雨の中萌ゆる柳も枯葦も 亜紀子
むくり鮒 亜紀子
亀戸へ太宰府よりの梅届く
さらぼひし一樹に梅花真白なり
悼古賀まり子先生
紅梅のくれなゐ雪に滲まざる
ふるさとの野を行くごとき春ならひ
あと戻る春に一日の口噤み
猫の恋笹むらわたる風寒く
かたへのみふふむ辛夷の並木道
流れ出す雪に止まりし郵便も
悔いも夢も忘れただよふ春の鴨
むくり鮒まんさくも花むくり初む
乙女らの下宿に更くる雛の夜
紅梅 亜紀子
今年正月の吟行会で愛知県豊田市小原村の和紙の里を訪ねた。昼になっても池の氷の解けやらぬ寒い日であったが、空は青く澄みわたり冬桜が消え入りそうな花を掲げていた。この地に杉田久女の夫杉田宇内の屋敷跡がある。屋敷内に杉田家の墓地があり、久女もそこに眠っている。吟行会の終りに詣でることとなる。
屋敷跡は大きな瓦葺きの門と、門脇の一棟を残すのみ、且つての面影はなく一帯は落葉に埋もれている。案内役の伊與夫妻は東京から墓守に来ていた久女の孫という人に偶然会ったことがあるという。久女似の面長で端整な顔立ちの紳士であったそうだ。久女享年五十七歳。傍らには「灌仏の浄法身を拝しけり」の句碑も建ち、大きな藪椿の一樹が赤い花弁を惜しみなく注いでいた。
帰路、句会仲間のひとりが俳人はどこか一歩世の中を引いて眺めているようなところがあると話す。私も情熱の歌人、諦念の俳人、俳人の方が長命だという説を聞いたことがある。久女は俳人ながら情熱家であったので早世したのかもしれないなどとお喋り。さて、帰宅してよく考えてみると、長寿を全うした歌人もいれば、短命な俳人もいる。久女の死因は戦後の栄養不良に帰せられるようで、昭和二十一年の五十代の死は必ずしも若死にとはいえないだろう。情熱が人の死を早めるわけではなさそうだ。おおよそ優れた芸術家はみな嵐の真っただ中にありながら、なお一歩離れたところで物事を見ているものではなかろうかと思う。
二月、古賀まり子先生の訃がもたらされた。昨年夏頃より入院されたと聞いていたが奇跡的に回復され、この春になれば退院の予定と耳にして、さすがまり子先生と安堵していたのに。
紅梅や仰臥に果つる二十代 (『洗禮』)
大戦直後の結核を乗り越えられてからも幾多の病を克服されてきたまり子先生享年八十九歳。
恩情に生きて米寿や更衣 (橡H二四・七)
真青なる空はパライソ山桜 (橡H二四・八)
繕ひし跡さまざまに葭屏風 (橡H二四・八)
五歩十歩茅花流しに身を委ね (橡H二四・九)
聖母祭月光すくふたなごころ (橡H二四・十)
母はわが身の内にあり魂迎へ (橡H二四・十一)
庭隅の闇にすがれる虫のこゑ (橡H二四・十二)
湯気立てて傍らに人ゐるごとし (橡H二五・一)
ひたひたと梅東風寄せる運河縁 (橡H二五・五)
私が橡集の選を任されて後先生に御目にかかれたのは一度のみである。ざっくばらんで、しょっちゅうお会いしているような親しさで話をしてくださった。お説教や助言というような話題は一つもなく、これからは不義理をなさいというのが唯一教えといえば教えの言葉であった。不義理をせよとは、大切なことに誠心誠意力を尽せということかと思った。しかしながら、その後は精一杯におろおろするばかりで、まり子先生にはまさしく不義理をして過ごしてきた。
ずいぶん昔、まだ娘時代に同席させていただいた何かの折り、先生は必要があって今はこんなによく喋りますけどあなたの年頃には無口だったのよと話されたことがある。笑いながら伺っていたけれど、まり子先生にお喋りの印象を抱いたことは一度もない。むしろ、本当に言いたいことは口にせず、全てはご自分の胸の内ひとつに納めていらっしゃるという印象であった。あの最後にお会いした日には、私は天涯孤独になったのよとも仰っていたが、だからどうとは仰らず、事もなげな話しぶりであった。
何かもっといろいろのことを先生から伺っておきたかったという気持ちが湧くのであるが、あら、私は俳句に全て言い切りましたよと答えられるのではなかろうかと、そんな気もするのである。
選後鑑賞 亜紀子
気嵐に総員見張る操舵室 平石勝嗣
北国の冬、気温が下がり且つ風の少ない静かな朝、海水の温度と空気の温度差から水蒸気が冷やされ霧となりまるで温泉の湯気のように濛々と立ちこめる現象を気嵐(けあらし)と呼ぶ。昔、カナダの厳冬期に市内を流れる川面から上がる白煙とも見えるこの霧を見て暮したが、当時は気嵐という言葉は知らなかった。立ちのぼる白い霧の量はかなりのもので壮大な景色であった。掲句は船舶走行中のこととて、呑気なことは言っておれない。操舵室の乗組員全員で目を凝らす緊迫感はさもありなんと納得される。作者は南国串木野の人であるが、漁船の俳句をよくものされているので、これも北方での漁のことかと思われる。
凍滝に行く道も凍てたぢろげり 武藤ふみ江
寒中吟行会であろうか。滝が凍ったと聞けば、氷結して時も閉じ込められたかのような瀑布のさまを物見に行くのが俳人だ。滝へ続く山路は羊歯の茂る常湿った道であろう。季節が違えば緑の涼しいところであるが、今日は足場も凍って危なきことこの上ない。たぢろげりの語がこの場の情景を伝えてくれる。果たして皆無事に氷瀑を見ること叶ったであろうか。
水掛け不動忽ち頭より氷りけり 根本ゆきを
水掛け不動といえば、大阪の法善寺が有名だ。掲句の不動尊の頭はあっという間に氷り付くというのであるから、寒い地のお不動さま。作者は福島の人。猪苗代湖岸の樹氷「しぶき氷」も思い浮かぶ。お不動さまに願を掛けながら水を掛けるのであるが、そもそも水は供物の意であるという。また浄水を掛けることで餓鬼の乾きをも救う仏の慈悲を示しているとも。あの震災から三年を迎えようとしている。
入院や母の綿入荷に加へ 岡田貞子
娘のために母が手ずから拵えてくれた綿入れ。母親は既にこの世にはなく、自分も綿入れも年経てきた。エアコン完備の病院に果たして綿入れが必要かどうかは分らぬが、心細い身の支えとして荷の一つに加えたのである。
焼芋屋我がふるさとの訛りあり 千葉フミ
曵き売りの焼芋屋が軽トラックで街を回っている。スピーカーで「ほっかほかの」と流す宣伝は録音テープ。始終同じ調子である。ちょいと試しに呼び止めてみれば、運転席から出てきた親爺さんは我が同郷の人。久しく耳にしていない、自身でさえめったに使うことのない訛り言葉。思いがけず懐かしさひとしお。
瓢湖まつり撒き餌に鴨の犇けり 阿部琴子
新潟県阿賀野市にある瓢湖はラムサール湿地条約にも登録され、ハクチョウや鴨の飛来地として名高い。ヒシ、マコモ、ハス等の植物が生育しており水鳥の他にも多様な生物が観察される。野性のハクチョウの餌付けが日本で最初に行われた地だという。ここでは町起こしのイベントとして四季おりおりに祭りが開催されているようだ。二月初旬の祭りはハクチョウや鴨が主役。ハクチョウたちは日中は田畑に採餌に出ているので、湖に観光客の集まる時間帯は鴨が多いようだ。手厚く保護された地の鴨たちは安心しきって撒き餌に集合。
豚の子の耳は日の色下萌ゆる 井上裟知子
子豚は童話の主人公を連想させて可愛い。日の光を透くようなピンクの耳の色。辺りに緑萌え初むる頃、子豚たちはこれからどんどん育っていくのだ。