ぼくの近代建築コレクション
東京の都心と下町を中心に、戦前に建てられた古い建物の写真を投稿していきます。
 




溝口荘。足立区千住柳町23。2012(平成24)年7月14日

千住柳町といえば千住遊郭があった町で、日光街道の千住宿辺りに散在していた貸座敷を、1919(大正8)年に移転させたのが始まりである。あらかじめ土地を区画した新開地である。千住柳町の整然とした区画はそのときのものなのだろう。平均して1戸が100坪だった。(『足立風土記稿・地区編1千住』〈足立区教育委員会文化課編集、平成16年発行〉参照)
1937(昭和12)年には業者は57軒、娼妓405名(『「ぬけられます」あちこち廓探索日誌>北千住』参照)だったという。
戦争中は町の南部が建物疎開で削られたようだが空襲での焼失はまぬがれた。戦後はカフェー調の建物に建て替えたりして、戦前の和風旅館のような建物と戦後のカフェー調の建物が混在していたらしい。
1956(昭和33)年、売春防止法施行で「健全な学生街に生まれかわって、他にみられるように青線化することもなく、そっくりそのまま学生下宿屋に転向した。」(『改定東京風土図 城北・城東編』〈サンケイ新聞社編、現代教養文庫、昭和44年、560円〉)

そこで写真の溝口荘である。溝口荘は確かに学生相手の下宿屋だったのだろうが、それ以前には娼家だったのかどうか。場所はニコニコ商店街に近い遊郭の裏門の方だが、その間近である。goo古地図の昭和22年と38年の航空写真を見ると、両方とも同じ建物のようだから、溝口荘は戦前に建てられた可能性がある。玄関が3か所もあるのが気になる。ネットでは大方が娼家だったことに否定的で、要は見た目が簡略に過ぎるということだろう。ぼくも確信はもてない。


溝口荘。2012(平成24)年1月15日


『東京懐かしの街角』より

左の写真は『東京懐かしの街角』〈加藤嶺夫著、河出書房新社、2001年、2500円〉からお借りした。キャプションは「昭和47年8月●千住柳町24」。右の家の玄関の横に「開花荘」と書かれている。1969年の住宅地図に当たってみると、開花荘は25番地なので、キャプションの24番地は撮影地点をいっている。写真左の家は1969年の地図では「八爪?(読み取れない)学生寮」で26番地になり、溝口荘の向かい側だ。戦前の娼家はこういう造りの家が標準だったのだろう。

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