老いの途中で・・・

人生という“旅”は自分でゴールを設定できない旅。
“老い”を身近に感じつつ、近況や色々な思いを記します。

京都市内のお寺詣り その② ~行願寺(皮堂)と頂宝寺(六角堂)~

2018年12月13日 20時08分31秒 | 旅行/色々な風景
 清水寺に参拝後は、沢山の人に揉まれるようにして三年(産寧)坂、二年坂、ねねの道を経由して八坂神社から四条に出てから、遅まきの昼食を摂りました。

 何を食べるか迷ったのですが、表通りから少し入った中華料理店で五目焼きそばとなりました。この日は車もないので、ビールが飲めたためかも知れませんが、結構美味しい昼ごはんでした。

 その後は、京阪電車で四条から神宮丸太町に出て、本日の後半の部とでも言うべき街の中にある行願寺と頂宝寺を回ると共に、途中であちこちと回り道をしながら今まで見たこともない京都の風景を楽しみました。

<行願寺(ぎょうがんじ)、別名:皮堂(こうどう)>

 天台宗の寺院山号は霊麀山(れいゆうざん)。本尊は千手観音。通称革堂(こうどう)と呼ばれ、西国三十三カ所観音霊場の第19番札所になっています。

 寺伝によれば、行願寺は寛弘元年(1004年)に行円が一条小川の一条北辺堂跡(京都御苑の西側)に創建したようです。
行円は仏門に入る前は狩猟を業としていたが、ある時、山で身ごもった雌鹿を射たところ、その腹から子鹿の誕生するのを見、殺生の非を悟って仏門に入ったという。行円はその鹿の皮を常に身につけていたことから、皮聖、皮聖人などと呼ばれ、寺の名も革堂と呼ばれたということです。

 寺は豊臣秀吉による都市計画のため、天正18年(1590年)に寺町荒神口(現・上京区、京都御苑東側)に移転。宝永5年(1708年)の大火の後、寺町荒神口の旧地からやや南に下がった現在地に移転しようです。

 本当に街中にあるこじんまりした寺院ですが、歴史の重みは感じられました。


<頂法寺(ちょうほうじ)、別名:六角堂>

 賑やかな烏丸通から入って直ぐの所にある寺院で、六角堂という別名の方が有名です。
正式の寺号は頂法寺(山号を冠して紫雲山頂法寺)といい、天台宗系単立の寺院で、山号は紫雲山西国三十三所観音霊場第18番札所です。

 本堂が平面六角形であることから、一般には「六角堂」の通称で有名ですが、華道、池坊の発祥の地としても知られています。

 創建については、縁起類では飛鳥時代とされていますが、実際の創建は10世紀後半頃と推定されています。
六角堂が史料に現れるのは11世紀初めからであり、既に平安時代後期には観音霊場として著名であったようです。

 寺地が下京の中心であったことから、特に応仁の乱の後からこの寺は町堂として町衆の生活文化や自治活動の中核となる役割を果たしたが、天治2年(1125年)の火災をはじめ、江戸時代末までの間に確認できるだけで18回の災害にあったが、庶民の信仰を集める寺であり、また町組の中核となる寺としてその都度復興されてきた。現在の本堂は、明治10年(1877年)に再建されたようです。

 この寺の本堂である六角堂は寺内塔頭で、頂法寺の本坊にあたる池坊が執行として代々経営・管理に当たってきた。聖徳太子の命により小野妹子が入道し仏前に花を供えたことが華道の由来とされ、その寺坊が池のほとりにあったことから「池坊」と呼ばれているようです。また、池坊の僧は頂法寺の住持として本尊の如意輪観音に花を供えることとなっています。

 また、この寺院には16羅漢や数多くの地蔵さんもあり、繁華街に近いのに非常に心が安らぐ場所ですが、この日もお稽古帰りと思われる生け花材料を手にした女性の方が沢山お参りされていました。


 参拝を終えた後は、頂宝寺から直ぐ近くにある有名な錦市場を通って、四条河原町から阪急電車で帰阪しました。
錦市場は沢山の中国人と思われるインバウンドで溢れていて大混雑でしたが、清水寺の近くでも同じでしたが食べながら歩く人が多くて少し閉口しました。

 日が短い時期なので、大阪に着くともう暗くなっていましたが、阪急の淡路駅で乗り換えると、自転車を置いていた天神橋六丁目駅までそのまま阪急電車で行けるので、本当に便利な京都行きでした。(まさ)

<行願寺(革堂)>

通りに面した門

本堂

同上

境内にある七福神像

<頂法寺(六角堂)>

山門

本堂

本堂の屋根

本堂の扁額

本堂内

同上。華道発祥の地

十六羅漢

地蔵たち

同上 アップ