正本堂の御指南に対する創価学会の『再お伺い書』の問難を破す(※転載)
一、一月六日と十日の御法主上人の御指南について
一月六日と一月十日の教師指導会における御法主上人の御指南を要約すると、昨年十一月十六日の第三十五回本部幹部会の、池田名誉会長のスピーチに代表される創価学会の増上慢きわまりない体質は、昭和五十二年の創価学会路線の無反省に起因するものと考えられるが、その本源は正本堂の定義に関する経過より起こったものであると御指摘されたものである。
そして当時、正本堂建立に当たって、宗門・学会・妙信講などの三者がらみの複雑な状況で、時の御法主日達上人が正本堂に関する定義を論ずる流れの中で、そこに齟齬(そご)があったため必然的に起こってきた不信感により、創価学会の昭和五十二年路線が起きたものと御指南されたのである。
当時、教学部長として御先師日達上人に直接お仕えした御法主日顕上人は、昭和三十年代から四十年代の創価学会の果敢な折伏活動により、広宣流布の様相の一分をみせた宗内情勢のなかで、正本堂建立の機運がもちあがり、その中での戒壇堂の定義について、日達上人の御指南と発願主池田大作氏の発言を対比して、その本質を語られたのである。
本宗の伝統教義を明らかにされた日寛上人は、戒壇について三位日順師の心底抄を引用して、
「兼日の治定は後難を招くにあり、寸尺・高下註記すること能(あた)わず」
と仰せである。その御精神にしたがって、御法主上人は当時、日達上人にお仕えした一人として、広宣流布の様相に深い御慈悲を示された日達上人のお心を拝しつつも、その法脈を継がれた法主として、深い責務の上から、御自ら深い内省をこめられて現在における正本堂の意義について御指南あそばされたのである。
その中で特に池田大作氏の昭和四十三年の正本堂着工式での挨拶は『三大秘法抄』そのものの御文を引いて正本堂を、
「この法華本門の戒壇たる正本堂」
と定義づけしたものであり、それはのちに日達上人が、昭和四十七年の『訓諭』において、
「三大秘法抄の意義を含む現時における事の戒壇」
と御指南されたことに反し、その後、それに対する訂正のないことが、端的に池田大作氏の今日の、自分中心に本宗の教義を決定づける様を示すものと指摘あそばされ、また、昭和五十二年路線と今起こっている宗門批判の本質的共通性について、直截に御指南されたものである。
その一月六日と十日の二回にわたる御指南の中で、二カ所の時期的な意味での補足があったため、大日蓮二月号に訂正され、しかも正直にその一月六日と十日の当日の御指南と訂正した箇所を明示して掲載されたのである。
ここ平成一、二年にかけて池田名誉会長は数十回にわたってスピーチを行っている。その中で氏は、本宗の教義・信仰・教団論などについて、内・外道双方の出典をとりまぜながら引用して独裁的に解釈し、勝手気ままに発言を繰り返し、本宗の僧俗に違和感を与えてきたのである。先師上人方のお言葉を切り文にして何回も自己礼讃を繰り返し、権威・権力論で宗門を当てこすり、正信会に擬(なぞら)えて僧侶批判を行ってきた。十一月十六日のスピーチにおける、聖教新聞には掲載されなかった生のテープの内容は、ついに御法主上人をも見下してきたとの危機感を宗内僧侶に抱かせるに至ったのである。
したがって一月十日の御法主上人の池田大作氏に対する、
「最近の言動をみると、何か自分中心ということが仏法の上からの基本になっているように思えてならないのであります」
というお気持ちは、宗内僧侶が等しく身にしみて感ずるところであった。故に当然の如く、一月六日と一月十日の教師指導会に出席した僧侶達は、たとえ大日蓮二月号で二カ所の訂正があったとしても、御法主上人の御指南を拝信しているのである。御指南をされた方と受けた者双方がその通りと思っていることに、その場にいない創価学会の執行部が難癖をつけるのは見当違いも甚(はなは)だしいと言わざるをえない。