飯もらふ街のすずめのクリスマス 亜紀子
小雪 亜紀子
身に入むやド・ロの地獄図極楽図
垣高く住む人々や黄落期
小春日の石に辛抱蕗飛蝗
白蠟の鷺の身ひとつ冬の雨
ひとつ覚え一つ忘るる冬の蠅
小雪や離れ住む子に小さき荷
冬すずめ盲滅法ねぐら入り
花やつで老いて親しき姉妹
黄落も貧しくなりぬ今日暮れて
黄落に埋るる無聊街宣車
大鳥居の丈の国威に積む落葉
湯気こもる鳩舎の玻璃や十二月
標本木もみぢ終りて眠りをり
冬もみぢ妙に紅濃き巫女のをり
身に入むや碁盤格子に幾遺影
寒に入る 亜紀子
マッチ一本顔出す寒さマッチ箱 星眠
父は寒がりだった。チョッキ、ジャンパー、首巻き(マフラー)や、股引といった言葉がすぐ思い出される。十二月ともなると、それらがどこにあるかを母に尋ねる父の口調が聞こえてくるような気がする。吟行の前日は防寒対策怠りなく、母が旅装を整えていた。どんなものを着せていたのか、先日母に問うてみた。温かい下着とウール、晩年はもっぱらヒートテックの下着を着用したらしい。記憶にあるのは寒さと早起きには滅法弱い父と、冷え性で霜焼けをつくる割には寒さを厭わぬ早起きの母の姿。
寒林にのぼる日ありて息光る
落葉松の寒雲町へ朱を流す
寒夕焼野末に湖のにじみけり
寒禽のよるべなく森痩せにけり
寒雲をこぼれし灯かも開拓地
蓼科の雪のみ光り寒暮色
赤岳の肩削がれ立つ寒夕焼
父の処女句集『火山灰の道』を開くと、清冽な厳冬の信州の句がずらずらと並ぶ。耳たぶが痛くなるようだ。昭和二〇年代から三〇年代にかけて、年齢は二〇代の終わりから三〇代後半。私の知らぬ父の姿。
葬り火と見たり寒夜の噴煙を
夢に来し父に抱かれ寒夜なり
寒三日月うすうすまろし父を恋ふ
愚かなりし月日寒波の嶺せめぐ
寒烈風見はてぬ夢の母の愛
菊戴寒林に頭を灯し来る
寒夕焼神々の座は炎えあがり
白鷺の素足寒がるひとこゑか
寒鴉黒き堆肥を見てあるく
渚踏むごとし寒夜の看護婦は
寒雁の三千の何恋ふるこゑ
昭和四〇年半ばから五〇年半ばの句集『営巣期』『青葉木菟』になると、肌が直接凍るような寒さの句は見られなくなる。寒さは生きてゆく月日の内側にあり、凍えるような風の中にも、どこか仄かに暖かなもの、救いを残しているように読める。
寒禽に草の実広場ありにけり
寒緋桜目白嘴さす一花づつ
祝詞のごとくにひとつ寒牡丹
夕づけば雀言問ふ寒牡丹
寒禽も群れて虚空蔵詣でかな
続く『樹の雫』になると「寒さ即ち暖かさ」というような趣もある。この頃は既に私の知る「寒がりの父」かもしれない。
馬子唄の小諸晴れたり寒土用
楤の木は鬼の金棒寒に入る
日曜を力走の群寒波来る
寒禽の綾織る神父給餌台
汝が足は寒禽の足滝を見に
氷像の噂してゐる寒雀
大寒の浴後優しき絹のシャツ
寒厨を巡る尾太鼓レトリバー
寒き夜の噂も絶えて白鼻心
『テーブルの下に』より。かつて壮年の頃まではどこかひりりとする繊細さも持ち合わせていた父であったが、家居がちになった晩年に近づけば近づくほど丸く丸く暖かく、母に向かって「俺は幸せだよ」と一言を置いていった。今年もいよいよ寒さ本番だ。
選後鑑賞 亜紀子
あすなろの並木ひときは天高し 大塚洋二
杉並木は知っていたが、あすなろ並木というのはまだ見たことがない。年経たかなりの大木が並んでいるようだ。都会に多い花水木や辛夷などでは天高しの形容は出てこない。あすなろという詠いだしの響きも気持ち良く、秀先のさらに高みの空の色がすがすがしい。
短日の己の影に凭れけり 岩﨑清一
恙あり。ひと日暮れゆかんとする際。壁に凭れて見つむるものは何か。短日という季語が動かない。
秋郊の歩ごとに立つる小灰蝶 山本安代
千草の小径を行くとき、小さな蝶が舞っては沈み、沈んでは舞い立つ。小灰蝶があちこちに群れている。まさにこの通り。秋の野歩きの一日を彷彿。
ひと匙の妙薬母の摺り林檎 小野田晴子
林檎一個で医者いらずという言葉もある。健康飲料などない時代。風邪をひいて食欲のないとき。母は林檎を摺ってくれた。熱の身に、不思議に喉を通る妙薬。暖かな思い出だけが残る。
枝裂けむばかりに蜜柑撓わなり 釘宮幸則
大豊作。日に照り映える蜜柑が眩しい。一枝にいったいいくつくらい実が付くものだろうか。
裏木戸に猫の爪研ぐ今朝の冬 宮崎安子
横町の路地に面した我が家のまわりにいつも野良どもがちょろちょろしている。時たま不審な物音がするなと思っていたら、カーポートの柱の防御材がばりばりに傷ついていて、猫の爪研ぎの音であったと合点した。なんとはなし、寒さを感じる。掲句の裏木戸、今朝の冬の語に共感。
誰がために生きる月日ぞいぼむしり 中村美代
秋、次第にこの世のものがみな静まりゆく季節、ひとり、人も自ずから来し方行く末を思う時節。掲句の答はどこにあるのか。やがて枯れゆく蟷螂は何か知っているだろうか
点呼して翔る白鳥家族かな 木村佳江
白鳥は家族単位で行動するものと知る。声かけあって、さあ、行こうというところか。あの喇叭の音が聞こえてくる。
新しき近道知るや草の花 喜多栄子
長年住み慣れた地で、思いがけずこんな抜け道があったのかと知った小さなよろこび。秋草をつづる楽しい小径のようだ。
戌の日に炬燵出しをり母偲ぶ 鬼形かね子
茶事の炉開きは亥月亥日。今年は十一月一日。炬燵を出す日もこの日とする節がある。陰陽五行説で火伏の意味があるそうだ。一方、戌の日に炬燵を出したという説もあり、こちらは安産のお守り戌と関連づけらたのかもしれない。いずれにしても、作者の母上は戌の日に炬燵をしつらう習慣を守っていらしたようだ。作者もまた。長い年月を経ても、折にふれてふと思い出されることども。
落ち葉して朴の高さの残りけり 勝部豊子
まっすぐな朴の大木。葉が落ちて、高さが残るという措辞に感じ入る。季節の寂寥が言外ににじむ。
赤岳の肩削がれ立つ寒夕燒 星眠
(火山灰の道より)
記憶にある父は寒がりだが、
処女句集には信州の凍みるような寒さの句をたくさん詠んでいる。
(亜紀子脚注)