日蓮正宗 正林寺 掲示板

法華講正林寺支部 正林編集部

三、三月九日付の『御指南』について

1991-12-25 | 正本堂に関する御指南の真義

正本堂の御指南に対する創価学会の『再お伺い書』の問難を破す(※転載)


  三、三月九日付の『御指南』について

   =賞与御本尊裏書への不遜な願い出=

 御法主上人には、かかる創価学会執行部の誠意のかけらもない『お伺い書』にもかかわらず、昨年末より起こった宗内の混乱を深く憂慮あそばされ、こと正本堂に関する問題でもあり、「一宗を教導する法主」としてのお立場から、三月九日付書面をもって御指南されたのである。
 そこで御法主上人は、一月六日と一月十日の御指南の訂正箇所について触れられ、さらに池田名誉会長の正本堂着工式の挨拶、先師日達上人の御指南、正本堂の定義、『訓諭』の補足解釈などを述べられたのである。
 物事の本質を見るとき、時の流れに沿って状況を判断する場合と、結果として現在のありさま、様相を見て、その本質や原因、淵源(えんげん)を探る場合がある。
 今回、御法主上人はその『御指南』において、昨年十一月十六日の第三十五回本部幹部会のスピーチに代表される、あまりにも無軌道、無反省な池田大作氏の言動につき、まさしく昭和五十二年の狂気の路線に対する何らの反省懺悔もないところから来る所業であり、さらには、本宗教義の根幹をなす戒壇に関して、正本堂を『三大秘法抄』の戒壇そのものと言い切ったような慢心に、その源が存することを指摘せられたのである。
 そのことを物語る大きな事件として、昭和四十七年四月二十八日に正本堂の定義に関する『訓諭』が発布され、そして同年十月に正本堂が落成した二年あとの出来事があった。
 それは昭和四十九年正月、御先師日達上人より池田大作氏に賞与御本尊が授与されることになった時のことである。その賞与御本尊の脇書(わきがき)には、
  「賞 本門事戒壇正本堂建立
      昭和四十九年一月二日」
と認(したた)められ、八カ月後の、表装が出来上がったその裏書(うらがき)には、
  「此の御本尊は正本堂が正しく三大秘法抄に御遺命の事の戒壇に準じて建立されたことを証明する本尊也
    昭和四十九年九月二十日
             総本山六十六世  日達 在判」
と書かれてある。
 それについて御法主上人は、当時の日達上人の苦衷を慮(おもんぱか)られ、三月九日付の『御指南』では、
  「池田氏の強い要望があって認められたと記憶する裏書に」
としか述べておられない。しかし、その頃の宗門と学会のやりとりは、藤本日潤総監(当時庶務部長)のメモ記録に緻密(ちみつ)に書かれている。外部でも「藤本メモ」と言われているもので、裁判などで証拠資料として提出されたこともある。そのメモによれば、
  「大奥
   昭和49年5月6日后6~7時
     総監・阿部・藤本・理事
  早(瀬)・今内事部談話室で、お目通りを終って来た会長と面談した。
   ①御本尊裏書の件(S48・8・23正本堂記念の御本尊)
    学会持参の原稿
    『此の御本尊は、正本堂が正しく三大秘法抄に御遺命の事の戒壇為ることの証明の本尊也』
    このままでは直になってしまう、次のようにする。
  猊(下)『此の御本尊は、正本堂が正しく三大秘法抄に御遺命の事の戒壇であることを願って建立されたのを証明する本尊である』とする。
  授与書 『賞 本門事戒壇正本堂建立』」
と記録されている。また、内事部文書にもその当時の書類や写真が全部保存されているから間違いない。
 この記録によれば、明らかに昭和四十七年四月二十八日の『訓諭』の後、正本堂が落成され二年を経ても、なお池田大作氏は正本堂を『三大秘法抄』の事の戒壇とすることに固執し、日達上人に学会持参の原稿を持ってきて強要していたことが判る。賞与御本尊の裏書は、結果的に九月二十日付をもって、「願って」から「準じて」に変更されたが、日達上人の御苦衷ぶりを拝することができる。
 のちに三月三十日付学会側反論で、「準じて」の意味を、御法主上人の御指摘された「なぞらえて」の意ではなく「のっとって」と解釈すべきであると主張しているが、「準」はあくまで「準」であって「正」ではない。これらの経過を知悉された上で御法主上人は御指南されているのである。
 また、池田大作氏は昭和四十七年十月、正本堂落慶法要の時、法要が終わって下山する信徒に幹部を通じて、七百年前の大聖人の御遺命がここに達成された旨の言葉を伝えさせている。幹部諸氏の中には記憶している人もいるであろう。このように池田大作氏は、日達上人の御指南に背くことをものともせず、正本堂は『三大秘法抄』の御遺命の戒壇という意識に執著したのである。
 御法主上人は、この賞与御本尊の裏書の件と、落慶法要での池田大作氏の言動の二点を挙げ、三月九日付の『御指南』をあそばされたのである。つまり御法主上人は、「今にして思えば」と現在の創価学会の謗法背反の姿から、その原因を論及されて、昭和四十三年の着工大法要の池田大作氏の挨拶に一切が凝縮されているとして、池田大作氏の増上慢の本源は、本宗の大事中の大事たる戒壇の定義すら勝手に言明してしまう、その体質にあると指摘されたものである。そこから昭和五十二年路線への無反省も起こり、また本源的なものとして正本堂の定義づけに関し、時の御法主たる日達上人と池田大作氏との様々な経緯があると御指摘されたのである。
 それにしても、昭和四十九年五月、池田氏が日達上人に持参し、賞与御本尊の裏書に要求した原稿は、まさしく昭和四十三年の正本堂着工式での氏の挨拶とぴったりと文言も一致し、いかに池田氏が正本堂の意義につき「三大秘法抄に御遺命の事の戒壇たる」ことに執著したか、うかがい知ることができる。
 また、正本堂の意義づけに関しては、当時教学部長であられた御法主上人御自らも、深く反省すべきことがあると述べられている。そして特に、日達上人の昭和四十九年十一月の本門寺改称に関する御指南や、昭和四十五年時の御説法に触れ、「信」の一字をもって日達上人の御指南を拝するとき、この昭和四十五年時の御説法、特に四月六日の御霊宝虫払会御書講の御指南こそ、宗内僧俗の根本指南とすべきであると教示されたのである。
 その上で、昭和四十七年の『訓諭』について、
  「そして、広宣流布の暁には本門寺と改称され、御遺命の戒壇となることの願望を込めつつも、一切は純真なる信心をもって、御仏意にその未来を委ね奉り、事の広布並びに懺悔滅罪を祈念するところの大殿堂である」
との補足見解を述べられたのである。
 大勢の御信徒の赤誠外護のまごころによって落成した正本堂と、それをお認めになられ、色々な議論を経て「現時における事の戒壇」となされた日達上人の御心中と、賞与御本尊の裏書に見られる、当時の学会の圧力などを深く内鑑しての御指南と拝されるのである。
 それは日達上人より法脈を受けられたればこその御指南であり、御自ら、
  「全ては、時日の経過によって風化させてしまえばよいと考え、他人の真摯(しんし)な反省も茶番劇と嗤(わら)う無慚(むざん)さを憐れむものであります」
と御心境を述べて結ばれている。
 さらに補足して近年の御法主上人の御指南を拝するに、
 ① 昭和五十八年八月二十九日 全国教師講習会
  「宗門も戒壇問題が起こり、ある時期には種々の考え方が出ました。たしかにそのなかには、ある意味での行き過ぎがあったと私は思っております。総じて法門において、法門を間違えたならば大変なことでありますから、そういうことに関して今後、もし問題があれば、私の職を賭(と)してでも、やるべきことはやるつもりです。それだけにまた我々は、本当に法門を正しく命懸けで守っていかなければなりませんし、弘めていかなければなりません」
と仰せられている。
 ここに「ある意味での行き過ぎがあったと私は思っております」と、御自身の教学部長当時の説を含めて、宗内僧侶中に、行き過ぎた説があったことを反省あそばされている。
 また、昭和四十五年四月の御霊宝虫払会御書講での先師日達上人の御指南と相通ずることが拝される御指南がある。
 ② 平成二年七月二十九日 法華講連合会第二十七回総会のお言葉に、
  「事の戒壇とは、大聖人御一期の出世の本懐たる本門戒壇の大御本尊は、本仏宗祖大聖人の一切衆生救済の大慈悲を実際に一閻浮提総与として顕された御本尊なるが故に、そのおわします所が事の戒壇であります。そしてその事の戒法の究極的実相は、仏法と王法の不可思議な冥合の力によって衆生の邪法における執着が破られ、現実にその功徳が国土に顕現する旨を『三大秘法抄』にお示しであります。ただし、その事の戒壇の聖文は仏知仏見によるところであり、凡智をもって軽々しく浅識の解釈をなすべきでなく、信をもって未来永遠にわたる大法広布の実相として拝しゆくべきと思います」
と御指南され、昨年の大石寺開創七百年慶讃大法要本会の慶讃文では、七百一年を機にさらに正法広布へ邁進する根本指南として、次のように御宝前に奉読されている。
 ③ 平成二年十月十三日 総本山大石寺開創七百年慶讃大法要・慶讃文(本会)
  「其ノ当体ハ三大秘法惣在ノ本門戒壇ノ大御本尊ニシテ コノ大本尊マシマス処 是レ即チ本門事ノ戒壇 真ノ霊山 事ノ寂光土ナリ 即チ正本堂ハ未曾有ノ広布進展ノ意義ヲ含ム本門事ノ戒壇ナリ 而シテ宗祖大聖人ハ一期弘法抄ニ云ク
   国主此ノ法ヲ立テラルレハ富士山ニ本門寺ノ戒壇ヲ建立セラルベキナリ 時ヲ待ツベキノミ事ノ戒法ト云フハ是ナリト
   コノ深意ヲ拝考スルニ 仏意ノ明鑑ニ基ク名実共ナル大本門寺ノ寺号公称ハ 事ノ戒法ノ本義 更ニ未来ニ於テ一天四海ニ光被セラルベキ妙法流布ノ力作因縁ニ依ルベシ 然レバ吾等淳善ノ仏子トシテ コノ開創七百年ヲ機トシ一層ノ正法流布ニ邁進センコトヲ誓ヒ奉ル者ナリ」(傍線筆者)
と仰せられ、「事の戒法」によせて本門寺改称についても触れられ、それらは妙法流布の力作因縁によると宣言あそばされているのである。
 これらの御説法と併せて三月九日付の御教示を拝するに、それはまことに本宗の僧俗等しく、今後の一切の規範とすべきものと拝せられる。


四、三月三十日付の創価学会の『再お伺い書』について」へつづく

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