の気持を汲んで、色々な行動や発言をしようとする”ということで、単に精神的な理解だけでなく、ある程度の行動までをも含めた範疇の言葉ではないかと思います。

◆従って、先ず“相手の気持を汲む”ことが絶対に必要なことで、これを可能にするためには、相手の心を想像できるかどうか、という事になるでしょう
相手が全てのことを的確に言えるとは限りませんし、言えていない部分も想像して相手の心を汲むためには想像力が必要でしょう。

 ・この想像力というものがどこから出てくるかと言えば、広い知識に裏付けされた、相手の心に共感できる感受性や価値観に対する柔軟性ということではないでしょうか。

 ・即ち、本当の意味で相手の気持を汲むためには、自分の考えや価値観に固執せずに、多様な価値観を認めて、相手の価値観を理解することが必要なのでしょう。
要するに、相手を全く対等な立場だと認めない以上は、“相手の気持を汲む”ことなどは出来ないでしょう。

 ・更に、寄り添われる立場の人にとっては、いくら相手が寄り添うような姿勢を見せたとしても、この人が“安心して任せられるような信頼できる人かどうか”というのが大きな問題で、これがなけれが“寄り添う”或いは“寄り添われる”という関係が成り立たないのは明白ですし、上から目線の言葉に対しては逆に反発を感じるでしょう。

 要するに信頼感のない所では成り立たない話であり、“その件は話すつもりがない”のに「真摯に向き合い、丁寧な説明をする」というような発言をする人が、いくら「沖縄に寄り添う」と言っても誰も信頼も期待もしていなかったといえるでしょう。

“色々な行動や発言をしようとする”ことについては、何も直ちに全ての行動をすることを意味しませんが、少なくとも下記のことが必要でしょう。
・“相手の気持が汲めた”ことの内容確認。
・その相手が望んでいることに添う為には、現在どのような問題があるのか、またその障害となるものについてはどのように対応/克服して行くかなど、解決すべき方向の確認。
・それに到るまでの手順と、相互ですべき作業の確認。
要するに、相手との一体感や共感の共有だと思います。


 以上、非常に拘った内容になりましたが、このようなことを書き込んだ理由としては、私の個人的な体験が大きく影響しているからでしょう。

★先ずは、私と沖縄との関わりですが
 私の仕事の関係ですが、初めて沖縄に行ったのは46年前となる1972年の6月上旬でした。丁度少し前の5月15日に日本に返還されたばかりで、島内はまだ高揚した気分が残っている中でしたが、食事をしながら仕事の相手先の社長が言われた「今まで日本人かどうか判らなかったが、これでやっと本土並みの日本人の仲間入りができた。今後は胸を張って日本の発展のために一緒に尽しましょう」と明るく言われた言葉が未だに私の中に残っているからです。

★もう一つの理由は、目下の私が“寄り添う”ことの内容を問われているからです。
 前にも書き込んだように、ツレアイがアルツハイマーになり徐々に認知症が進んでいますが、老夫婦だけの生活の中では、私のツレアイへのカバーが必然的に増えています。

 そんな中で、如何に夫婦とは言っても価値観や立場が違う(カバーする方とされる方)部分はあり、その上ツレアイの記憶力が徐々に衰えているのを目の前にすると、ダメだと思ってもつい強い言葉で対応してしまう事があります。
一方、ツレアイは自分なりに記憶力の衰えや、家事が出来ないことに対する苛立ちがあり、時には私の言動に対して強い反発を示すことも多々あります。

 幸いにも、このような反発状態は直ぐに収まるのですが、それはツレアイが現在頼りに出来るのは私しかいないという状況(別の言い方をすれば、弱者と強者?)に由来するのかも知れません。

 できるだけ、相手を対等な立場の人間として冷静に対応している積りでも、立場上どうしても上から目線の対応になっていることがあることは否定できず、“完全にツレアイに寄り添っている”という状態にはまだまだ遠い事を毎日のように実感していて、“寄り添う事の難しさ”を痛感していることにも拠るでしょう。(まさ)