渓流はあと3ヶ月で終わり(20230622)
今朝の大分市は霧に沈んだ。
年に何度もある光景、まるで湯布院のような。
風の穏やかな九州瀬戸内東岸、こんな光景は珍しくない。
もう少しで7月になる。
奥と娘は7月末の東京が楽しみで仕方ない様子、私も同じで7月上の上京が待ち遠しい。
でも7月になると自然渓流は3ヶ月で禁漁期となる。
なんとも寂しく、またあっという間に年末になる。
そうこうしている内にまた解禁を迎える。
そんな一年を繰り返し過ごしている。
らせんのように廻りながら私は年をとっていく。
腰が曲がり歯も抜け落ちて、本流に立っていられなくなる。
目も見えず耳も聞こえず、動けば痛みに蝕まれる。
一日中じっとしていることが多くなり、ついには寝たきり、そして眠るようにこの心臓が止まる。
私はあとどれくらい解禁と禁漁のらせんを辿れるだろう。
でもたとえ今年がその最後でも今できることを精一杯していこう。
ヒトの死には二つある。
一つは客観的な死でもう一つが主観的な死。
前者は自分以外の死で、他人が苦しんで死に朽ちて骨になるのを目撃する。
後者は自分自身の死で、しかし死を迎えながら苦痛も意識も遠のき、心臓が止まる直前に眠るように意識を失う。
つまり主観的な死は誰も体験も知ることもできない、言い換えれば「誰一人として死ぬことがない」のだ。
もちろん客観的には明らかに死んでいる、しかし当の御本人からすれば「死んでいない」なぜなら自分自身の死を知ることができないからだ。
そうすると少しややこしいことになる。
誰から見ても死んでいる「私」は死んでいることを知り得ないので「生き続けている」ことになる。
極論すれば主観的に「私は死なない」のだ。
そう考えれば「死」を怖れることはなくなる。
でも決定的なことがひとつ。
それは見通しがかわること。
5年先10年先の計画が立たなくなる。
でもそれなら今日一日の出来る限りの計画をまずきちんと実行することだけに集中すれば良い。
つまり「今」が大事なのであって、この次の瞬間など誰にも判らないのだから、わずか1秒後のことを心配してもしようがない。
私たちの持ち時間は実は「今この瞬間」だけであって、そのあと先は何もないのだ。
だから今この時を大事にする。
私の「今この時」の使い方。
"さて明日何しよう"
もしかしたらバカバカしい時間の使い方をしているのかもしれない。