東京里山農業日誌

東京郊外で仕事のかたわら稲作畑作などをしていましたが、2012年4月に故郷の山口県に拠点を移して同活動をしています。

山口県へ帰省、平生街内を散策

2011年08月19日 | ふるさと

 耕作放棄された田んぼを見終わると、平生街内を散策しました。この街は、私が幼児の頃に生活していたためとても懐かしい街です。しかしながら、街は昔のように賑やかさは今はもうありません。約50年ほど前、私が幼児の頃にあった建物がどうなってるか確かめる意味で散策してみました。

     平生座のあった賑やかな通り          幼稚園があった真覚寺
 

 一番良く覚えているのは、平生座です。テレビがまだ普及していない頃、よく映画が上映されたり芝居が公演されていました。私の通っていた保育園の学芸会もありました。学芸会で、私は主役の「一休さん」を演技した事を覚えていますし、そのときの演技の動作を今でも覚えています。「ブリキの兵隊さ」んや「楽しいピエロ」なども演技しました。今は亡き祖父祖母が、私が「ブリキの兵隊さん」で使う背負い銃や衣服を作ってくれました。私は保育園に通っていましたが、街内には幼稚園が真覚寺内にありました。

              夏祭りの時に灯篭流しが行われていた平生街内を流れる川


 平生座跡を過ぎると、平生街内を流れる川に行ってみました。確か「大内川」とか呼ばれていたような。その川の一番のイベントは、夏祭りの花火大会時に灯篭流しが行われることです。川の流れに沿ってたくさんの灯篭が列になった流れ下る様は、子供の私にとっては荘厳でした。今回その川に行ってみると、すっかり川岸に雑草が生えていました。今、灯篭流しは行われているのでしょうか。

     更地になっていた洋装店通り       高校に頃まで通った本屋さんの跡
 

 平生街内で一番賑やかだったのは、中心部の洋装店や布団店が並んでいた通りでした。子供の頃、洋装の服がたくさん並んでいるのを見るのは楽しかったものです。しかし、今は更地になっていました。その近くには本屋さんがありました。高校生の頃まで本を買いに行っていました。

                 私が幼児の頃に通っていた保育園の跡


 次に私が幼児の頃に通っていた平生保育園跡に行ってみました。今は小さな広場になっていました。当時、この保育園の向かい側には習生中学校の白い木造校舎もありました。しかし、今は別の建物が立っています。保育園も、小学校も、中学校もみんな移転してしまって昔の名残は全くありません。

     お世話になった向井医院               平生街内を流れる大内川
 

 昔の面影を残す建物はほとんど残っていませんが、私が幼児の頃にお世話になった向井医院は昔と同じ場所にありました。当時のドクターの子孫が医院を続けているのでしょう。昔は洋式のハイカラな平屋でしたが、今はビルのようになっていました。
 この向井医院から1Km程度柳井市側に町立平生病院がありました。川のそばにあったこの病院はその後、周東病院に統合されたようです。今は跡形もありません。私の祖母が入院していた頃、私は小学生でしたが妹といっしょにお見舞いに行ったことがあります。また、私が小学6年生の時に灯篭が倒れ掛かって大怪我をした時にお世話になりました。
 次に大内川に沿って下り、平生街内を散策しました。この川の南側には大きな酒蔵がありました。数年前まではその廃墟がありましたが、今は更地になり何もありませんでした。この街ではもうお酒は造っていないのでしょう。続いて、平生湾がよく見下ろせた野島神社に行ってみました。私が幼児だった50年位前、この神社がある丘のいただきから平生湾内の海岸線が見えたのですが、今は工場に邪魔をされて見えません。この野島は、1500年ほど前の古代には小さな島だったとのこと。

             小さな頂のふもとにある野島神社の鳥居

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