小さな刺激 亜紀子
意図せぬ折々の事情が何となく重なり、宿泊を伴うような遠出が困難になって十年ほどになった。日々の暮らしに気を取られるから、だから何なのと振り返ることもないのだが、ここで改めて考えてみた。
父星眠は八十過ぎても現役で診療を続ける傍、毎週末には遠く、近くと吟行に出ていた。それは幾つになっても見聞を広げ、深め、また新しい俳友との出会いや懐かしい仲間との交歓等、作句に欠かせないものだったろう。その裏での母のサポートも看過できないが、父の俳句の上ではとにかく良い刺激であったには違いない。歳をとり身体が言うことを聞かなくなるのは逃れようがないが、吟行はいいですよね、外に出ると何か出来ますよというのは我が名古屋の句仲間でも共通の認識だ。
同じ所で同じ毎日を送っているとマンネリが怖い。しかし人には出来ることと出来ないことがあるのは厳然とした事実であるから、出来る中で最大限の努力と工夫が必要なのだろう。そもそもマンネリの自分であっても、その周りでは季節は巡り、世の中は変化しているのだから、目を離さないことが肝心なのだ。わかっちゃいるけど、でもなあという気持ちは湧く。目が曇っているのかもしれない。
幸い足が丈夫なので今は車も自転車も止め、もっぱら歩くことを日課にしている。買い物に出る際には隣の徳川園を抜けて行く。諸々の花のほころび、木の実の落ち始め、囀、初燕、小鳥来る時、初蝶、初蟬、蜻蛉、毎日通り抜けして季節のさきがけを見つけた時が楽しい。時間が許せば市内の少し遠い公園や緑地に足を向けてみる。渡りの鳥の中継地になっており、思いがけず珍しい野鳥に会えることもある。大抵大きなプロミナやカメラを構えた「鳥屋」さんたちが口コミで集まっていて色々教えてくれる。
公園や緑地でなくとも道端のちょっとした草叢も興味深い。街路樹の根本周り、わずかな土のスペースでは住民が草花を育てることができる。皆が勝手気儘に色々生やしているので統一感は皆無で、そこがかえって面白い。突然白い彼岸花が一斉に咲き出したり、百日草が飽きもせず開き続け蝶や蜂を呼んでいたり。真冬でもタンポポや薺が咲いているし、菫を見つければ嬉しくなる。
引っ越しのおかげで庭がなくなって四年になるが、ベランダは緑で所狭しとなった。どうやって見つけるのか、七階まで虫が寄って来る。キアゲハ、ナミアゲハ、ウラナミシジミ、ヨモギエダシャク、我がベランダで卵を産んだ同志。キアゲハの幼虫は移動中を誤って私が踏みつけてしまい、残念な結果に終わったけれど。ベランダ越しに公園や街路の木々の季節の変遷も見渡せる。この夏の猛暑のせいで紅葉は全体に遅れているように見え、色づく前に枯れ落ちてしまった葉も多いが楽しみはこれからだ。
娘たちからのライン動画も楽しみの一つ。小春の磯での釣果を見せてくれて、美味しくいただきましたとコメントが届く。カナダの郊外都市にいる娘からはこの季節になると「今年も来たよ」と朝の散歩の途次の小川に身をくねらせるレッドサーモンの動画。誰もいない小さな池の真中で小さく輪を描く水鳥。一瞬自分もそこに居るような錯覚。まあ、実体験ではないけれど、多分身近な親しい者の体験だから一層実際に近いように感じられるのだと思っている。同じような動画をネットで見つけても、投稿者を知らないと仮想現実という感覚だ。そういえば橡集にも遠く家族から送られてくるケータイの写真や動画、良夜の月や桜を一緒に眺めているといった句が見られる。便利な世の中になった。また考えることは皆同じだなとも思う。
そう、橡俳句、毎月の投句こそは一番の刺激だった。季節の巡り、それぞれの喜びや悲しみ、あっと驚く出来事、思わず頷く小さな心の揺らぎ、出来る限り味わい尽くしたい。日々工夫できることはまだまだある筈で、見るもの聞くことから目と心を離さずに精進していこう。