日蓮正宗 正林寺 掲示板

法華講正林寺支部 正林編集部

信は道の源、功徳の母

2021-05-05 | 御住職指導

正林寺御住職指導(R3.5月 第208号) 

 毎年5月の第2日曜日に祝う母の日は、日頃の母の苦労をねぎらい、母への感謝を表す日とされています。母の日には、綺麗な花のカーネーションなどを贈る方もいるでしょう。
 母の日の起源は諸説あるようです。よく知られているのは「100年ほど前のアメリカ・ウェストヴァージニア州で、アンナ・ジャービスという女性が亡き母を追悼するため、1908年5月10日に白いカーネーションを配ったのが始まり」という話があります。

 当宗でも宗祖日蓮大聖人は『太田左衛門尉御返事』に、
「世間普通の義を用ゆべきか」(御書1222)
と、『三世諸仏総勘文教相廃立』に、
「一地の所生(しょしょう)なれば母の恩を知るが如く」(御書1419)
との仰せから感謝を申し上げます。「一地の所生」である地球の大地に生を受ける所があるのは、母の存在があるため恩を知ることが大切であります。
 また大聖人は、
「信は道の源(みなもと)功徳の母と云へり」(御書38)
と、『日女御前御返事』に、
「信を道の元、功徳の母と為す」(御書1388)
とも仰せであり、信心修行をするための功徳を積むために必要な身心は、母から生を受け産まれました。
 その上から大聖人は『上野殿御消息』に、
「母の恩の深き事大海還って浅し」(御書922)
と仰せであります。十二因縁の上から母より生を受けた恩は、如何に大きいかとのことであります。

 ところが凡夫である私達には、様々な母への善し悪しにわたる感情が現実にはあり、母への恩を報じがたい一面も境界によりあるのではないでしょうか。
 世の中では、母の恩を存分に実感しながら生活できる人、大聖人の仰せのままに母へ恩を報ずることができる人。
 しかし、生まれた時や物心が付く頃からすでに母は他界されて義理の母や祖母に育てられる人、事情で養子となる人もいます。その場合は、血縁に関わりなく育ての親が母であり実母と同じ大事な存在になります。
 反面、過去世が原因となり「正法の家をそし(謗)れば邪見の家に生ず」(御書582)との御本尊とは縁遠い環境に生まれたため、母への恩は一切感じることができずに生きる人、また母への恐怖や嫌悪を感じながら生きる人もいるでしょう。ともすれば、人として生まれたことに、なぜ生まれたかとの罪悪感を持つ人、自身の存在に嫌気・疑問を持ち命をも殺(あや)
めかねない人もいるのではないでしょうか。母への恩を感じることのできないケースは様々であり、末法特有の複雑な因縁があるため一概にはいえません。
 特にその中でも、殺意は絶対にいけないことです。大聖人は『聖愚問答抄上』に、
「五逆とは父を殺し、母を殺し、阿羅漢を殺し、仏身の血を出だし、和合僧を破す、是を五逆と云ふなり。」(御書384)
と仰せの五逆罪に当たり、大聖人は『念仏無間地獄抄』に、
「五逆罪の咎(とが)に依って、必ず無間大城に堕つべきなり」(御書39)
と仰せであります。「無間大城」とは地獄界のなかで一番苦しい絶え間なく「一劫」(御書711・809)の間中、現在よりもはるかに想像を絶する辛い苦を受ける地獄で、無間地獄(むけんじごく)・大阿鼻地獄(だいあびじごく)ともいいます。寸心を改め
正を立てて国を安んずる心を堅持し、殺意は払拭させるべきです。

 恩を一切感じることができずにいる人へ、大聖人は『千日尼御前御返事』に、
「但法華経計(ばか)りこそ女人成仏、悲母の恩を報ずる実の報恩経にては候へと見候ひしかば、悲母の恩を報ぜんために、此の経の題目を一切の女人に唱へさせんと願す」(御書1251)
との仰せを心がけた、信心が必要となります。本来「悲母」とは、慈悲深い母という意味でありますが、自受法楽の境界から母への恩を感じ、母も自受法楽の境界へと導くことができるように御本尊へ願い精進することが大切です。
 また『同生同名御書』に、
「釈迦仏は母のごとし」(御書595)
との仰せを心に刻み、大事な御本尊を母と思い、お給仕申し上げて恩を報じていくことが必要でしょう。「釈迦仏」とは第六の文底の教主釈尊と拝します。つまり、日蓮大聖人の御事であります。内得信仰の方は、本門戒壇の大御本尊と寺院に在す御本尊を母と思い信心を深めることが大切です。一日も早く御本尊を御下付いただけるように環境を調えましょう。

 大聖人の仰せのままに母へ恩を報ずることができる人、反面、母への恩は一切感じることができない人に共通する、大事な恩があります。
 大聖人は『上野殿御消息』に、
「母の胎内に宿る事、二百七十日九月の間、三十七度死ぬるほどの苦みあり。生み落とす時、たへがたしと思ひ念ずる息、頂(いただき)より出づる煙(けむり)梵天(ぼんてん)に至る。(中略)母との恩を報ずべし。」(御書922)
と仰せのように、母の胎内に宿り生まれてくるまでの恩は、誰一人として消し去ることはできません。この母の胎内で生きる月日は、打ち消すことのできない非常に大事な恩であります。この時、胎児は母の力なくして生きていくことは一切できません。そのため「母との恩を報ずべし」と御指南であります。十二因縁の上から、識にあたり過去の行業によって現在の母胎に託する心の状態、さらに名色にもあたり身心が胎内で発育し、六根を形成するまでの五陰の状態の時期になります。
 大聖人は『四条金吾殿女房御返事』に、
「人の身には左右の肩あり。このかたに二つの神をは(坐)します。一をば同名神(どうみょうしん)、二をば同生神(どうしょうしん)と申す。此の二つの神は梵天・帝釈・日月の人をまぼ(護)らせんがために、母の腹の内に入りしよりこのかた一生をを(終)わるまで、影のごとく眼のごとくつき随ひて候が、人の悪をつくり善をなしなむどし候をば、つゆ(露)ちり(塵)ばかりものこ(残)さず、天にうた(訴)ヘまいらせ候なるぞ。」(御書757)
と仰せのように、「母の腹の内に入りしより」同名神と同生神が記憶しています。まさに大聖人は『同生同名御書』に、
「幼子(おさなご)は母をしらず、母は幼子をわすれず。」(御書595)
と仰せであります。
 生を受けて生きることができるのは、母の存在があるからであります。生きていく時には、楽しい場合と苦しい場合があります。自受法楽の境界を信行により構築することができるよう精進しましょう。そこに一家和楽の道があります。

 さらには母の存在によって人として生を受けた事により、正法である三大秘法に縁することができたわけであります。大聖人は『聖愚問答抄上』に、
「我を生みたる母の由来をもしらず、生を受けたる我が身も死の終はりをしらず。鳴呼(ああ)受け難き人界の生をうけ、値ひ難き如来の聖教に値ひ奉れり、一眼の亀の浮木(ふもく)の穴にあへるがごとし。」(御書382)
と仰せであります。受けがたい人の生命をうけ、値いがたい三大秘法南無妙法蓮華経にめぐり会えたことは、母の尊い存在があるからです。まさに「妙法値遇の福運」であります。

 その母も年を重ねていけば、やがて必ず老いていきます。大聖人は『真言見聞』に、
「唐尭(とうぎょう)は老ひ衰へたる母を敬ひ」(御書615)
と仰せであります。「老ひ衰へたる母を敬ひ」とは、それぞれの環境で精一杯、心身にわたり母を敬うとの教えであります。日本の未来は高齢化社会となる見通しがあり、課題として介護環境の整備もあるため、心がけて行く大切な御指南であります。
 そして、人として生を受けた理(ことわり)として生老病死があり、私達は当然ながら母にもいずれは訪れる臨終(死)との道理であります。大聖人は『祈祷抄』に、
「かりと申す鳥あり、必ず母の死なんとする時孝をなす。」(御書622)
と仰せのように、「孝」をなすことであります。母の恩の深き事を知って、大聖人は『大果報御書』に、
「御母の御事、経をよみ候事に申し候なり。」(御書687)
と仰せのように、臨終をむかえ他界された母には、御本尊にお経を読み題目を唱える事であります。さらに『四条金吾殿御返事』には、
「御身には一期の大事たる悲母の御追善第三年の御供養を送りつかはされたる事」(御書619)
と仰せのように、亡き母への追善供養となる法事、三回忌に御供養を大聖人へ送られた様子を御示しであります。当然ながら毎月一日、寺院での御経日にもつながる大切な供養となります。

 未だ収束しない疫病である現コロナ禍では、感染症を患いかねません。当然、不安になります。もしも、現実に受け止めがたいことですが、感染症により母は他界されたとしても転重軽受である罪障消滅と受け止め、確実に大聖人のお導きにより、「無間地獄の道をふさぎぬ」(御書1036)との後生善処であることを確信しましょう。人の一生は今世だけではありません。十二因縁の上からは現在世よりも果てしなく永い末法万年尽未来際まで続く、一天四海本因妙広宣流布の現実へとつながる未来世が必ずあります。ゆえに大聖人は『法華取要抄』に、
「本門の三つの法門之を建立し、一四天・四海一同に妙法蓮華経の広宣流布疑ひ無き者か」(御書738)
と仰せであります。未来世では広布の良き人材として活躍されることを日蓮正宗寺院に在す御本尊へ願うべきです。その願う大切な機会が、寺院での葬儀法事御経日等になります。
 まさに大聖人は『報恩抄』に、
「日蓮が慈悲曠大(こうだい)ならば南無妙法蓮華経は万年の外(ほか)未来までもながる(流布)べし。日本国の一切衆生の盲目をひらける功徳あり。」(御書1036)
と仰せであります。
 そのためにも、命終後には絶対的な幸福境界を得られるよう法華経による供養が日々(常盆常彼岸)必要です。
 大聖人は『上野殿御消息』に、
「一切衆生の恩を報ぜよとは、されば昔は一切の男は父なり女は母なり。然る間生々世々に皆恩ある衆生なれば皆仏になれと思ふべきなり。」(御書922)
と仰せであります。一切衆生の恩の上から自分以外の母への成仏を願うよう御指南であります。

以上のことを心がけ、大聖人は『刑部左衛門尉女房御返事』に、
「母の御恩の事、殊に心肝に染みて貴くをぼへ候。飛鳥の子をやしなひ、地を走る獣の子にせめられ候事、目もあてられず、魂もきえぬべくをぼへ候。其れにつきても母の御恩忘れがたし。」(御書1504)
と仰せであり、母の恩を忘れることがないよう心肝に染めることであります。

 最後に、毎年5月の第2日曜日に祝う母の日にちなみ、一助となれば幸いであります。

 

宗祖日蓮大聖人『妙心尼御前御返事』に曰く、
「浄名経・涅槃経には病ある人、仏になるべきよしとかれて候。病によりて道心はおこり候か。又一切の病の中には五逆罪と一闡提と謗法をこそ、おもき病とは仏はいた(傷)ませ給へ。今の日本国の人は一人もなく極大重病あり、所謂大謗法の重病なり。」(御書900)

 

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