ちょっとマンネリですが・・・

ダラダラ過ごしている毎日のことあれこれ・・・・

たった一人の孤独な熱狂から始まる・・・

2012年10月16日 | Weblog
「人は自分が期待するほど、自分を見ていてはくれないが、がっかりするほど見ていなくはない」見城徹・藤田晋著より。

このフレーズの前には「すべての新しいもの、美しいもの、素晴らしいものは、・・・」となっていた。この言葉を残したのは、テレビマンユニオンを創立した萩元晴彦さんだった。

そして見城氏はこの言葉に強い共感をおぼえたという。孤独な熱狂とは、一人で面白いと感じて熱くなることだろう。そんな対象を見つけられた人は幸せに違いない。

起業家などは、その例だろう。まずはやるべき仕事に熱くならなければ、前には進まない。しかも、大事なのはそれを長く継続することだ。

見城氏は熱狂できることを仕事に選ぶべきだというが、それができれば幸いとも思える。たとえはじめの給料がよかったり、安定している大企業だという理由で勤め先を選ぶのは馬鹿げているという。

藤田氏は、その人が心の底からそのアイデアに熱狂しているとしたら、とんでもない価値を生み出す可能性があると語っていた。これは氏の成功体験が語らせる言葉でもあるのだろう。

実はそのアイデアを実現させるまで熱狂し続けることができるかどうかが、ポイントなような気もするが。困難も越えられるという強い自信をもてるかどうか。


身を切らなければ、本当の成長などあり得ない。

2012年10月15日 | Weblog

「人は自分が期待するほど、自分を見ていてはくれないが、がっかりするほど見ていなくはない」見城徹・藤田晋著より。

はじめここにある「身」を「身銭」だと思いこんでいたが、身銭は使ってこそ身につくものも多いと思った次第。時間もお金も有効に使わなければ、得るものは少ないのだろう。

ところで、見城氏は講演会、養成講座、人材交流会は、人をダメにする三悪だとも言っていた。それこそ金と時間の無駄らしい。そこで何かを得られたと思うのは自分が浅い証拠だともいう。

それらは誤解や自己満足でなりたっているという考えはかなり極端で刺激的だ。しかも、講演を聞いて自分の人生を変えようと思うなど他力本願もはなはだしいと手厳しい。自己啓発などを読んでも同じことかな。

いろいろな養成講座なども小手先のテクニックを習うようなもので意味がないという。むしろ身を切ってこそ本物実力は身につくものだろう。それは何かにぶつかり思考錯誤しながら、自分流のものをつかみとるようなことかもしれないな。


結局、人と差がつくのは、努力の質と量である。

2012年10月14日 | Weblog
「人は自分が期待するほど、自分を見ていてはくれないが、がっかりするほど見ていなくはない」見城徹・藤田晋著より。

こう語るのは見城氏だが、しかも日曜日は大嫌いだという。朝起きて、日曜だとがっかりするともいう。さらに、「今日は会社に行けないのだ」と思うと悲しくなってしまうそうだ。

実に意外な考え方の人だとも思える。普通なら日曜あるいは休日なら仕事から解放されると思うものだ。ところが、氏は仕事をすることこそが苦痛からの解放だと感じていた。

こういう考えは氏自身も特殊だとわかっているようだが、成功するためには、日曜日を楽しみにしているようではダメだと思っていた。

藤田氏も、仕事の始まる月曜日が憂うつになったことは一度もないという。別に日曜日が嫌いというわけでもないようだが、365日仕事に夢中になっているという。

仕事が何よりの趣味だと言えるのは強いと感じる。自身もこんなに幸せなことはないと思っている。仕事と趣味の境目がないというのもすごいことだな。



朝の時間の過ごし方が、その日のよしあしを決定づけるといっても過言ではない。

2012年10月13日 | Weblog
朝の時間の過ごし方が、その日のよしあしを決定づけるといっても過言ではない。

「人は自分が期待するほど、自分を見ていてはくれないが、がっかりするほど見ていなくはない」見城徹・藤田晋著より。

歳をとるにしたがって自然と早起きになってしまう。いつまでも寝ていられない。見城氏はどんなに前日の夜が遅くても、朝6時には目を覚ますという。

そして、出社は十時半ということから、自由時間は4時間半あることになる。早朝にはスポーツクラブへ行くこともあるらしい。それによって一日の充実感も異なるようだ。

なんとなくそれは理解できる。4時間半とはいっても、何もしなくても時間はどんどん過ぎてしまう。やはり限られた時間だからこそ、有意義に使おうという気になるのだろう。

朝とはいっても早朝と考えた方がよさそうだ。なんでもギリギリよりも余裕をもって行動する方がいい結果がのぞめるものだ。起きたばかりでは頭もぼんやりして働かない。

私もこの数年間はブログなども朝のうちに更新することにしている。書いているうちに何となく頭が働きだすようだ。何もしなければぼんやりしたままなのに。

また起きて前日の疲れを感じないときは、ラジオ体操や簡単なストレッチをしている。だるい時などは、身体を無理やり動かす気にはならない。身体を動かそうという気になるかどうかは体調のバロメーターにもなっている。

知識がなくとも、知識があるように見せかけることもできないわけではない。

2012年10月12日 | Weblog
「他人に軽く扱われない技法」内藤誼人著より。

いずれにしても教養がある人は、他人からあなどられることが少ないようだ。むしろ教養があることでトクすることがたくさんあるという。

そこで読書もあまりできなくても、ある程度は自分の知識をアピールすることもできる方法について触れらていた。その1は自分の体験談から知識を引き出すことだった。

つまり現場で身につけた知識があることを示しておけばいいのだった。または趣味にもとづく体験から知識を引き出してもいいようだ。

2番目は他人から話を聞くことだった。誰かから聞いた知識を、自分の知識にしてしまばよかった。つまり受け売りということになるが、その話が本当であることが条件だろう。

3番目はテレビの教養番組から知識を仕入れることだった。これなら本を読まなくても済んでしまう。テレビも使いようによっては情報の宝庫だったのだ。


「賛成です」も一言ですますとナメられる。

2012年10月11日 | Weblog

「他人に軽く扱われない方法」内藤誼人著より。

頭がいいと思われる人は、人にある程度の知識を見せつけられる人だという。知識も人に見せなければ意味がなく、軽く扱われてしまう恐れがあるようだ。

やはり話していても、知識や専門的な分野に詳しければ、バカにされることはないだろう。会議でも単に「賛成です」というだけでは、人に知識を披露できない。

「賛成です」というだけですむものでも、あえて知識を開陳した方がいいようだ。たとえば、「・・・、私も賛成なのですが、~~~の点については、どうなるのでしょうか?」などと知識を交えるのも効果があったのだ。

自分がどれほどの知識をもってるかを、いかに相手にひけらかすことができるかどうか。そこが他人に軽く扱われないコツでもあるようだ。これも練習次第かも・・・


人は、相手が語る話題によって、その人物の器をはかろうとする。

2012年10月10日 | Weblog

「他人に軽く扱われない方法」内藤誼人著より。

人と会話をする際の話題として、テレビの話題やら安っぽい芸能人のワイドショー的なネタばかりだと、その人物まで大したことがないと思われても仕方がない。

かといって、哲学や政治経済などの硬い話ばかりだけでも、人を飽きさせてしまうかもしれない。または、人に知識を自慢しているようにさえ思えてしまう。

世間話の中にも、しっかりとした自分の意見を持っていればそれなりに評価されそうだ。内藤氏は、芸能人の話から、人生観などまで展開できれば問題はないと語っている。

当然ながら、話をある程度高度なものに持っていくためには、普段から幅広い知識を仕入れておく必要があるようだ。要するに普段からネットやテレビだけの軽い話題だけではなく読書も必要らしい。


巷の大ヒットしたものの多くには、必ず「独占」というキーワードが隠れている。

2012年10月09日 | Weblog
「人は自分が期待するほど、自分を見ていてはくれないが、がっかりするほど見ていなくはない」見城徹・藤田晋著より。

一般的には独占しようと思えば、具体的には特許や著作権を設定する必要があるのだろう。しかし、それには時間も費用も膨大にかかる。

見城氏は自身がアーティストと契約を交わして、独占し大きな成果を得ることができたと語っていた。その人は、伝説のロックシンガー尾崎豊だった。

尾崎自身が書いた本はすべて、かつて角川書店で編集者をしていた見城氏だけが独占していたのだった。まだ十代だった尾崎の本はベストセラーになったという。

本人との約束事は実際に独占契約ということになって、大きな利益を生んだことになる。また作家のつかこうへいとも他社とは十五年は執筆しないという独占契約をかわしていた。

一方の藤田氏は主力事業のアメーバでは、他社とは異なる特色を出すため、「芸能人」を多くブロガーとして登録している。これも他社にはできない独占的なビジネスモデルともいえる。

同じ芸能人ブログでも他社とアメーバではアクセス数に十倍もの差があるという。今後ブログを始める芸能人はアメーバでと考えているようだ。


ビジネスは、記録や賞を目指すものではありません。

2012年10月08日 | Weblog
ビジネスは、記録や賞を目指すものではありません。

「人は自分が期待するほど、自分を見ていてはくれないが、がっかりするほど見ていなくはない」見城徹・藤田晋著より。

これは、前日触れた見城氏の文章に対して、藤田氏が述べていたことだった。確かに会社ではコンテストなどの実績で社員どうし競わせて部門としての成果を期待することもある。

そこで、トップをとったりしても、それがいつまでも連続できるとは限らない。しかも、そんな記録はきわめて一時的なもので、後まで残るものでもない。

むしろ勝ちすぎることは危険が伴うとも語っていた。とくに中身(実力)が伴っていないのに、多大な期待をかけられる場合は、プレッシャーも大きいに違いない。

藤田氏の経験では大賞を受賞したベンチャー企業家は、ほとんど消えてしまったという。これは勝ち過ぎがいかに怖いかを表わしている。

一度成功した後、生き残ることは難しい。勝ちすぎないようなバランスをとれるかどうか、そこがポイントだな。作家や歌手や芸人も一発屋というのがあるが、同様だろう。もう一度思い出しておきたい。賞や記録は一時的なものだ、と。

あえて自分で黒星を作れるかどうかが、その人の器量につながる・・・

2012年10月07日 | Weblog
あえて自分で黒星を作れるかどうかが、その人の器量につながる・・・

「人は自分が期待するほど、自分を見ていてはくれないが、がっかりするほど見ていなくはない」見城徹・藤田晋著より。

黒星、白星というとすぐに連想するのが、相撲のことだが、ビジネスでは14勝1敗や全勝をすることより、むしろ十勝五敗でずっと勝ち越すほうがうまくいくようだ。

いつでも抜群の成績で勝てるわけではない。自分ひとりの力ではどうにもならないことの方が多いかもしれない。結果的に大勝ちしたとしても、そのなかにも敗因は含まれているものらしい。

それを自覚してることが大事だったのだ。負けてもいいところでは、無理して勝とうとしないことも大切なことだった。ここで、大関魁皇のことを引き合いに出していた。

通算1047勝の大記録は、大関だったからこそ達成できたのだという。もし、横綱だったら、常にトップの成績を残さなければ引退せねばならない。

勝ちすぎることは、ある意味敗因を自分でつくることでもあるという。ビジネスも全く同様らしい。いかに長く勝ち続けることができるか。それも実に難しいことだ。本物の実力がなければ・・・な。

表現欲とは、社会で生活するすべての人が持つ欲望・・・

2012年10月06日 | Weblog

「五十歳でも老人八十歳でも青年」森村誠一著より。

この章のタイトルは「リタイア後に自分史を書く、教養を身につけ直す」となっていた。確かに現役時代は、日々の仕事に追われて自分を振り返る余裕はないかもしれない。

また、勉強や研究もしてみたかったがその時間がなかったかもしれない。しかし、リタイア後ならその時間的余裕はあるだろう。その一つとして自分史をあげていた。

森村氏はすべての人には表現欲があるという。たとえば、ブログやフェイスブック、ツイッターを書いているような人が多いことからもそれはうかがえる。

老若男女を問わず、さまざまな方法で何かを発信している。それは、受け取り手がいることを想定しているからこそ、継続できているとも言えそうだ。

会社員なら、仕事で認められたいというのも表現欲とも言えた。料理人なら料理も表現の手段で、それはある意味作品でもあるのだろう。芸術関連の仕事はまさに表現欲とイコールなのだろうな。


趣味による「不在」の時間をつくる。

2012年10月05日 | Weblog
「五十歳でも老人八十歳でも青年」森村誠一著より。

要するに夫の立場からは、家にいない時間を作るべきだということだった。そのためにも外に出てする趣味が必要だったのだ。

一日中家にこもりきりでは、妻にも夫自身にも好ましくないということだ。夫の現役時代でも、妻から見れば亭主元気で留守がいい、というのが本音だろう。

それは夫から見ても同様なことがいえるはず。どんなことで閉じこもる生活から脱却することができるかを早めに考えねば。

その前提としては当然ながら健康を維持していなければならないだろう。まずは、外へ出るだけの気力、体力が必要だと思われる。


老いからくるストレスの解消法・・・

2012年10月04日 | Weblog

「五十歳でも老人八十歳でも青年」森村誠一著より。

もしこの本のタイトルのように、五十歳代でも老人~だと思えるならもしかしたら、老いによるストレスを感じるのだろうが、今のところまだあまり実感はないのが幸いだ。

今はほとんどなくなっているが、むしろストレスは仕事面でのほうが多かったものだ。さて、老いからくるストレスの解消法について、いくつか提案があった。

1、家に閉じこもらないで外に出ていくこと。2、趣味を持つ。3、趣味からつながる仲間をつくる。4、旅行をする。などだった。

とくに、1の外出は基本のようだ。2の生涯の趣味を持っているかどうかでストレスも違うようだ。3の趣味の仲間がいれば自然とコミュニケーションがとれる。4の旅行は心身に新しい刺激を与えられるからだった。

いずれにしても、どれも共通しているのは外に出て会話をしたり刺激を得ることだった。できれば気分転換や体調維持に簡単な運動も取り入れたいものだ。


気力というものは筋肉にも似ていて、使わないとすぐ衰える。

2012年10月03日 | Weblog
「五十歳でも老人八十歳でも青年」森村誠一著より。

学生時代はよく、大事なのは気力、学力、体力などと言われたものだが、年齢を重ねるごとにどれも失われているのを実感する。森村氏は、心の老いは無気力を招くと述べていた。

そんなことになる前に、精神の筋肉を鍛える必要があるらしい。そのために大切なことは会話だという。仕事をしなければ、ほとんど誰ともしゃべらすに一日が過ぎていく。

しかし、日頃から会話を交わす友だちの存在が重要だったのだ。日々の過ごし方の中に会話を意識的に盛り込むことがポイントなのだろう。また行きつけの喫茶店があるというのもいいらしい。

とにかく外に出て誰かと会話して、気力を維持することで老いを遠ざけられるようだ。またたとえば、ボランティアなどでの小さな労働が心の筋肉を動かすともいう。


お客様が感動するのは、本業ではないサービスをしてもらった時・・・

2012年10月02日 | Weblog
「しびれるブランドを作ろう」中谷彰宏著より。

もう一度、この本のタイトルを見返してみると、ただのブランドではなく、“しびれる”というところが大事だと気づく。つまり、魅力のある、抜群の、感動的というような意味合いがあるのだろう。

その一つとして、“本業ではないサービス”をあげていた。本業であることで、サービスするのはお客様から見れば当たりなことになる。それだけではあまり感動はしないだろう。

しかし、そこから一歩進んでそれ以外のことでもお客様が満足するようなサービスができて、はじめて“しびれる”ブランドになれるということだろう。

一つの例として、本屋さんに自転車で本を買いに来たお客さんからもし、「空気入れを貸してほしい」と言われたときに、喜んで貸してあげるのも本業でないサービスになる。

しかも時間があれば、その空気入れを手伝ってあげられるかどうかでさらに感動を与えられるようだ。普通なら、断ってもおかしくないのに、それを進んで、喜んでやってしまうところがポイントになっている。他のことにも応用できればいいのだろう。