とぎれとぎれの物語

瀬本あきらのHP「風の言葉」をここで復活させました。小説・エッセイをとぎれとぎれに連載します。

あちこち「SYOWA」 420 ザ・タイガース ファイナル~ 解散LIVE 1971 01 24

2018-09-04 11:50:26 | 日記
ザ・タイガース解散。私はこのコンサートをテレビで視ていてよく覚えています。この映像はファンが撮ったものだと思います。しかし、私は視ていて一つの時代が終わったという気持ち、ああ・・・、という言葉にはならない感慨で胸がいっぱいになりました。


ザ・タイガース ファイナル~ 解散LIVE 1971 01 24




ザ・タイガース(The Tigers)は、日本のグループ・サウンズ。
1967年2月に「僕のマリー」でデビュー。その後、「モナリザの微笑」、「君だけに愛を」など、多くのヒット曲を放つ。1971年の日本武道館コンサートを最後に解散。その後1981年11月に「同窓会」と銘打って再結成した( - 1983年)。さらに30年を経た2013年12月にオリジナル・メンバーでの「ザ・タイガース」復活コンサートが複数回開催された(後述)。


来歴

1966年に前身の「ファニーズ」が京都で発足(本文略)

上京、「ザ・タイガース」としてテレビ出演

1966年11月9日、東海道新幹線で上京。3日後、ポリドール・レコード(当時は日本グラモフォン、現在はユニバーサルミュージックに併合)のオーディションに合格し、レコード会社が決まる。メンバーは世田谷区烏山町に用意された住宅に入居し、渡辺プロマネージャーの中井國二を加えた6人で合宿生活を始めた。

11月15日、初出演のテレビ番組『ザ・ヒットパレード』(フジテレビ系)収録当日、渡辺プロの制作部長から依頼を受けた番組ディレクターのすぎやまこういちにより、ザ・タイガースというバンド名が与えられた。沢田は「大阪から来たわけ?じゃ、タイガースだ」(プロ野球の阪神タイガースにちなむ)とすぎやまから言われたと後年述べている。当時アメリカ、カナダ、イギリス、日本などで人気だったアイドルグループ、モンキーズの存在を意識して動物名となったとする説もある。すぎやま自身は1987年に、「関西ってこともあったけど、なによりも初めて見たとき“若虎”って印象があったのね、彼らの動きとかにね」と証言している。また、渡辺プロからの指示により、バンドのリーダーも瞳から岸部に変更された。

初のテレビ出演では、当時アメリカ本国において、モンキーズに次ぐアイドル人気となっていたパンク・ロックバンドであるポールリビアとレイダース(英語版)の「KICKS(英語版)」を演奏。出演時間はわずか30秒で、渡辺プロではなく内田裕也からすぎやまに売り込んでのものだったという。内田は、上京後すぐにメンバーを麻布のイタリア料理店「キャンティ」に連れて行った。「キャンティ」は当時、文化・芸能人の集まるサロンのような場所で、メンバーはその後もしきりに出入りし、公私ともに影響を受けていくことになる。

1967年シングルデビュー、人気爆発

1967年2月5日発売のシングル「僕のマリー」(録音時点でのタイトルは「マリーの想い出」)でデビューする。前年12月の録音の際、曲を渡されたメンバーはそれまでの演奏曲との違和や失望を感じたという。渡辺プロ側がタイガースのプロモーションに際してイメージしたのはモンキーズであったが、セールスは伸び悩む。

一方、ジャズ喫茶では、内田と組んだ「内田裕也とタイガース」として前年12月から新宿ACBに出演し、ファニーズ時代と同じテイストの楽曲を演奏した。1967年1月15日の第31回日劇ウェスタンカーニバルで、内田と尾藤イサオのバックを引き受ける条件で、内田の用意した衣装を着て1曲だけ演奏する。これを契機にジャズ喫茶でのファンが増加していく。

内田の命で新宿ACB出演の際に、メンバーのニックネームと芸名が決められた。岸部は(リトル・リチャードのシングル「のっぽのサリー」に由来する「サリー」)、瞳は(キューピーに由来する「ピー」)、森本は(本名に由来する「タロー」)とされた。3人とも従来からメンバー間で使われていた愛称だった(岸部と瞳は京都時代に自然につけられた)。

一方、沢田は、女優ジュリー・アンドリュースに由来する「ジュリー」と自ら名付け、加橋は、トッポ・ジージョに似ていることから新宿ACB支配人の命名で「トッポ」と名付けられた。また、芸名については、岸部は読みを変え(「しゅうぞう」から「おさみ」)、瞳と森本は表記を変えた。沢田は内田による芸名「沢の井謙」を拒否し本名の澤田を沢田と表記し、加橋は本名「高橋(たかはし)」の一文字を抜く形となった。

3月頃から人気が爆発、5月発売のセカンド・シングル「シーサイド・バウンド」は40万枚を超えるヒットとなった。「シャボン玉ホリデー」などのテレビ出演でそれが加速し、従来よりも低年齢(中高生)にファン層が広がった。
テレビは渡辺プロ、ジャズ喫茶は内田とマネジメントが分かれていたが、ジャズ喫茶においても「ザ・タイガース」として扱われ、内田はプロデュースに近い立場となった。後に、内田は渡辺プロと対立、第32回の日劇ウェスタンカーニバル前日の5月4日に内田は「キャンティ」経営者の川添夫妻の援助で渡仏した。結果として、渡辺プロは自らの路線に合わない内田をザ・タイガースから切り離した形となった。

1967年後半には活動の中心はジャズ喫茶からコンサートに変わり、テレビなどの芸能活動も増加していった。烏山の合宿所には女性の追っかけが数多く訪れ、メンバーの日常生活にも支障を来すほどになっていた。

1968年には、1月発売の4枚目シングル「君だけに愛を」のヒットに続き、3月発売の5枚目シングル「銀河のロマンス/花の首飾り」(「花の首飾り」は加橋の初のメインボーカル曲)がオリコンシングル・チャートの1位を7週間連続で獲得、公称130万枚・オリコン調べで67.6万枚を売り上げた。3月10日に「花の首飾り」の新曲発表会を日本武道館で開催する。武道館コンサートをする初の日本人音楽バンドとなる。ザ・タイガース初の主演映画『ザ・タイガース 世界はボクらを待っている』は4月に公開された。

7月発売の6枚目シングル「シー・シー・シー」も6週1位となり、オリコン調べで50.8万枚を売り上げた。8月12日に日本初のスタジアム・ライブとなる「ザ・タイガース・ショー〜真夏の夜の祭典」を後楽園球場で開催。11月25日には、トータル・コンセプト・アルバム『ヒューマン・ルネッサンス』を発売している。
こうして、ザ・タイガースは、渡辺プロによるアイドル的な売り出しによって多様な人気を集め、グループサウンズの頂点を極めることになる。

1969年加橋脱退、1971年解散へ

だが、アイドル性を前面にしたプロモーションは、ビートルズやロックを原点とした音楽志向を持っていたメンバーの不満を募らせる。
特に、繊細で芸術家肌だった加橋は渡辺プロに反発。仕事に没頭する沢田との意見の相違が顕著になる。1968年春には加橋の脱退話が浮上していた。加橋の意向を反映してコンセプトアルバム『ヒューマン・ルネッサンス』が制作され、またヒッピーテイストのコスチュームで路線変更を模索するが、1969年になると加橋脱退は避けられなくなっていた。

加橋は、1969年3月5日、渋谷でのレッスン中にスタジオを離れた後、グループに戻らなかった。代わりに、岸部の弟で、以前からグループをサポートしていた岸部シローが加入し、タイガースの第二期がスタートする。
マスコミは当初、加橋を「失踪」と報道するが、すぐに渡辺プロ主導の芝居だとばれてしまい、渡辺プロは謝罪会見を開く。加橋が抜けてザ・タイガースの人気が下降するのを恐れての芝居だったが、今度は、加橋の一番の理解者でもあった瞳が、渡辺プロに不信感を抱くようになる。

さらに、1969年夏には、グループ・サウンズのブームが急速に沈滞化し、終焉の兆しを見せ始める。音楽シーンが多様化する中で、同年秋からはグループとしての活動よりもメンバー個々の活動が中心となった。瞳が脱退の意向を示したことも背景にある。1970年になると、4月26日に日本万国博覧会のEXPOホール・水上ステージにて「ザ・タイガース・ショー」で参加したのが目立つくらいだ。

メディアによる解散報道が相次ぐ中、ザ・タイガースは1970年12月7日に解散を表明する。翌1971年1月24日の日本武道館における「ザ・タイガース ビューティフル・コンサート」が事実上の解散コンサートとなる。この模様は、ニッポン放送で3時間にわたり生中継され、テレビでは、録画されたものが1月30日にフジテレビで放映された。また、大幅に編集された実況録音盤(ライブアルバム)『ザ・タイガース・フィナーレ』として同年に発売された。

なお、この日楽屋ではひと揉めあったという。会場の客席に加橋がいることを知って、メンバーの中から「今日が最後なんだから、彼にもステージに上がってもらって歌ってもらったらどうだ」といった意見が出ると、瞳はこれに絶対反対の立場をとり「勝手に辞めた奴を呼ぶなら俺は降りる」と発言、結局加橋がステージに上がることは無かった。
コンサートの夜、内田主催で食事会が行われ、5人のメンバー、そして会場の客席にいた加橋も参加する。宴の終わった後、瞳はトラックに家財道具を積み込み実家のある京都へ戻る。

解散コンサート以降、森本、岸部兄弟、沢田は、解散前から準備されていた路線で音楽活動を継続するが、瞳は芸能界を引退して高校に復学した後、他のメンバーとの交流を2008年まで完全に絶つことになる。(「Wikipedia」より)

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