Nonsection Radical

撮影と本の空間

背なで泣いてる

2012年09月13日 | Weblog
どうしてこうも皆んな背中に何か背負って生きているんだろう?
もっと自由に自分の事を自分の基準で考えるだけでイイじゃないかよ。
自分の事を他人の言動で計ったり、他人の言動を自分の基準にしたり、自分という絶対値で自分を観ずに、相対値で自分の事を観るから、そこに妬みや恨みつらみ嫉み怒り悲しみしか生まれてこないんだろ。
自分を自分の決めた基準の絶対値で観れば、それが自分の”価値”だろうに。
その”価値”が低いのなら、それは努力が足りないからかもしれないし、才能がないからかもしれない。
少なくとも他人の価値とは関係のない絶対的な自分の価値なのだ。
その価値が低いからといって、あるいは高いからといって、それは何も問題ないじゃないか。
そういう自分をいとおしいと思わないのか?
ダメな自分をカワイイと思わないのか?
ダメな自分をダメなヤツめと受け入れないのか?
努力してもダメな自分じゃダメなのか?
ダメなのは自分が自分の為に行なわないで、他人と比べる事じゃないのか?
比べても自分の”価値”が上がるわけでもなかろう。
国や家族や他人を自分が背負っている気分になどならずに、自分が自分の為に自分に向かって生きていけばイイじゃないか。
そうすれば時には他者に対して何かしている事になるかもしれないし、世の為になっているかもしれない。
でも、自分が自分の為に自分の”価値”を自分で計らないのなら、イイ事をしている気分でいても、結局自分の”価値”を他人に推し量ってもらおうとしているだけの事にしかならず、その評価は常に自分の価値観とは合わずに、他者に対して不満を持つだけの事になる。
どんなに自分が何かを背負って生きているんだと粋がってみても、背中の唐獅子牡丹は泣いているんだ。




北九州市門司区旧門司1丁目8から


大須赤門通商店街 名古屋市中区大須
コメント
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