「山崩し」か「大山崩し」か

斐伊川水系と新川廃川地(国土交通省撮影)
画面左側(北)を流れる斐伊川は宍道湖に流れ入る。画面右側(南)に道路がかすかに見えるが、これはもともと支流(運河)の新川である。よく見ると山を切り開いた地点もあることがこの写真でも分かる。運河は江戸期に開削された。

出雲市斐川町斐川公園
ここはつつじの名所であることはよく知られている。この山は通称狼山と呼ばれ、戦国時代の武将尼子氏の家臣米原綱寛の居城である高瀬城の出城があったところである。また、狼封じの祈祷をした神社がある。
元井美穂-それいけ!民謡うた祭り-出雲音頭
この唄はいわゆる出雲地方の通常の盆踊り唄である。勿論、歌詞は所によって違う。参考のために動画を掲載させていただきました。
湖笛の稽古場を訪問した翌日、「悲恋の盆歌」の脚本を担当したという松江の長山真一郎さんから電話がありました。舞台監督から私の話を聞いて電話したということでした。
初めまして、私は脚本を担当しています長山真一郎と申します。新川廃川地の近くに住んでおられると伺いましたので、失礼ですがお電話させていただきました。
私は歴史に弱いのでお返事できるかどうか分かりませんが・・・、で、どういうことでしょう。
私は私なりに相当調査しましたが、分からないことが少々あります。・・・新川開削と関わりの深い盆唄「山崩し」ですが、私の実地調査とか航空写真などを総合的に考えても、歌詞にある出だしの「♪やま、やま、大山崩し・・・」というのは理解しがたいのです。
「大山」が実際は新川の両岸に見当たらないということですか。
そうです。直江の斐川公園地点辺りに多少の丘がありますので、「山」とは言えますが・・・。
ああ、そう言えばそうですね。私は今まで気が付きませんでした。
新川の開削はごく短い期間で竣工していますので、盆唄の作詞者と言われている時の松江藩家老朝日丹波が「山」を敢えて「大山」ということによって労働者を激励し、士気を鼓舞したものと個人的には考えていますが・・・。
そうですね。・・・当時は今のような掘削機械がなく、すべて人海戦術で工事したんですから、当事者から見ると「丘」のようなものでも「大山」に見えたのではないかと・・・。で、そのことが貴方の脚本とどういう関わりを持ってくるのですか。
ええ、そのお答えをする前にもう一つの事実をお示ししたいと思います。・・・実はこれとよく似た唄が隠岐にもあるんですね。その後の部分の歌詞が出雲では「♪山を崩いて川にしようや・・・」となっていますが、隠岐では「♪山を崩いて田にしようや・・・」となっています。ですから、総合的に考えて、この出雲の「山崩し」の盆唄は朝日丹波が類歌を真似て作ったか、穿って考えますと朝日丹波の作ではなく、だれか、朝日丹波に近いものが作ったんではと解釈してもいいのではと考えます。もっと極論すると、工事が終わってから後の人が作ったとも受け取ることが出来ます。
こりゃ難しい。・・・それで、そういう解釈があなたの脚本の本質とどう関わってくるんですか。
そこなんです。工事に携わったある二つの家の男女の悲恋を描いていますが、そのこと自体は私のイマジネーションの所産です。はかないロマンです。ところへ盆唄があまりにもリアルだということになるとミスマッチですね。大河に油を一滴垂らしたという感じですね。歴史の重さのために物語が薄れてしまいます。
いや、これはいよいよ難しくなってきましたね。・・・ただ、これは真実です。あの斐川公園のある山はもともと南の山と繋がっていたんです。堀切が作られたり、新川が開削されたりで突端の山だけが南の山から孤立したんですね。だから、昔、狼が出る山で恐れられていたことと高瀬城の出城があったということも、以前は高瀬城のある南の奥山と繋がっていた結果なんだと思います。お尋ねの盆唄「山崩し」は斐川公園の東の段原山を開削するときに人夫を励ますために松江藩の家老朝日丹波が作ったと言われています。今は北側の山が孤立して残っています。
ああそうですか、その話はリアルそのものですね。・・・孤立した山ですか・・・。こりゃ、いい話を伺いました。私のイメージが膨らんできました。・・・悲恋と孤立した山。ピッタシですね。畝本さんありがとうございました。お話が出来てほんとによかったです。
ご成功を祈ります。
ありがとうございます。
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斐伊川水系と新川廃川地(国土交通省撮影)
画面左側(北)を流れる斐伊川は宍道湖に流れ入る。画面右側(南)に道路がかすかに見えるが、これはもともと支流(運河)の新川である。よく見ると山を切り開いた地点もあることがこの写真でも分かる。運河は江戸期に開削された。

出雲市斐川町斐川公園
ここはつつじの名所であることはよく知られている。この山は通称狼山と呼ばれ、戦国時代の武将尼子氏の家臣米原綱寛の居城である高瀬城の出城があったところである。また、狼封じの祈祷をした神社がある。
元井美穂-それいけ!民謡うた祭り-出雲音頭
この唄はいわゆる出雲地方の通常の盆踊り唄である。勿論、歌詞は所によって違う。参考のために動画を掲載させていただきました。
湖笛の稽古場を訪問した翌日、「悲恋の盆歌」の脚本を担当したという松江の長山真一郎さんから電話がありました。舞台監督から私の話を聞いて電話したということでした。
初めまして、私は脚本を担当しています長山真一郎と申します。新川廃川地の近くに住んでおられると伺いましたので、失礼ですがお電話させていただきました。
私は歴史に弱いのでお返事できるかどうか分かりませんが・・・、で、どういうことでしょう。
私は私なりに相当調査しましたが、分からないことが少々あります。・・・新川開削と関わりの深い盆唄「山崩し」ですが、私の実地調査とか航空写真などを総合的に考えても、歌詞にある出だしの「♪やま、やま、大山崩し・・・」というのは理解しがたいのです。
「大山」が実際は新川の両岸に見当たらないということですか。
そうです。直江の斐川公園地点辺りに多少の丘がありますので、「山」とは言えますが・・・。
ああ、そう言えばそうですね。私は今まで気が付きませんでした。
新川の開削はごく短い期間で竣工していますので、盆唄の作詞者と言われている時の松江藩家老朝日丹波が「山」を敢えて「大山」ということによって労働者を激励し、士気を鼓舞したものと個人的には考えていますが・・・。
そうですね。・・・当時は今のような掘削機械がなく、すべて人海戦術で工事したんですから、当事者から見ると「丘」のようなものでも「大山」に見えたのではないかと・・・。で、そのことが貴方の脚本とどういう関わりを持ってくるのですか。
ええ、そのお答えをする前にもう一つの事実をお示ししたいと思います。・・・実はこれとよく似た唄が隠岐にもあるんですね。その後の部分の歌詞が出雲では「♪山を崩いて川にしようや・・・」となっていますが、隠岐では「♪山を崩いて田にしようや・・・」となっています。ですから、総合的に考えて、この出雲の「山崩し」の盆唄は朝日丹波が類歌を真似て作ったか、穿って考えますと朝日丹波の作ではなく、だれか、朝日丹波に近いものが作ったんではと解釈してもいいのではと考えます。もっと極論すると、工事が終わってから後の人が作ったとも受け取ることが出来ます。
こりゃ難しい。・・・それで、そういう解釈があなたの脚本の本質とどう関わってくるんですか。
そこなんです。工事に携わったある二つの家の男女の悲恋を描いていますが、そのこと自体は私のイマジネーションの所産です。はかないロマンです。ところへ盆唄があまりにもリアルだということになるとミスマッチですね。大河に油を一滴垂らしたという感じですね。歴史の重さのために物語が薄れてしまいます。
いや、これはいよいよ難しくなってきましたね。・・・ただ、これは真実です。あの斐川公園のある山はもともと南の山と繋がっていたんです。堀切が作られたり、新川が開削されたりで突端の山だけが南の山から孤立したんですね。だから、昔、狼が出る山で恐れられていたことと高瀬城の出城があったということも、以前は高瀬城のある南の奥山と繋がっていた結果なんだと思います。お尋ねの盆唄「山崩し」は斐川公園の東の段原山を開削するときに人夫を励ますために松江藩の家老朝日丹波が作ったと言われています。今は北側の山が孤立して残っています。
ああそうですか、その話はリアルそのものですね。・・・孤立した山ですか・・・。こりゃ、いい話を伺いました。私のイメージが膨らんできました。・・・悲恋と孤立した山。ピッタシですね。畝本さんありがとうございました。お話が出来てほんとによかったです。
ご成功を祈ります。
ありがとうございます。
