路地若葉 亜紀子
黄金週間庭に生ふ蕗煮て過ぐる
黄金週間花苗分つ両隣り
ひはの声語尾引き絞る薄暑かな
早口の血筋脈々路地若葉
山あぢさゐ雨に洗ひし顔上ぐる
薔薇のごと芍薬香る夜べの卓
子かまきり何を狩るやら見てみたき
衛士ひとり緑陰深く身じろがず
まだきより巣外保育四十雀
黙し来て黄鶲旅を続けゆく
薔薇夫人作業衣に身をかためをり
微に入りしレースの意匠風かよふ
なぐさみに撒きし西瓜のこぞり出る
巣立ちしか朝の小窓に声のして
洗濯を蝶とたのしむ梅雨干ぬ間
路地若葉 亜紀子
黄金週間庭に生ふ蕗煮て過ぐる
黄金週間花苗分つ両隣り
ひはの声語尾引き絞る薄暑かな
早口の血筋脈々路地若葉
山あぢさゐ雨に洗ひし顔上ぐる
薔薇のごと芍薬香る夜べの卓
子かまきり何を狩るやら見てみたき
衛士ひとり緑陰深く身じろがず
まだきより巣外保育四十雀
黙し来て黄鶲旅を続けゆく
薔薇夫人作業衣に身をかためをり
微に入りしレースの意匠風かよふ
なぐさみに撒きし西瓜のこぞり出る
巣立ちしか朝の小窓に声のして
洗濯を蝶とたのしむ梅雨干ぬ間
一句 亜紀子
梅雨に入る一週間程前、夕食の支度をしていた台所の窓からほととぎすの声を聞く。かなり遠いようだが、二声三声確かに聞いた。名古屋に越してきて十七年になるが、台所に居ながらにしてほととぎすを聞いたのは初めてである。夜に入って学校の定期考査の準備をしていた息子が、勉強部屋の窓からも聞いたという。その翌日は声はせず、たった一晩だけで通り過ぎたのかと思っていると、三日目の深夜、もう二声ばかり遠く鳴いてそれきりになった。
その数日後、家から一寸離れた文具屋へ行く途次、大通りは避け一筋入った住宅道路を歩いていた折のこと。その道筋は一方通行で、煉瓦風の敷石を張った歩道が車道へ必要以上にくねくねと張り出している。車は非常に走りにくく、通り抜けを防いでいるのだろう。実際車が少ないばかりでなく、人通りも稀でいつもひっそりとしている。すぐ足許を何かが過って、ひらりと道沿いの家の庭木の方へ降りた。立ち止まって丈の低い紫陽花の辺りを目で探す。黄鶲の雄が一羽。まだ緑の紫陽花の花の蕾の下に、その名のとおり鮮やかなオレンジ色と黄色の胸を張っている。背面の黒色が艶やかだ。息を殺し、身じろがず眺めていると、黄鶲は何をするでなく、彼もひと言も洩らさずに庭木の間を縫うように奥へ入ってしまった。
五月の名古屋は夏鳥の移動の通過点だ。気をつけて観察すればさらに様々の渡り鳥に出会えるのかもしれないが、自分の住いの近くで見かけるようになったのはごく最近のこと。黄鶲も昨年近所の大学の構内で見つけたのが初めて。キャンパスの入口に小さな古墳が史跡として保護されている。塚の上のこんもりした林にミニチュアの原生林の趣がある。夕刻、といっても日はまだ高く暮れ難い五月の終り。その林の中から朗々とした歌声が響いてきた。耳が痛くなるほど大きく近く、鮮明な囀り。本物かしら、誰かがテープを流しているのじゃないかしらと些か訝しく思いながら、門衛さんにひと言挨拶して構内に入れてもらうと、小鳥はすぐに見つかった。林の夕陽を浴びながら、黄鶲の独唱。
黄鶲の夕日まみれの歌つづく 星眠 (青葉木菟54)
市街地なのが不思議な気もしたが、まさにこれだと、しばし聞き惚れた。
夏の渡りの季節だけではない。昨秋の渡りの頃に庭木の梢に野駒の番いが寄っていった。風花舞う冬の終りには黄連雀の小さな集団が家の前の電線に並んでいて驚いた。それもこれも、ほんのこの一、二年の間のことだ。気象変動著しい昨今、鳥たちの飛行経路にも多少の変更が生じているのか。あるいは上空から見下ろした地上の緑が、羽を休めるのに丁度良い加減に育ったからか。もしくは私が少し注意深くなったのか、ただ運が良かっただけか。理由は何にせよ、季節ごとの小さな驚き、喜びの種である。
この種で俳句を咲かせようと思うのだが、なかなか上手くいかない。
「吟行に出たらひとつ良い句ができればいい。」
「ひと月の投句稿の中で良いといえるのはひとつか、ふたつだね。」
とは、父が自身のこととしての言。それだけ難しい俳句なのだから、私が出来ないのは仕方ないと妙な安心を覚えたのは初学の頃。一つでもまともと思える句ができれば満足したのがその次の段階。良い一句の「良さ」が質の問題であり、「良い」とは本物の良さのこととようやく気づいたのはさらに後のこと。その一句を成すことがいかに難しいことか。誰も皆、真実良い句を詠もうと努めているわけだが、難しい。難しいから面白い。面白がっているばかりでは進まない。我々は皆時間の子どもである。今日にも、今にも、本物の一句を作らなければ。
選後鑑賞 亜紀子
揺れ合へる双幹の椰子五月来ぬ 川南清子
南国の椰子の木。双幹と呼ぶからには根本を一つにした二本なのだろう。ずいぶんと大きいに違いない。その丈高い、向き合う双子の木を揺らす風は海から吹いてくる。波の輝き。潮騒。南国の初夏の心地良さ。
自転車と乗り込む渡船新教師 寳来喜代子
離島の分校の新学期。新任の若い先生が自家用車ならぬ自家用自転車を携えて、桟橋から船に乗る。仕事も生活も全てが新しく始まるわけだ。早春の光りが遍く海上に踊る。前述の句と同じく、こちらも南国の景。
浜大根種太らせてなだれをり 保崎眞知子
ハマダイコンは大根が野生化したものといわれる。海岸の砂浜に生育する。花色は白地に薄紫で可憐。繁殖力旺盛で、各地に群落があるようだ。既に花は終り、豆のように膨らんだ種の莢でいっぱいだ。花どきに、波ぎわへ向かってなだれ咲く様はさぞやと想像されるのである。
尾をふりつ葉かげ渡れり三光鳥 清水田鶴子
三光鳥は夏鳥として台湾、フィリピンから渡ってくる。「ツキヒーホシ・ホイホイホイ」という囀りを「月・日・星」と聞きなして三光鳥の名を持つ。三つの光の名を負いながら、生息域は繁茂した小暗い森の中。繁殖期の雄は体長の三倍程の長い尾を持つ。掲句、一瞬捉えた姿を描写して、この鳥らしさをよく伝えている。
冴返る夜を啼きとほす恋の牛 南雲節子
日本の畜産牛の繁殖は、そのほとんどが冷凍保存精子の人工授精によるという。ここで冴返る夜に咆哮するのは雌牛だろう。雌牛の発情期は期間が限られている。ペットと違い、経済効率が優先される畜産の世界である。受精のタイミングを外さぬよう細心の注意を払うのは農家にとって大事な仕事の一つのようだ。そうしたあれこれを思いながら、冷たい一夜の牛の啼き声に、生き物の哀れを覚えるのである。
雨安居の僧の往来静かなり 岡田美紀子
陰暦四月十五日から七月十五日までの三ヶ月間、僧たちが外での修行を止め、寺内に籠り禅の修行に専念するのを安居という。安居とは梵語の雨という語の訳だそうだ。雨期に行われるので雨安居ともいう。(講談社『日本大歳時記』)
寺域内の樹木は青葉を重ね、雨も降っているのだろうか、緑の雫をこぼしている。回廊を行き来する修行僧の静かな動きを言い留めて、いっそう境内の静謐さ、落ち着きが感得される。
飲食のもの音もなき安居寺 篠原鳳作
梶若葉野川ゆたかに渦なせり 市川美貴子
梶はクワ科の落葉喬木。葉の形から桑かと思い、それにしては毛深いなと訝ったことがある。クワ科の他の樹木と同様に、鳥がその実を食べて種子を運ぶのだろう。掲句では既に水量も十分な野の川のほとりに育っているようだ。瑞々しい梶の若葉と、野川の水とが照り合って、季節のよろしさが感じられる。単に梶の葉と言えば七夕の秋季になる。季節は異なるが、七夕に繋がる川や水への連想は自ずから掲句とも響き合い、一句のイメージを重層的に深めている。