橡の木の下で

俳句と共に

「紅梅」平成26年「橡」4月号より

2014-03-27 10:32:53 | 俳句とエッセイ

  紅梅   亜紀子

 

 今年正月の吟行会で愛知県豊田市小原村の和紙の里を訪ねた。昼になっても池の氷の解けやらぬ寒い日であったが、空は青く澄みわたり冬桜が消え入りそうな花を掲げていた。この地に杉田久女の夫杉田宇内の屋敷跡がある。屋敷内に杉田家の墓地があり、久女もそこに眠っている。吟行会の終りに詣でることとなる。

 屋敷跡は大きな瓦葺きの門と、門脇の一棟を残すのみ、且つての面影はなく一帯は落葉に埋もれている。案内役の伊與夫妻は東京から墓守に来ていた久女の孫という人に偶然会ったことがあるという。久女似の面長で端整な顔立ちの紳士であったそうだ。久女享年五十七歳。傍らには「灌仏の浄法身を拝しけり」の句碑も建ち、大きな藪椿の一樹が赤い花弁を惜しみなく注いでいた。

 帰路、句会仲間のひとりが俳人はどこか一歩世の中を引いて眺めているようなところがあると話す。私も情熱の歌人、諦念の俳人、俳人の方が長命だという説を聞いたことがある。久女は俳人ながら情熱家であったので早世したのかもしれないなどとお喋り。さて、帰宅してよく考えてみると、長寿を全うした歌人もいれば、短命な俳人もいる。久女の死因は戦後の栄養不良に帰せられるようで、昭和二十一年の五十代の死は必ずしも若死にとはいえないだろう。情熱が人の死を早めるわけではなさそうだ。おおよそ優れた芸術家はみな嵐の真っただ中にありながら、なお一歩離れたところで物事を見ているものではなかろうかと思う。

 二月、古賀まり子先生の訃がもたらされた。昨年夏頃より入院されたと聞いていたが奇跡的に回復され、この春になれば退院の予定と耳にして、さすがまり子先生と安堵していたのに。

 

紅梅や仰臥に果つる二十代  (『洗禮』)

 

 大戦直後の結核を乗り越えられてからも幾多の病を克服されてきたまり子先生享年八十九歳。

 

恩情に生きて米寿や更衣    (橡H二四・七)

真青なる空はパライソ山桜   (橡H二四・八)

繕ひし跡さまざまに葭屏風   (橡H二四・八)

五歩十歩茅花流しに身を委ね  (橡H二四・九)

聖母祭月光すくふたなごころ  (橡H二四・十)

母はわが身の内にあり魂迎へ  (橡H二四・十一)

庭隅の闇にすがれる虫のこゑ  (橡H二四・十二)

湯気立てて傍らに人ゐるごとし (橡H二五・一)

ひたひたと梅東風寄せる運河縁 (橡H二五・五)

 

 私が橡集の選を任されて後先生に御目にかかれたのは一度のみである。ざっくばらんで、しょっちゅうお会いしているような親しさで話をしてくださった。お説教や助言というような話題は一つもなく、これからは不義理をなさいというのが唯一教えといえば教えの言葉であった。不義理をせよとは、大切なことに誠心誠意力を尽せということかと思った。しかしながら、その後は精一杯におろおろするばかりで、まり子先生にはまさしく不義理をして過ごしてきた。

 ずいぶん昔、まだ娘時代に同席させていただいた何かの折り、先生は必要があって今はこんなによく喋りますけどあなたの年頃には無口だったのよと話されたことがある。笑いながら伺っていたけれど、まり子先生にお喋りの印象を抱いたことは一度もない。むしろ、本当に言いたいことは口にせず、全てはご自分の胸の内ひとつに納めていらっしゃるという印象であった。あの最後にお会いした日には、私は天涯孤独になったのよとも仰っていたが、だからどうとは仰らず、事もなげな話しぶりであった。

 何かもっといろいろのことを先生から伺っておきたかったという気持ちが湧くのであるが、あら、私は俳句に全て言い切りましたよと答えられるのではなかろうかと、そんな気もするのである。

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